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wadyのケインパトスクロウへの道

小説とか。更新は中断中

やおい論の準備と「あいつの話をしよう」について

2017-03-15 05:00:46 | オタク論
久しぶりの投稿となりました。60日以上投稿しなかったら出てくる広告がばっちり出ておりました。
本業の方が忙しくしばらくさぼっておりましたが、今週から段々と再開していきたく思います。

現状を整理しておくと、物語構造論の適用範囲を拡大できるかどうかという事を考えております。そこで、今回は「やおい」ものに注目してみます。
男性同士のあれやこれやの意味ではなく、本義の「やまなし、おちなし、いみなし」という構造を有する物語のことです。
物語構造論で考えてきたように、登場人物の変化によってテーマが語られるとするならば、やおいもの(或いは日常もの)はどのような物語と考えられるのでしょうか。やま、おち、いみが無い作品はテーマを持つか否か。
現段階の感覚としては、「やおいもの(日常もの)には表現形態として意義があるが、学問の対象にはならないのでは」となっています。つまり、やおいもの(日常もの)は一意的にテーマを語ることが構造上できないが、そもそも一意的なテーマを掲げることを目的としていないのではないかという仮説です。

コラムか何かで触れようと思いますが、テーマを一意的に定めることは本当に難しい事です。J・D・サリンジャーの代表作の一つ、バナナフィッシュにうってつけの日(原題:Perfect Day for Bananafish)を例に取ると、短編でありながら話が難解なため解釈が様々に存在し、また時代と国が異なることから我々の身体感覚としても正しいであろう解釈を選択することが大変難しい。
この点でやおいもの(日常もの)の強みがあるのではないかと思うのです。敢えて一意的なテーマ表現を前面に押し出さず細部について解釈の幅を残す事で、作品全体でテーマのようなものを表すこと。
この方向の到達点として、テーマ性を登場人物のあり方そのものに漠然と重ねることが出来るのではないか。作者の胸の内にははっきりしたテーマがあるかもしれないが読み取りは読者に任せる。勿論、記号的なものをちりばめることで一意性を高める努力は可能でしょう。
以上がやおいもの(日常もの)の表現形態としての意義ですが、当然登場人物の魅力だけを切り取り提示するのにも有効でしょう。アプローチとしては反対になりますが、二次創作等で既存キャラクターを用いた日常ものはここに含まれるのではないかと思います。

とは言え、山も落ちも意味も無いという言葉に拘るのならば、表現上の意義がある時点でもはややおい物とは言えないのかもしれませんが。

さて、このようなことを考えながら書いたのが、あいつの話をしよう、になります。
しかし完全なやおいにはならなかったかもしれません。途中僕が激昂するシーン、最後に明日がいい日であるように願うシーン、そして全体に漠然と込めたテーマがそれぞれ存在しているからです。
それでも、実は登場人物二人は日常を生きているのみで、特に関係性の変化も事件による非日常への移行もありません(正確には、事件を経ても何も変化しなかったと言うべきか)。
よって物語構造論的には、この作品からテーマを読み取ることが困難です。頼るとすれば記号論であり、その点は色々と設けてあります。ただ、やはり明確な結論がある訳でもなく、決定的なセリフがある訳でもなく、僕の思考の背景がある訳でもなく。と言う訳で、自分としてはこの作品はやおいものとしてなんとか成立していると考えています。いかがでしょうか。

全体として曖昧なお話になってはいますが、一応いろいろと設定もあるので、また次の機会にでも書いてみたいと思います。

やおい論を考えていくにあたっては、初期の新海誠作品などシチュエーション至上主義としてのセカイ系との関係も考えていきたいと思っています。このブログの本来の目的は、君の名は。の考察にあったはずなので、そちらに向けて引き続き進んでいけたらいいなと。

以上、長文をお読みいただきありがとうございました。これからも拙いながら頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

セカイ系について2

2016-10-12 02:38:00 | オタク論
前回の投稿では基本的に物語構造論について書いた。セカイ系に話を戻してみよう。

さて、前回からいろいろ調べていくうちに、セカイ系構造を有する作品の共通項について面白い指摘を見付けた。
一つ目は、セカイ系作品においてヒロインがセカイの命運を握りえるほど強大な存在になる(である)、ということ。
二つ目は、セカイ系とは主人公の暮す小さな世界の中で物語が完結している、ということ。

今回はこれらについて考えてみる。
まず、一つ目は私も非常に身に覚えがあるというか、その通りだと思う。前回「セカイ系について」にて、主人公が普通だとヒロインが特殊性を担い、ジャンル選択として戦争、戦闘と相性がいいという主張をした。その果てに、強大化しきったヒロインがセカイの命運を握った結果、主人公は普通のまま世界の危機に直面すると言えそうだと思われるからだ。
そして、どうやらこの強大化しすぎたヒロインが主人公周囲の世界から逸脱し、はるか上のランクに移動、それこそ「世界」に影響を及ぼし始める構造こそがセカイ系で、ランク移動というか階層が異なってしまった存在であるヒロインに、普通人ながら知り合いであるというだけで主人公が関わり合いを保つことを指して中間項の喪失という言葉を使うのならば、確かに妥当な形容のような気がしてきた。

これを語るために、二つ目の指摘に移りたい。これはこれで面白いのだが、私は反対の立場を取りたい。詳しくはニコニコ大百科の記述にあるが、重要部分のみ引用しよう。
「世界を救う。このテーマは古今東西普遍的なヒロイックサーガのテーマとして使われてきた。日本を代表するRPGであるドラゴンクエストやファイナルファンタジーもこのテーマは変わっていない。だが、これらの作品とセカイ系は決定的に違う点がある。これらの世界を救う物語には避けては通れないお約束がある。『世界を救うためには世界中を巡らなくてはならない』がそれである。主人公たちは旅の中で世界中の国の人々と語らい、あるいは驚くような冒険を繰り広げ、あるいはその地にはびこる悪を倒し、そして最後に世界の果てで待ち構えている大魔王を倒さなくては世界の平和を取り戻せない。一方、セカイ系は違う。セカイ系の物語では、主人公は最初の村から出ようとしない。ことによっては自分の家からすら出ようとしない。ここでいう最初の村とは主人公が所属しているコミュニティのことであり、自分の家とはコミュニティの最小単位、すなわち家族・友人・恋人のことである。世界の危機とは村の崩壊と同意義であり、伝説の武器も倒すべき大魔王も村の中に存在している。そんなこじんまりとした大冒険がセカイ系の物語である。」(ニコニコ大百科:「セカイ系とは」より)

前半部分のRPG要素に引きずられ、中間項の喪失に引きずられ、エヴァのイメージに引きずられ、後半がやや怪しい説明になっている。私なりの主張を加味するならば、主人公が最初の村で仲良く暮らしていた幼馴染が、特殊性を持つ要請から突如世界を支配する強大な魔王の力に目覚めてしまった、という風になる。そこで従来の物語では主人公は勇者になって仲間たちと冒険して魔王を倒しに行くのだが、セカイ系において主人公はそんなヒーローにはなれないのだ。悲しいことに、非力で、しかも世界を救いたくて魔王のもとに行くのですらない。行動原理が幼馴染の身を思っている一点のみなので、ぶっちゃけた話セカイ系で主人公は世界を救おうなどこれっぽっちも思わないのである。主人公が持つ唯一の特殊性は、幼馴染(魔王)と仲が良かったというだけ。これらが満たされていれば、魔王城は村の中でも隣町でも世界の果てでもどこにあってもいいし、問題がコミュニティ内で終わるかどうかも関係ない。伝説の武器などセカイ系の主人公が持ってはいけない。
と、このようにRPGセカイ系の説明は根本的に破たんしているのだが、興味深いのは、魔王となってしまった幼馴染と主人公の間には、確かに中間項が無い事である。好きだった、知り合いだ、幼馴染だ。その個人的関係を掲げて主人公は世界の最前線に飛び込むしかない。そこに中ボスも村人も、場合によっては家族でさえも何の手出しもできないのだ。
ひとまず以上を考慮してセカイ系の定義を修正するならば、「一般人を代表する主人公の少年と、世界の命運を握るほどの特殊性を持つ少女の関係が、社会という中間項を介さずに成立している作品」となるだろうか。

さて、こうやって私のセカイ系を多少明確にしたところで、ポストエヴァセカイ系三作品として私がよく上げる、ほしのこえ、イリヤの夏、最終兵器彼女について考える。
すると面白いことに、後者に作品についてはヒロインはそれこそ世界の命運を一手に担ってしまうほど重い立場に立つことになるのだが、(そして典型的な社会という中間項の喪失が描かれてるが、もちろんヒロイン側が社会から飛び出していった結果である)お気づきだろうか。ほしのこえはそうだったろうかと。ほしのこえのヒロインは、突如選ばれ、そのパイロット特性から遠方に遠方に社会を逸脱していくが、その特殊性も精々がオリンピック選手くらいの特殊性であって彼女固有でも強大でもなんでもない。更にはセカイの命運も別にかかっていない。彼女に掛かっているのはむしろ彼女自身の生存(=もう一度のぼる君に会う)の一点である。
これはいったい何を意味しているのだろうか。ほしのこえの特異性は、少女の特殊性が弱いだけのセカイ系の亜種の範疇なのか、それとも新海誠の作家性の発露なのか。こう書いておいてなんだが、私は両方だと思う。少女と無慈悲に理不尽に引き離された無力な一般人である少年が、メールに思いを託している間に、着々と少女を失っていく。前半部分がセカイ系要素、後半が新海誠。そう考えると、新海作品を通じて君の名は。に至る流れを追うことでセカイ系について迫っていけそうである。これを次回以降としたい。

ところで、戦闘美少女論を予定していたが、こうなると本筋から離れてしまったような気さえする。小さな扱いにして番外編として近々考えることとしたい。
以上、長文お読みいただいた方に感謝いたします。またお願いします。

セカイ系について

2016-09-25 03:31:56 | オタク論
色々と忙しくようやく少し時間を得たので、軽いまとめをしておきたい。
いわゆるセカイ系について、である。

本用語は明確な定義がないまま広く使われるという不幸な事態により、本来なら区別するべき差異や個性を持つ作品群を曖昧なやり方で一括してしまったような感がある。
その事は、特に前島賢や東浩紀により指摘され、定義の明確化が試みられてきた歴史がある。先人たちにケチをつけるわけではないが、本テーマでの目的である、エヴァ誕生後をリアルタイムで生きてきた実感としての感覚の具体化に則り、いささか無謀ながらセカイ系に対する再考察を試みたいと思う。

さて、セカイ系と世間でいうと代表作が何作か挙げられる。その中でエヴァンゲリオンは外せないだろうし、ポストエヴァとしては「ほしのこえ」、「イリヤの空、UFOの夏」、「最終兵器彼女」の三作が上がるようだ(媒体がアニメ、漫画、小説であるのは各媒体の代表を意識してのことか)。

以下に続く冗長な文章の出発点は、「セカイ系は社会という中間項を介さず、主人公の少年少女の関係が世界の情勢に直接結びつく作品」とする一般の定義に対するそこはかとない違和感である。言葉足らずと言い換えてもいい。

何が気に食わないかを端的に言えば、中間項を介さない、の部分である。例えばエヴァンゲリオンを挙げると、その結末や旧劇場版の終着点においてシンジの選択が世界の行く末と直接結びついたことに異存はないが、それも結局はエヴァやそこに至る計画を周りの悪い大人達が必死で用意し、よくわからない暗躍をし綱引きをし、色々な人を酷い目に合わせて理想を追求したツケが14歳の少年に転がり込んだという、状況として酷いものである。シンジ君と交代させてやる、といわれても絶対に嫌だ。また、ネルフは軍事組織で国連の機関でありエヴァはその備品。どこが中間項の喪失なんだ、と思うわけである。しかも、結局シンジとレイやアスカの関係は直接世界の行く末なんぞに結びついていなかった。
同様のことがほしのこえ、イリヤ、最終兵器彼女にも言える。
勿論、それらの描写がこれらの作品に薄いということで、中間項の描写を介さず、とでも言いかえればよいのかもしれないが、やはり違和感がある。戦争をしている世界で軍隊に属し、最前線にいるのなら、中間項ばっちりそろってるじゃん、というわけ。

セカイ系は物語構造論として、おそらく古くからある主人公に受け手側が感情移入する仕掛けとして出発したはずである。主人公が特殊な能力で大立ち回りする作品の亜種として、ごく普通の主人公が、ある日突然世界の趨勢を決める最前線に関わることで作品が展開していく。その際に、ポストエヴァ三作については、ヒロイン側が特殊性を担当し、主人公の男の子は圧倒的に無力でなにもできない筋書きになっている。無気力な男子が戦うヒロインを待っているのが基本構造であり、その少女と少年がどうこうするのは男性視点から見たご都合主義だと批判も展開されたほどである。もっともだ。

もし中間項を本当に挟まない作品を想像するとすれば、どちらかというと身分違いの二人が出会う作品なんかになるのではないか。病気になって死にかけの世界を統べる女神様が最後にあった少年と恋に落ちる、終わる世界に二人は生きて、みたいな。最終兵器彼女のヒロインが遂には圧倒的な力を持つ存在へと進化して星を離れるという結末は、確かに中間項を超越したとも言えそうであるが、あれもひどい話で別に主人公たちの純粋な恋が世界の行く末に影響を及ぼしたとは言えそうにあるまい。やっぱりどうなってんだセカイ系、と思うわけである。ほしのこえも影響は及んでいないし、イリヤに関しては完全に逆である。中間項を超越できた瞬間に、ヒロインは世界を救って死に、何もできなかった主人公だけが取り残される。

結論から言えば、描写の種類、技法を以てジャンルの形容を試みたのが全ての間違いである。
セカイ系とは、「物語構造として主人公たちの日常生活空間を描きながら、同じ場に非日常を背負った存在を同居させることで、主人公(受け手)を日常に坐したまま非日常に誘い、非日常存在の喪失、或は日常化を経て終わる作品」のことであって、全ては物語構造に帰着される、受け手の感情移入を誘う手法に過ぎないのだ。
エヴァがセカイ系の創始であるとするならば、「主人公を本当の普通人であること」で、ポストエヴァが発展させた面があるとすれば、「主人公が重要な役割を果たしこそすれ、本人的には結局何もできない悲劇を描く」、と言う面であろう。

故に、セカイ系のジャンルは本質的にはなんでもいい。が、日常の中に直接非日常を投入する性格上、戦争や兵器が(一般市民たる主人公の平和ボケと絡めるという日本特有の事情もあり)相性がいいのは確かであるし、結末が悲劇的なのも必然なのである。

しかし、ここから新海誠は歩み始めたのだと思う。それについては、雲の向こう、約束の場所を踏まえて、時を改めて書きたい。

次回があるとすれば、今回も少し出てきた戦闘美少女について語ろうと思う。やはりセカイ系とは切っても切れない存在だ。

以上、呼んでくださった方がいれば長文乱文失礼いたしました



オタク論 本カテゴリについて

2016-09-20 23:57:06 | オタク論
オタク論、と題しました。
現在は2016年。個人的には、いわゆるオタク作品と出会って約10年になります。始まりはハルヒとエヴァでした。
恐らく私と同年代の20代前半の皆様は、涼宮ハルヒを入り口とされた方が一定数いらっしゃると思います。

そんな私たちが幼少のころ、1990年代には丁度エヴァンゲリオンが一世を風靡し、等身大の少年が鬱屈と自己と向き合う作品であるとか、セカイ系という言葉が誕生したりしました。
その流れを受けて、2000年代にオタク文化は所謂0年代と呼ばれる一つの黄金期を迎えます。ライトノベルなど専門の媒体が市民権を得、PCの普及に伴いすそ野が広がり、同人活動もいよいよ盛んになり、PCゲームや各種ゲームソフトなどが一般化していった時代。私たちがこの世界に入った時には、オタク文化のアングラな部分や肩身の狭い思いを知らずに数々の作品を楽めるような環境があったような実感があります。幸せなことに。

このオタク論を書くにあたり、直接の原因となったのは新海誠監督作品「君の名は。」です。この映画を見た時に私が感じたことの一つが、セカイ系というジャンルの終焉でした。これは新海誠が長らくセカイ系の代表者とされてきたことからの半分直感的な感想だったのですが、その後さまざまなことを調べるうちに、東浩紀氏が次のようなツイートをされたことを知ります。

シン・ゴジラと君の名は。を見て思ったのは、ひとことで言えば、オタクの時代は終わったんだなということですね。第一世代のガイナックス系オタクと第二世代のセカイ系オタクの想像力が、同時に社会派になりリア充化し、オタク特有のぐずぐずしたどうしようもない部分がすっぱり消えた。

2016年9月9日 00:10

「君の名は。」の特異性として、これまでなかった客層に大ヒットした、ということが現在言われています。と同時に、東浩紀氏をはじめとするオタク文化を発信してきたベテランクリエイター達が、本作をきっかけとして時代が変わる予感を表しておられます。上ツイートはシンゴジラを踏まえた発言ですが、セカイ系を語るうえで90年代の庵野秀明、0年代の新海誠を考えた時に、その両者が2016年に大ヒットを出したことが衝撃をもって語られているわけです。
そして、私も直感的にこれに共感を得ていました。

私よりも年代が上の方々と感覚が部分的に共有された理由は、まさに庵野秀明と新海誠にあると思うのですが、では本当にこの二作品をエポックとしてオタク文化が転換期を「今」迎えているのだとしたら。その潮流に身を直においてきた一人のオタクとして、生身の感想を記録し、考察を構築しておく事は少しばかり意義があるのではないかと思い至り、筆を執った次第です。

「君の名は。」の評論において、個人的に驚いたのはオタク文化の評論家をもって自らを任じてきた方々のうちに、少なからず「君の名は。」が一般にヒットしたことに衝撃を受け、こんなの新海誠じゃない、と反応した方がいることでした。
映画を見た後、同作品は新海誠の最新作の名にふさわしい、「ほしのこえ」、「雲の向こう、約束の場所」の正統進化形に当たるとさえ思った自分からすると衝撃的なことでした。

このコラムのような物がどこへどのようにいつまで進んでいくのか全く分かりませんが、ランドマークとしてキーワードをいくつか設定しておきたいと思います。

・セカイ系とは何だったのか
・セカイ系作家としての新海誠像
・「君の名は。」で新海誠は変わったのか
・「君の名は。」を見た評論家はなぜ「こんなの新海誠じゃない」と言ったのか

個人的な直感としては、90年代のエヴァ以来その呪縛にとらわれて多くのオタク文化の担い手が、「主人公が引きこもって鬱屈と内面世界に閉じこもっている作品こそがセカイ系だ」と思い込んでいたことに原因があるとにらんでいます。
当面の方針として、新海誠の作品とその時代を振り返りつつ、4番目の疑問に対して論理的な回答を示すことを目指します。遅筆、長文ですが、もしご覧になる方がおればお付き合いください