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wadyのケインパトスクロウへの道

小説とか。更新は中断中

物語構造論と記号論で読み解くセンター国語

2017-01-01 01:12:46 | 創作論
明けましておめでとうございます。
本年度初の記事は2011年度センター国語物語文加藤幸子「海辺暮らし」を物語構造論で解いてみようという試みです。さあ、倒れるのは私か、出題者か。真剣勝負です。

さて、まずは使用する武器について紹介しましょう。
・物語構造論
wadyが主張する、「テーマ性物語登場人物変化日常回帰性仮説(仮)」と記号論の組み合わせにより、主に物語のテーマを明確化しようとする理論

今回取り扱う小説はセンター国語の中でも伝説級の難問、もとい悪問です。それはおいおい示していきますが、まずは問題文を読んでいきましょう。
その前に語句をやっつけます。

問一
ア つくづくと 同じ単語の繰り返しで成り立つ語句で主体の感情は含まれない→④
イ 躍起になって 一発。むきになって→⑤
ウ 頓狂な声 素っ頓狂とも。アラマア!と言う感じ→②

さて問題文。問六以外は基本的に自由記述のように考えてから選択肢と参照します。

問二
傍線部A「教育のし甲斐もあるというものだ」とあるが、この時のばばあの心情はどのようなものか

問三
傍線部B「新任の"市役所"の顔色が変わった」とあるが、それはなぜか。

問四
傍線部C「アナタノ楽シイオ話ヲモット聞キタイノデスガ、残念デス」とあるが、この部分の説明として…云々

問五
84行目~105行目が持つ意味は何か

問六
この文章の叙述について適切な説明を以下から二つ選べ


以上前準備終了です。
次に構造分析に移ります。この小説文のジャンルは何でしょうか。
これは、ばばあを主人公とした日常物です。やったね、みんな大好き日常物だ!

はい、冗談ではありません。この作品そのものは恐らく公害被害を大事にしないように玉虫色の対応をする役所を尻目に生きていくお婆さんの日常を描きながら、何らかの生活の変化に焦点を当ててその原因(すなわち公害問題)に光を当てる構成になっているのでしょう。ところが、残念ながら登場人物の変化が抜粋部分に殆どありません。その為、テーマ性を語ることが非常に困難です。よってこれはドキュメンタリー型や日常物と解釈するのが最善でしょう。ばあさんの日常、開幕です。


さて、物語構造論としては日常回帰性という性質がある筈です。日常を生きる主人公に何かの非日常が訪れ、やがて日常に戻る。それに従うと、抜粋部分はAパートとBパートに分けることができます。

Aパート ばばあ生きる。ばばあの元を公務員Aが訪ねてきてお話しする。帰る。
Bパート ばばあ生きる。猫騒ぐ。猫ぐったりする。そのままいつまでも座っている。

Bパートのラストが大事ですね。いつまでも座っていた、つまりこれは猫が死んだことを意味します。そうでないと永遠にはそこに居れないでしょう。潮も満ちるし。

それはまあ無いにしても、静的なイメージで終わっているのは注意です。

また、全体としての語り手の人称に注意してみましょう。三人称に見せかけた、ばばあの心情も語っちゃう系です。非常にたちが悪い。ただし、Aパートのばばあと公務員Aの会話パートだけは厳密に三人称です。つまり、この部分以外は一人称的嘘が混じる可能性があるので論理性に注意が必要です。


ではAパートに付随する問二、問三、問四から考えていきます。
ここで登場人物は二名。ばばあと公務員。それぞれの行動原理は、ばばあ→公務員「ごたごた煩く言わないように参らせよう」、公務員→ばばあ「立ち退いてもらおう」。そしてその行動原理を変化させられたのは残念、公務員Aの方でした。
特に秀逸なのは、相手の言い分を利用した反撃。公務員の迂闊さもあってばばあが場慣れしている様子が描写されています。そして立ち退き要求にロボット化して気力を削り追い返す。結果として、「市の意向を伝える虚しい努力の末に、梶氏は落胆しきっ」たとあるので端的に言ってばばあの勝ちです。

問二
教育しがいもある→役所側の主張を退けられるというばばあの余裕が表れています。前任者の存在もありますし、実際問題今回もばばあはやり遂げた。
解答例としては「公務員の気力を打ち砕くのを楽しみにしている」などでどうか。
→④

問三
顔色が変わった、つまり自分の失言にビビっているわけです。ばばあを舐めて掛かるからそうなるんだ。
解答例としては「市としては公害の実態を住人の健康上直ちに影響はないとして大事にしたくないのにも関わらず、自分から工場の存在にわざわざ触れた上に海産物に化学物質が含まれていて接触に適さないと言ってしまい、それをばばあに吹聴される事態になりかけ、そうなると役所の見解と異なることを言ってしまった自分の立場が悪くなるから」でどうか。
→①

問四
さて、出ました。悪問その一。これまで見たように、基本的にばばあは余裕です。これまで通りのやり方で若造を捻ろうというところ。と言う訳で、解答例としては「ばばあは既に若造から一本取ったので、後は平行線の議論には飛び込まずだんまりを決めて対話を終わらせようとしている」でどうか。
ポイントは、ばばあの戦略は相手の気力を削って帰らせることです。当然役所仕事なので時間はばばあの味方。しゃべらなくてもばばあに損はない。かなり合理的な戦略です。
しかし、選択肢にはこの辺りの要素が薄い。上の戦略をばばあの賢さ、と評している選択肢くらいしかないのでこれにします。
→④
と言う訳で④ですが、別に賢くはないと思います。賢いというのは前半の罠はめみたいに論理的であるべきでしょう。また、実は⑤はテクニックで消せます。即ち、傍線部Cには謝罪の意味が無い。

さて、Bパート。冒頭から暗い。「太陽が町の後ろに、ひきずりこまれていく。」暗い、暗すぎる。「空気が枯草のように黄ばむ。」枯れてない、日光の加減や!老眼か?
このように、エセ三人称は物理的現象にも心情を押し込んでくるので迷惑です。
「七本の煙突は、ごく薄い最後の息を吐くと、錆色になって凍りついた」おっと記録的寒波か、氷点下か?煙突の色変わったんか?そもそも煙突は息してないぞ。これは所謂擬人法と言うやつです。
「太陽の死んだ空から鉛色が注がれて」。いや待て、日はまた昇る。太陽は死と復活のシンボルだぞ、悲観的すぎないか。
以下不吉な言葉がひたすら並びます。注意点としては、これらはエセ三人称、すなわち全部ばばあに起因したものの見え方です。ばばあ疲れてるんかな。元気出して!

さて、登場人物はばばあと猫です。夜の帳が降りる中、猫の鳴き声から非日常スタート。
「今まで聞いたことのないほどの物憂げな声」とは。どんなだ。
水大っ嫌いのはずの猫が水に囲まれた陸地で異常にジャンプしまくる。その後二、三回小さくバウンドしてグッタリ。近付くと身を起こしてどっか向いてる。ばばあの「視界が次第に狭くなり、中心に細い光のリボンが残った。闇を縦に切り開いたその光の中には、猫だけがいつまでも坐っていた」。どうしたばばあ、眠いんか。そして闇が縦に切り開いてるってことはばばあの瞼は左右開閉式やな。もしくはばばあ鳥か。瞬膜発達してるんか。

さて冗談はこのくらいにして、少し真剣に考えましょう。まず、エセ三人称と呼びましたが、これが地の文なのに正確でない小説の怖さです。太陽は引きずり込まれていない。地球の自転です。煙突も暗くなるにしたがって入り身が変化したのを凍ったと表現しただけ。問題は、これらBパートの色覚的表現の大半がばばあの心情を反映した語りになっていること。公務員の若造くしゃくしゃにしてたのと比べたら弱気になっています。また、その一方で、最後の最後で突如厳密な三人称になります。また、鳴き声についてもそう聴こえた、というにすぎません。

と言う訳で、物理的な登場人物の変化としては、猫が急にジャンプした後倒れて起き上がって海を見つめた、ばばあの視界が狭まった、しかありません。最初に断った通り、この抜粋部分は日常物なのでテーマは無い。かといって、普段の猫が海に囲まれてジャンプする習慣があるのかないのか情報が無いので、比較しようがない。
ここ嫌らしくて、猫が水の中でジャンプしていたら明らかに異常だったのに、水に囲まれた陸地なのです。たまたま水の近くでのんびりしてたら満ち潮で逃げ場を失ってパニクッてジャンプしたけど体力尽きて諦めた、とかの解釈も出来るわけですね。情報が無い。とにかくばばあの視覚異常と猫の異常行動しか読み取れない。原因が読み取れないのです。え?公害?やだなぁ、役所の人が直ちに影響ないって言ってたでしょ!

問五
以上のように、Bパートはエセ三人称と擬人法の波状攻撃、ばばあの視覚異常、猫の異常行動です。もう原因はあれとしか思えないのですが、なんと!設問にこれが無いのですね。
解答例としては
「夕暮れから夜にかけた時間に、太陽が沈み、生き物が活動を停止していく様を擬人法的に死と結び付け、普段とは違う飼い猫の行動やばばあの視覚異常を描くことで二人の体に変化が起こっている様子を不吉さと共に表している」

それで結論から言うと⑤が正解なのですが、これがもう酷い。
「太陽、工場、チゴガニ、猫についての繊細な視覚イメージを伴った表現の中に死を連想させる要素がちりばめられていることで、干潟に生きるばばあの身に起こるであろう事態が暗示的に描かれている」
一つ一つ見ていきます。繊細な視覚イメージとは、恐らく対象の色を細やかにとらえて描写している、と言いたいのだと思いますが、太陽についての繊細な視覚イメージが本文中に見当たらない。その中に死を連想させる、と書いてあるがぶっちゃけ死って書いてあるし、連想と言えるのか。直接結びつけている。ばばあの身に起きるであろう事態とは何だ。現在進行形でばばあ体やばいんだから、起こるであろうも何もないよ。

と言う訳で、解くとしたら消去法しかない。①生き物を救う×(言及無し)②猫のジャンプがばばあの役所との戦争に重なる×(ばばあはもっと余裕)③淘汰、過酷な自然のありよう×(死の外的要因が描かれていないので、淘汰と断定するのはダメ)④工場の停止が生き物を安堵させた×(本文中で安らぎを得たのは鳥だけだし、それも人の退去に従って)

問五は論理的な解法の通用しない悪問です。

問六
最後の問題ですが、これも消去法で解くしかないですね。
①公務員Aがヒーロー ×
②公務員Aを擬人法で指し示す ×(擬人法は人でないものを人で表す技法で、公務員は人間です。血の通った人間です)
③ふたりの関係性の変化 ?(かなりグレー。公務員とばばあ別にお友達じゃないし。ただ、公務員が居住まいを正して改めて発言したという意味ならまあ)
④ばばあ責める、公務員責められる ×(互いの主張は平行線なだけで、どちらがどちらを責めるという話ではない。ばばあ攻めてたが、責めではない)
⑤これが問題。エセ三人称→三人称に変化した箇所。ただ、ばばあと猫の心的距離の変化はグレー。地の文がばばあから離れただけなので ?
⑥抽象的に示す ×(抽象の語義に反している。抽象的とはなんとなくとかぼんやりとかそういう意味はない)


以上のように、2011年度が高難度だった理由は明らかです。まず一つ、テーマがこの部分にないから、作問も選択肢も非常に曖昧であること。次に、小道具として物語を方向付けるはずの表現技法としての記号が殆ど無いこと。強いて言えば猫が好物にしてるっぽい汚染された貝の佃煮か。しかし、これも飛びついただけで食べた描写が無い。記号足りえない。
そして、消去法でしか解きようのない問題に、正解と呼べる選択肢が無い事。

でも、これをありもしないテーマを自分で作って読んだり、公害問題を直接的に結び付けて読んだりと言った、物語文を読みなれているからこそやってしまいがちな誤りを、構造とテーマを明確化させることで防げるのではないか、というのがこの問題を解いた感想です。

物語構造論の強さは、ジャンル分析によりテーマの有無を探れる、人称を分析することで地の文の信用度を判別する、登場人物の変化を読むことでその原因と結び付けられる、だと考えています。特に、小説特有の叙情的な記述に左右されず論理構造に着目できるのではないでしょうか。
これを生かして、今後は玉虫とスピンスピンスピンを解いていきたいと思います。

以上、お読みいただきありがとうございました。

登場人物のリアリティについて

2016-11-18 21:30:12 | 創作論
本記事については創作論にしようかオタク論にしようか迷ったが、導入がオタク論、主題は創作論という事で書いていきたいと思う。


第一節 オタクは原理的にリア充足りえないのか?

出発点は、オタクは現実に即していない虚構の女性像に慣れ親しんでいるが、そんな女性が現実には居ないためにオタクは現実の女性と上手く付き合っていくことができない、という言説に対する反論的な見解である。
これは先日購入した本「戦闘美少女の精神分析」上で展開されている多重見当識という概念を援用したものだ。
多重見当識とは簡単に言えば複数の世界認識を持つという事で、虚構作品と現実を混同する事なく、別物としてそれぞれを自分に近しいものと認識することである。「オタクは虚構コンテクストに高い親和性を示し、現実と複数の虚構性解という多重見当識間を自由にジャンプできる」という同書の言に従うならば、オタクはアニメのヒロインを偶像化しつつ、一方で見当識を切り替えることで現実の女性ともまっとうに付き合う事が出来る、という見解である。
言い換えれば、虚構作品上の女性キャラクターがいかにツンデレであれクーデレであれ現実には居ないような髪の色や胸の大きさであれ、そして彼女たちに如何に心から心酔していようとも、オタクは視点を切り替えることで現実世界でも問題なく生活しうる。本文中ではその根拠として、彼女持ち、妻帯者のオタクがほとんどであるという事情が述べられている。


第二節 でもその本古くない?彼女出来ないオタクってよく聞くやん

しかし、この分析対象となったオタクは10年以上前のオタクである。現在はどうか、と考えた時、問題が発生している可能性がある。
同書中ではオタクは一概に高年齢であるという指摘がある。妻帯者、彼女持ち。頷ける。翻って、私がオタク入門書として涼宮ハルヒの憂鬱を手に取ったのは中学一年生の時だった。これをもってして即座に先に述べた説が崩壊するとは思えないが、かつての高年齢層オタクが現実の女性をある程度知るのと平行して虚構女性に親しんでいたと仮定した上で、現在のオタクが現実の女性を知る前に虚構女性に親しんだと考えるとどうだろうか。
更に、残念ながら身体感覚が伴っていないので確たることは言えないながらも、10年前と比べてオタク文化における虚構女性の虚構性は増しているのではないだろうか。

以上を踏まえ、前節で示した問題に立ち返る。もしオタクが虚構キャラに親しむ一方リアル女性を苦手にするとしたら、どんな原因が考えられるか。
仮定に仮定を重ねた不確かなものであるのは承知で、私は次のような仮説を唱えたい。

サブカルにおける虚構の女性像が独自進化していった結果リアリティを喪失し、如何に多重見当識を持ったオタクといえども、両者の違いに適応不全を起こしてしまうのではないか。カルチャーショック的なものと言えるかもしれない。そして低年齢化が追い打ちをかける。

ここで私は源氏物語に言及した。これは源氏物語に登場する女性たちはリアリティを持って描かれていたという認識に基づくもので、もし本当にサブカルにおける女性像がリアリティをあまりに失いすぎているのなら、かつリアリティを持った女性を描くのなら、紫式部のような女流作家による作品こそがその特効薬になるのではないかと考えたからである。


第三節 作者の性別がリアリティに関係するのけ

ここまでが議論の導入となったのだが、次の話題は現実的なキャラクターの創作に作者の性が同じである必要があるのか、についてである。
私の見解は「最終的なリアリティの質が作者の観察力と描写力に依存することは前提としてあるが、それでもなお本質的な身体感覚やコミュニティにおける立ち位置(人生経験)といった異性では体感しがたい点は存在しているはずなので、それがキャラ構築にどこまで利いてくるかで決まる」という物である。踏み込んでしまえば、同性に出来て異性には難しいリアリティは存在しうる、多分するという立場。

ここで問題点が二点浮上する。

まず一点目は、ならば同性のキャラクターであれば、自分とは違う生活サイクルを送っているようなキャラクターでもリアリティを持って描写できるのか、という問題である。これについては、取材すれば何とかなるが、想像だけでリアリティを出すことは難しいと思われる。

それを踏まえた二点目は、ならばSFやファンタジーや、取材対象が完全に虚構であった場合は、結局想像のみでの描写となり、リアリティを待たせることは出来るのか、という問題である。
これは創作の姿勢にも絡んでくる重大な問題であると私は思う。端的に言えば、プロアマ問わず、作家は自分の作品に対しどこまで責任を負うかという問題だ。



第四節 作者の責任ってなんぞ

まれに創作において作者が明らかな事実誤認をしたり迷信を丸呑みしたり勘違いした結果、現実ではありえないことがその世界では平然と起こってしまう場合がある。例えば、酒と一緒にスポーツ飲料を飲むとアルコールも一緒に吸収してしまうので悪酔いする、という俗説。これは科学的には分子の大きさが違うために絶対に起こらないことである。にも拘らず、とある恋愛小説では主人公と同僚の距離を縮める小道具としてこれが使われた。
私個人としては、広く知られた俗説だから責めるのも酷だと思うのだが、ある意味で作者の想像がリアリティ皆無だったと言えなくもない。また、読者にあらぬ誤解を与えてしまう可能性もある。
と、すると、作者はリアリティ構築のため(むしろ不必要なウソを吐いてしまわないように)、最低限の下調べと論理構築をするべきである。別にその世界の身で通用する代物でも構わない、そう、前述の恋愛小説世界ではアルコール分子と水分子が非常に似通った性質を有している可能性だってある。或いはSF作家の技量などはまさにこの辺りのうまいウソ科学の構築に掛かっている場合さえあるのだ。


第五節 リアリティに話を戻して。リアリティはなぜ必要か

勿論のこと、どれだけ資料を集めても、結局作者が読み込めなかったり知識が不足することでリアリティがうまく構築されないかもしれない。また、インプットがうまくいったとしても、それを出力するのは筆者の想像の形を取らざるを得ないので、リアリティという物は作者の想像にのみ依ってしまうのは動かせない事実である。
そして何より悲劇的なことに、調べものには限界が無い。作者には物理的制約がある。どこで折り合いをつけるべきだろうか。

私は、結局は何を描くかだと思う。
例えば男女の性差に深く根差した問題を扱うのだとしたら、その両方についてリアリティが必要である。無ければ文字通り、お話にならない。
半面、冒険活劇におけるお姫様などでは、お姫様が女性である葛藤などを描くことはおそらく少ない。よって、お姫様のリアリティについては特に言及されないに違いない。
勿論、登場人物全員、世界観全てがリアルならそれに越したことは無いが、小説などでは特に、ある程度登場人物を記号として扱うのならばどこにリアリティを求めるかは表現したいテーマによるだろう。

最終節 結局二次元美少女のリアリティはどうなん

そう考えてみると、オタク文化内で女性像が独自進化を遂げたというのも言い過ぎなのかもしれない。現実からかけ離れたとしても、それはリアリティが要請されなかっただけで、(ある種の自家引用を繰り返した結果だとしても)創作物が別段青少年の育成を目的として作られていない以上は相対的に受け手のオタクたちのリテラシーの問題に帰着されうるのかもしれない。多重見当識が機能として病んでいる可能性もあるのだ。虚構への逃避はその本義ではないのだから。

だが、それでもテクニックとして主人公への同一視や理想的環境の提示によって没入を導くような技法が使用されている以上、創作側も意図しないウソは吐かない、受け手側も虚構内の情報を丸呑みしない、という双方の歩み寄りが行われるのが一番健全であると思う。

追記
と言う訳で、個人的にはエロ漫画やエロ動画について最も不満なのは、避妊に対する意識である。物語の主題に影響が無いなら、ゴム着けるシーンの描写すればいいのにといつも思っている。

一人小説における嘘と本音

2016-10-20 22:55:57 | 創作論
創作論のコラムとして少々。

小説を書くときに主人公というか、地の文の視点をどこに置くかで一人称小説と三人称小説に分類することができる。ちなみに二人称小説が少ない理由ははっきりしていて、書くのが難しいからではなく、視点をたくさん用意するのが難しいからだ。具体的には、美少女ゲーム的なノベル式に進行するシナリオで主人公が全くしゃべらない形式は二人称に当たると思うのだが、世界の描写と主人公の描写を全て他者に委ねる事になると、象を多人数で見ずに触って正体を探る話を考えるとお分かりと思うが、とにかく話者の数を増やして情報を増やさないと成り立たない。これは意外でもなんでもなくしんどいことである。実験的に機会があったら私も書いてみたい。

閑話休題、地の文と台詞について、一人称と三人称での違いとは何ぞや、という話に移ろう。それは発言者の感情が主観的に語られるか否かに尽きる。発言の裏側に存在する思考が本人の口から読者に開示されるのだ。
日常生活を思い浮かべてみよう。例えば、女性の方が仲の良い男性に少々お願い事をしたとして。この時女性は男性の返事から心中を正確に推ることは原理的には不可能である。それを踏まえて例を考えてみる。

例 三人称

A子はBにその場所への同行を頼んだ。Bは「しょうがないなぁ」と言ったが、まんざらでもなかった。

A子はBにその場所への同行を頼んだ。Bは「しょうがないなぁ」と言ったが、面倒くさかった。


三人称小説において地の文は作者=神様なので、上記の文に虚偽が混じる要素はない。やはりA子はBの心中が見えないのだが、読者にはわかるわけだ。神様がそういったのだから。

例 一人称

A子先輩は僕にその場所への同行を頼んだ。僕は「しょうがないなぁ」と言ったが、まんざらでもなかった。

A子先輩は僕にその場所への同行を頼んだ。僕は「しょうがないなぁ」と言ったが、面倒くさかった。



さて、何が違うかと思われたかもしれない。ところが、である。一人称小説において地の文は登場人物に過ぎないので、虚偽の入る隙間なんぞアリアリなのである。恐ろしい事に。信じられるのは、地の文のうち、他人を描写したものだけだ。(というのも、この部分だけは三人称小説同様事実を担保しておかないと小説が論理構造を失ってしまうから。が、第三者が自分のことを語る台詞についてはその限りではない。裁判物で記憶違いしていた人物とか、嘘ついていた人物とか。ただ、一人称小説で主人公がわざわざ言及することは作者が表現しておきたいことに一致している、筈である。)
具体的には、特に一人称の例二つ目。この後A子先輩の身に何か起こったりしたとき、違う、あの時本当は自分はめんどくさくなんてなかった、照れ隠しで云々、という言い訳が成立したりするわけである。
更には、この地の文なのに嘘、を使って登場人物に性格付けを行ったりさえできるので、実は一人称小説の大きな強みはここにあると言っても過言ではない。語り手に、意図的な嘘を吐かせられるのだ。

この表現法が私が知る限り最も効果的に使われたのが伊藤計劃の虐殺器官。これについては、伊藤計劃、虐殺器官、嘘。などで検索すると当該議論にたどり着けるはずである。

この表現技法は本当に使い勝手がよく、というのも登場人物の変化に関連付けて感情、思考、行動原理が変化したことを強く読者に印象付けることができるからだ。

これを私は一人称小説の嘘、という風に呼んでいる。世の中には一人称小説が沢山あるので、もしこれから読む機会があれば、気を付けてみると面白いかもしれない。

以上、小コラムではありますが、お読みいただきありがとうございました。

追記
小説において、一人称と三人称を混在させることは、よほど意識的にしない限り混乱を生むと思う。何が客観的事実で何が主観的情報で何が神託確定情報なのか、一発で変わってしまうのだから。表現技法という意味で、人称には非常に大きな意味があると私は考える。

「ここではないどこか」物語について

2016-10-18 01:42:02 | 創作論
いよいよブログ開設4週間目である。中々更新できなくて恐縮なのだがそれでも毎週200訪問程度して頂いているようで感謝に耐えない。
正直、ツイッターのフォロワー様数人にご覧頂けたらな、というくらいの物だったので、嬉しい誤算というか。兎に角続けていけるよう頑張りたい。

本日は、明後日の空を望む第三話更新に先駆けて、小論の投稿をしてみる。テーマは表題の通り、ここではないどこか、としてみた。多分造語であり、取り止めのない話になってしまうだろうが、空を望むシリーズ、海を望むシリーズの所信表明と簡単な概論を兼ねてつらつら書いておくのでお付き合いいただきたい。

さて、物語創作論の方でも散々申している通り、私は物語のテーマは登場人物の変化にこそ現れると考えているのだが、ではその登場人物の変化にはどのような要因があるだろう。
外的要因により変化することが考えられる。例えば、平穏な毎日を過ごしていた所で災難に見舞われる場合。突如学校が休校になったかと思えば世界が終焉を迎える場合。
勿論、この外的要因をテーマ性のある事件として軸に据え、物語を展開することになるのだが、ここで私は潜在的に登場人物の方にも変わりたいという欲求を用意しておきたいのである。
内的欲求としての変化要因を重要視するか否か。作劇の好みのような物だろうか。将棋でいう居飛車振飛車戦法、囲碁でいう模様実利作戦のような。これはもしかすると、自分自身の心の持ちようというか、作者の世界観が立表れてくる部分なのかもしれない。

そしてその際に特に私がよく採用するのが、ここではないどこか構造である。端的に言えば、○○を望む少女シリーズの大テーマは全て「ここではないどこか」を遠く望む少女の物語となっている程だ。「ここではないどこか」が意味する事柄は様々である。自身の現在の境遇に対する反発、周囲への不満、自己否定、あるいは平穏すぎる日常への閉塞感。海を望む少女では自己否定と閉塞感、空を望む少女では環境への諦めとやはり閉塞感を意識して舞台設定をした。
自分の信念として、その「どこか」とは「ここ」と必ず地続きであり、であるからにはそのどこかへ到達するためには、自分の足で一歩一歩進んでいかなくては決して到達できない、という物がある。肯定的に言うならば、どんなに遠くを望もうともそれを目指して努力をすればいつか到達できる、例え出来なかったとしても現状を変えることはできる、という希望でもある。そして、いやだからこそ、これらの物語では自らを変えようと登場人物が決心した時、初めて状況はが動き出す。走り出したその人物を周囲の人間は支え、導き、送り出すことだろう。だから野分さんは帚木君に導かれ、隣に並び、やがて前に出て海を望むし、羽衣ちゃんは悟と閉塞感を象徴する黒い雲を突き抜けて空を目指すのだ。

少女シリーズは一応三作ある。まず空を望むが完結するかさえ分からないし、それどころか小説を完結させることは書き始めることの一億倍は難しいので、前途には不安しかない。だが、長い間夢見ていた戦闘機物の空を望む少女、今の自分の全てを詰め込んだ海を望む少女、失われた少女を追い求める星を望む少女、どれも素晴らしい生命力で閉塞感に挑み、自身を変革し、やがて広い世界に羽ばたいていく少女たちの物語である。自分自身でも、完結した物語としてぜひ読んでみたい。

空を望む少女、次回が導入部分の最後となる。第一章としては序盤が終了したところで、いよいよ彼女たちが何と戦っているのか、学校には行っていないのか、人類社会はどうなっているのかが少しづつ明かされる予定である。そして後に控えるは、第一章の山場、使者の訪れ。自分でも先の展開を細かく詰めていないので、楽しみながら考えていきたいと思う。

予想通りまとまりのない文となってしまったが、訪問頂いた方に少しでも楽しんで頂けるようこれからも各コンテンツの充実に努めるので、なにとぞ本ブログをよろしくお願いいたします。ここまでお読み頂きありがとうございました。

創作論3 田吾作と台風について

2016-10-07 02:01:21 | 創作論
しばらく時間をおいてしまいました。申し訳ありません。
さて、前々回の更新から続いております話題について。テーマ性物語登場人物変化日常回帰性仮説、略してテーマ性回帰性仮説というwadyが考えた物語構造論のお話でした。その検証の一環として、物語のテーマが登場人物の変化に表れる(正確には、登場人物が経験した事件等に表れる)事の簡単な説明と、回帰性の説明と、ドキュメンタリー型の説明のために、田吾作と台風という4本の連作を投稿いたしました。以下、説明と解説をして参ります。またもや冷や汗を垂らしながら自作小説解説です。自分はマゾなのだろうか……(自明)

さて、恐らく私が唱える説中の考えで一番過激なものが「テーマ性がない作品はドキュメンタリー形式をとる」というものです。創作論1の中では、登場人物の変化を作者が責任をもってコントロールしていないがゆえに登場人物の論理性が保証されえない、旨の発言をいたしました。(という事はキャラクター変化を論理的に描くことにより、ドキュメンタリー作品がテーマ性を有することは可能な筈である。後述)
物語構造論として、私は事件前の登場人物、事件後の登場人物の変化を見ることでテーマが分かり、その変化前と後は事件の解決あるいは未解決を経て登場人物が日常に帰還した点をもって判定する、という説を掲げております。故に事件が解決されても(危機が去っても、と言い換えてもよい)、登場人物が日常に変えるまでが小説構造であります。これを踏まえたうえで、本題に入っていきましょう。

まず、田吾作と台風1です。
これは読んで頂いて私の言いたいことが少しでも伝わったらいいな、というくらいに徹底的にテーマ性を排した構造になっております。具体的には、田吾作は台風で大切な家族を支える田んぼが大変な時、愚痴を言ったり雨に濡れながら祈ったりするだけで、何もしない。台風が去って奇跡的に田んぼが無傷で、喜ぶ。終わり。めでたしめでたし。
そして、たちの悪いことにこの台風であるとか(主人公を襲う事件や危機)、田吾作の愚痴やお祈り(主人公の消極的な行動や感情面の描写)を大掛かりにして、娘にも台風の中走らせたり適度に転ばせたりしながら、最後に感動の再開、青空、太陽、みたいにすれば、ハッピーエンドの心地よさだけは保証されているので、それなりに読後感も良いし、見せ方次第でかなりエンタメ性の高い作品を作ることができる点です。因縁じみた言い方をするならば、動物感動ドキュメンタリーが好きな人や、読後感やキャラ読みに重点を置く人には受けが良い作品が作れたりする。それは非常に結構ですが、やっぱりテーマが無い。もし田吾作と台風1を読んでテーマあるやん!となった方にはご連絡いただきたいとお願い申し上げます。

そして、ここからが本論に関係します。では、この田吾作と台風にテーマ性を付加するとなるとどうすれば良いでしょうか。

手っ取り早いのはバッドエンド。しかし、台風で田んぼが全滅しました。終わり。では上の改悪版に過ぎないのはお判りでしょう。その解決方法は後で示すとして、まずは奇跡的に稲が少し残っていた場合について考えましょう。台風一過、田吾作は田んぼがほぼ壊滅しているのを見つける。ここで、台風前と後の田吾作の変化からテーマ性の付与を考えます。
最初に思い付いたのは、台風と田んぼを田吾作にとっての神秘体験とすることで、それを境に彼の宗教観が大きく変化した、という状況でした。これが田吾作と台風2となります。
この設定付加により、ただの神頼みだったはずの「神様、なんだっていいんだ、稲を守ってくれたら…」ががぜん別の色合いを帯びてきますね。困った時の神頼み、というか、田吾作は普段司祭に(注)話聞いたりしている割には、切羽詰まらないと彼の信仰は表に出ないし、出たら出たでひどい言いざまであるので、当然救いも何もない。そういう話ではない。ところが、彼は現実に一度打ちのめされ、極限状態で司祭のお話の意味をようやく理解する。ステージを上った時に、初めて種もみという救いが現れる。個人的に気を付けたのは記号を並べる順番です。白い鳩は、復活と植物の象徴として登場させましたが、厳密には神秘体験をきっかけに宗教観が変化したのではなく、信仰心が変化したから鳩が現れ、神秘体験が起こった、というカラクリです。ここを疎かにすると、例えば鳩を出さない、鳩飛んで来てから説法の内容を反芻する、などとなると、一挙にテーマのないドキュメンタリーと化してしまいます。
最後、田吾作は目の色が変わり、あんなに愚痴っぽく情けなかった彼は口を真っすぐに結んでいる。これは彼の苦難へ立ち向かう姿勢を示し、台風後の苦難の日々という日常に帰還したことのサインともなっています。
以上から、テーマは「苦難を前にした個人の信仰心のありよう」、でした。
(注、司祭と神父の区別とか、旧約の白い鳩と新約のキリストの逸話とか、ごっちゃになりすぎと思った方、鋭い。そして申し訳ない。宗教面で特に主張があるわけでなく、キャラクター変化上の記号としてこれらを使用しただけなので、考証とかかなりおろそかです。)

さて、お次の田吾作と台風3,4はセットになっています。
3についてはどうでしょうか。これは先ほど示したバッドエンドですね。稲全滅。ここで、田吾作は子供を養うためにしっかりしないといけない、と決意を新たにしますが、ここで終わることは物語としてあり得るでしょうか。言い換えれば、田吾作は日常に帰還したでしょうか。答えは否です。では、非日常を日常とする、すなわち田んぼ全滅して稲が無い状態で生きていくすべを見付けたでしょうか。それも否です。よって、回帰性仮説からしたらこの物語はそもそも物語の体を成していない、ということになる。
なお、ここで被害を受けているのが米なのが作者としてのポイントで、実は農民が食べる用の作物は別にあって、そっちの被害はあんまりという裏設定があります。これを盛り込んだうえで、でも年貢を納めないと領主からとっちめられる、という新たな危機に対して主人公の活動を描く第二部が構造上必須になるわけです。今回は伏線っぽく張っておいた上の息子が農民にしておくには惜しいと召し上げられるも差別は受けて苦しんでたこと、息子と親の葛藤や制度の一大改革(江戸時代に似たような話が合った)をモチーフにすることでポリティカル・ドキュメンタリー風にしましたが、農民一揆にもできるでしょう。そして重要なのが、このように土台設定をある程度することによって、ドキュメンタリー構造に「農民サイドからの改革、身分を超える制度改革」などの近代的な問題意識を、まさに登場人物の変化を通して描くことが可能になるのです。

以上のような考えを基に、私は登場人物変化によるテーマ性、日常回帰による始点終点設定、設定無きドキュメンタリー型への反発、を重要視し、まとめて物語構造論としてこの度まとめてみた次第であります。
非常に長くなりましたが、今回は以上です。お読みいただきありがとうございました。
なお、本日うまくいけばセンター試験国語過去問物語文(2011)を入手できそうなので、その小説をこの構造論で解析、過去問回答、構造論の妥当性を示したいと思っております。創作論4として発表する予定ですので、またよろしくお願いいたします。