久しぶりの投稿となりました。60日以上投稿しなかったら出てくる広告がばっちり出ておりました。
本業の方が忙しくしばらくさぼっておりましたが、今週から段々と再開していきたく思います。
現状を整理しておくと、物語構造論の適用範囲を拡大できるかどうかという事を考えております。そこで、今回は「やおい」ものに注目してみます。
男性同士のあれやこれやの意味ではなく、本義の「やまなし、おちなし、いみなし」という構造を有する物語のことです。
物語構造論で考えてきたように、登場人物の変化によってテーマが語られるとするならば、やおいもの(或いは日常もの)はどのような物語と考えられるのでしょうか。やま、おち、いみが無い作品はテーマを持つか否か。
現段階の感覚としては、「やおいもの(日常もの)には表現形態として意義があるが、学問の対象にはならないのでは」となっています。つまり、やおいもの(日常もの)は一意的にテーマを語ることが構造上できないが、そもそも一意的なテーマを掲げることを目的としていないのではないかという仮説です。
コラムか何かで触れようと思いますが、テーマを一意的に定めることは本当に難しい事です。J・D・サリンジャーの代表作の一つ、バナナフィッシュにうってつけの日(原題:Perfect Day for Bananafish)を例に取ると、短編でありながら話が難解なため解釈が様々に存在し、また時代と国が異なることから我々の身体感覚としても正しいであろう解釈を選択することが大変難しい。
この点でやおいもの(日常もの)の強みがあるのではないかと思うのです。敢えて一意的なテーマ表現を前面に押し出さず細部について解釈の幅を残す事で、作品全体でテーマのようなものを表すこと。
この方向の到達点として、テーマ性を登場人物のあり方そのものに漠然と重ねることが出来るのではないか。作者の胸の内にははっきりしたテーマがあるかもしれないが読み取りは読者に任せる。勿論、記号的なものをちりばめることで一意性を高める努力は可能でしょう。
以上がやおいもの(日常もの)の表現形態としての意義ですが、当然登場人物の魅力だけを切り取り提示するのにも有効でしょう。アプローチとしては反対になりますが、二次創作等で既存キャラクターを用いた日常ものはここに含まれるのではないかと思います。
とは言え、山も落ちも意味も無いという言葉に拘るのならば、表現上の意義がある時点でもはややおい物とは言えないのかもしれませんが。
さて、このようなことを考えながら書いたのが、あいつの話をしよう、になります。
しかし完全なやおいにはならなかったかもしれません。途中僕が激昂するシーン、最後に明日がいい日であるように願うシーン、そして全体に漠然と込めたテーマがそれぞれ存在しているからです。
それでも、実は登場人物二人は日常を生きているのみで、特に関係性の変化も事件による非日常への移行もありません(正確には、事件を経ても何も変化しなかったと言うべきか)。
よって物語構造論的には、この作品からテーマを読み取ることが困難です。頼るとすれば記号論であり、その点は色々と設けてあります。ただ、やはり明確な結論がある訳でもなく、決定的なセリフがある訳でもなく、僕の思考の背景がある訳でもなく。と言う訳で、自分としてはこの作品はやおいものとしてなんとか成立していると考えています。いかがでしょうか。
全体として曖昧なお話になってはいますが、一応いろいろと設定もあるので、また次の機会にでも書いてみたいと思います。
やおい論を考えていくにあたっては、初期の新海誠作品などシチュエーション至上主義としてのセカイ系との関係も考えていきたいと思っています。このブログの本来の目的は、君の名は。の考察にあったはずなので、そちらに向けて引き続き進んでいけたらいいなと。
以上、長文をお読みいただきありがとうございました。これからも拙いながら頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
本業の方が忙しくしばらくさぼっておりましたが、今週から段々と再開していきたく思います。
現状を整理しておくと、物語構造論の適用範囲を拡大できるかどうかという事を考えております。そこで、今回は「やおい」ものに注目してみます。
男性同士のあれやこれやの意味ではなく、本義の「やまなし、おちなし、いみなし」という構造を有する物語のことです。
物語構造論で考えてきたように、登場人物の変化によってテーマが語られるとするならば、やおいもの(或いは日常もの)はどのような物語と考えられるのでしょうか。やま、おち、いみが無い作品はテーマを持つか否か。
現段階の感覚としては、「やおいもの(日常もの)には表現形態として意義があるが、学問の対象にはならないのでは」となっています。つまり、やおいもの(日常もの)は一意的にテーマを語ることが構造上できないが、そもそも一意的なテーマを掲げることを目的としていないのではないかという仮説です。
コラムか何かで触れようと思いますが、テーマを一意的に定めることは本当に難しい事です。J・D・サリンジャーの代表作の一つ、バナナフィッシュにうってつけの日(原題:Perfect Day for Bananafish)を例に取ると、短編でありながら話が難解なため解釈が様々に存在し、また時代と国が異なることから我々の身体感覚としても正しいであろう解釈を選択することが大変難しい。
この点でやおいもの(日常もの)の強みがあるのではないかと思うのです。敢えて一意的なテーマ表現を前面に押し出さず細部について解釈の幅を残す事で、作品全体でテーマのようなものを表すこと。
この方向の到達点として、テーマ性を登場人物のあり方そのものに漠然と重ねることが出来るのではないか。作者の胸の内にははっきりしたテーマがあるかもしれないが読み取りは読者に任せる。勿論、記号的なものをちりばめることで一意性を高める努力は可能でしょう。
以上がやおいもの(日常もの)の表現形態としての意義ですが、当然登場人物の魅力だけを切り取り提示するのにも有効でしょう。アプローチとしては反対になりますが、二次創作等で既存キャラクターを用いた日常ものはここに含まれるのではないかと思います。
とは言え、山も落ちも意味も無いという言葉に拘るのならば、表現上の意義がある時点でもはややおい物とは言えないのかもしれませんが。
さて、このようなことを考えながら書いたのが、あいつの話をしよう、になります。
しかし完全なやおいにはならなかったかもしれません。途中僕が激昂するシーン、最後に明日がいい日であるように願うシーン、そして全体に漠然と込めたテーマがそれぞれ存在しているからです。
それでも、実は登場人物二人は日常を生きているのみで、特に関係性の変化も事件による非日常への移行もありません(正確には、事件を経ても何も変化しなかったと言うべきか)。
よって物語構造論的には、この作品からテーマを読み取ることが困難です。頼るとすれば記号論であり、その点は色々と設けてあります。ただ、やはり明確な結論がある訳でもなく、決定的なセリフがある訳でもなく、僕の思考の背景がある訳でもなく。と言う訳で、自分としてはこの作品はやおいものとしてなんとか成立していると考えています。いかがでしょうか。
全体として曖昧なお話になってはいますが、一応いろいろと設定もあるので、また次の機会にでも書いてみたいと思います。
やおい論を考えていくにあたっては、初期の新海誠作品などシチュエーション至上主義としてのセカイ系との関係も考えていきたいと思っています。このブログの本来の目的は、君の名は。の考察にあったはずなので、そちらに向けて引き続き進んでいけたらいいなと。
以上、長文をお読みいただきありがとうございました。これからも拙いながら頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。