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wadyのケインパトスクロウへの道

小説とか。更新は中断中

最悪にも程がある考察:川岸先輩と名波後輩は一線を越えるのか?

2017-12-27 00:56:01 | 感想類
久方ぶりの更新です。60日以上更新が無いと表示される広告が…(以下略)
さて、実際問題忙しくて殆ど創作や考察が出来ていなかったのですが、この度素晴らしい作品に出合うことが出来ました。
いとう作「最悪にも程がある」(以下「最程」)
オリジナル同人コミックで、現在第一巻がPixivにて公開中&Golem,Inc.にて一冊600円にて発売中。紹介文としては「創作×性×モラトリアムなオタク女子大生達の狂乱百合漫画です。」とあります。今後続編が出るようで、私は楽しみで楽しみで仕方ありません。

さて、作者のいとうさんのツイッターを拝見いたしますと、機龍警察における警視庁特捜部の鈴石警部補とラードナー警部の関係、ガールズ&パンツァーにおけるBC自由学園の押田と安藤の関係など、女性同士の強い感情をご専門として活動されている様子が伺えます。その方が世に送り出した「最程」もやはり女性同士の関係を鮮烈に描き出した作品なのですが、私はこの作品を読んで初めて日常物にはキャラクターの感情をダイレクトに描写する力があるのだと確信しました。今後のこのブログにおけるやおい論に大きな影響が出てくるかと思います。気合い入れてやっていきたいと思います。

さて、ここまでおススメなのですが、本題に入ろうと思います。以下ネタバレ豊富なのでご注意くださいませ。

ずばり、「川岸先輩と名波後輩はセックスをするのか」問題です。これは非常に難しい問題なのですが、私は直感的にはする、そのような関係性に至る、と考えています。初読時にも自然とそう思った(のだろう)し、別段それを意識してもいなかったのですが、この二人はセックスをしないのではないか、という言説に触れ、その際に意外なほど違和感を感じ、逆算的に上記を自覚した訳です。
これについて、普段から作者のちりばめた情報からテーマを拾い出すような話をしている身としては、是非ともある程度論理的にこの問題に回答してみたいと思い、取り急ぎ考察することにしました。

まず登場人物紹介ですが、一旦列挙し、簡単な情報と感想を加えます。なお、情報は最程♯1に準拠します。誤解、揺らぎなどあればご容赦ください。

・川岸桃子(PN:ギギコ)
川岸先輩。字書きのオタク。カプ解釈が恐らくかなり緻密で論理に寄ってる人。出力は安定しないけど、切っ掛けを掴めば(腹を括れば?)恐ろしい勢いで書く。が、身は削れる。
大学入る前はもっと文芸~みたいながちがちの感じの創作だったが、どこかのタイミングで題材がゲームだかアニメだかの男の子に変わり、作風も大幅に改造した模様。
PNは名字から一番とがった音を拾って、名前の柔らかい部分に嵌めた感じだと思う。すごくいい。で、ここが重要なんですが、桃子ちゃんの名前の通り、可愛いものは普通に好きで、可愛いもの(世界)と自分自身(或いはその性的な部分かもだが、ちょっと読みが足りない)の間に境界を置いてるような面もあるけど、たぶん今でも可愛いもの好きだろうしどちらかというと性的な部分との折り合わせに関してなんだかんだオタク特有の別世界的な処理をかましてる風な感じがあってとてもよい。

・名波栞莉也(PN:不明)
名波後輩。文字読む人。狐目で垂れ目な人外的美人。多分色白なんだろう。
礼儀正しく品がよく適度におどけた口調を操る優等生でありながら、自分の好きな作家に執念じみた愛を注ぐ異常性を併せ持つ。というより、川岸作品に『人生を燃やし尽くされた』結果異常性が顕在したっぽい。多分元は文芸系の文字作品がご専門だが、川岸作品をフォローするための必要知識は当然網羅しているだろう。川岸先輩とは言いつつ、年齢はタメっぽいが、その辺りの事情は不明である。謎多き女はよ。実家は医者で端的に言って育ちがいいと思う。『人により「まりや」「まりちゃん」「マリー」など様々な呼び名のヴァリエントが存在し、川岸はそのどれも発したことはない。(以上いとうさん(@Ito_SIPD)ツイッターより抜粋。2018/02/04)』とのこと。

・不明(PN:こぜ(もしかしたらコゼットの略称とかかも))
川岸先輩と仲良くしているオタク友達。明るい色の髪を伸ばしている。多分マンガ系同人誌作家。川岸先輩曰く、趣味で入って趣味以外もあった、と思ってた。名波後輩曰く、ちょっと色々なものに欠けている人たちその1。多分上。

・不明(PN:アスタ(もしかしたらアスタリスクの略称とかかも))
川岸先輩と仲良くしているオタク友達。暗い色の髪を短くしてる。多分マンガ系同人誌作家。川岸先輩曰く、趣味で入って趣味以外もあった、と思ってた。名波後輩曰く、ちょっと色々なものに欠けている人たちその2。多分下。

・不明(名波後輩の友人1)
名波後輩とおどけあったりお昼一緒してたりする女の子。私はこの子がとても好きです。彼氏はいないっぽい。名波後輩は付き合いが悪いらしいが、どうやら名波後輩が川岸先輩とよく一緒にいることは存じ上げないっぽい。川岸先輩があんまり学校に出てこない情報を与えるとともに、どうも川岸先輩の方も気を使ってか大学における名波後輩の世界を侵食しないようにしているのではという推測が成り立つ。


・不明(名波後輩の友人2)
発声無し。かわいい。

・不明(名波後輩の兄)
妹に本を勧めてはスルーされてる人。でもまぁ川岸先輩との邂逅の切っ掛けになった点でそれなりになんとなく地味に感謝はされてそうだけど、名波後輩はそういうの口に出すのだろうか、いや感謝の念すらない殆ど無い気がしてきた。



以上が登場人物です。で、この先頭のお二方、川岸先輩と名波後輩の関係性がこの作品のメインとなっているわけですね。
先輩の名前は桃子、後輩の名前は栞莉也。ごく普通の二人はごく普通の同じ大学に入りごく普通の同じ学科(川岸先輩は履修山盛りで落とすとどうも同級生になる感じの描写がある)に所属しごく異常な切っ掛けで仲良くなりました。でもただ一つ違っていたのは、先輩は自身を切り刻んで文章にするオタクで、後輩はその先輩の分身たる文章を愛するオタクだったのです。

さてもうどこから手を付けたもんやら、ですが、まずは川岸先輩の異常性から掘っていきましょう。まずこの人、自称して曰く人間が下手です。ただ、コミュ力が無いかと言えばそうでもなく、教養もあるし論理的思考も得意そうだし機転も利くし、人とちょっと仲良くなるのにはまったく問題はない。しかし、人間が下手なんですね。作中ではこれに関して、『人間関係の内側に入り込めたためしがない。「場の根」みたいなもんにアクセスできない。人間上手くないと人間関係は組めない』と悲痛な叫びが発されます(まあ、ちょっとばかし彼女の関わるコミュニティが異常者にあふれていただけという疑惑もあるにはあるのですが、川岸先輩も異常者だから仕方ないね)。ちょっと仲良くなると、なまじ仲良くなれると、同類意識から友達もやはり同様に人間が下手なのではないかと期待する。期待するけど、結局彼女ら(彼ら?)は川岸先輩が知らない間に知らない種類の関係を築き上げてしまう。そして、これはおそらく川岸先輩の性に対する忌避感というか、一線引いた姿勢と無関係ではないと思いますが、そんな風に数えきれないほどしんどい思いをしてきた。寝てる間に足元で他人がセックス、作中で川岸先輩は半分自棄になってぶちまけていますが、内心実はかなりショックだったのではないか。作品冒頭のラブホのシーン、眠りに落ちる川岸先輩の縋るような祈るような言葉からのつながり、悪魔的です。その際に放ったコミカルなセリフも悲壮感を更に増していて、もう言葉にならない。こんな気の利いたことを言える才女であるというのに。またしても場の根にアクセスできなかったことに倍加するダメージを背負い、彼女はどんな風に深夜の新宿から秋葉原を目指したのか。
そして彼女自身はこの辺りの事情を十二分に自覚しています。しかし、しかし同時に、彼女はこの苦しさを考察し、しんどさに向き合い、論理に落とし込み、感情表現として自らの創作に転化するという異能を持っているのです。そしてそうして生み出された作品は彼女そのものであり、顔も知らない他人の人生に転機を与える力がある。これはある意味で悲劇的です。もし川岸先輩が人間と仲良くさえ出来ない人種であった場合、人間と仲良くし場の根ににょーんにょーんとアクセスできた場合、彼女の作品はここまでの輝きを放ったのだろうか。それでも、私は川岸先輩が不幸だとは思わない。何故なら、川岸先輩は自分が自らを削って生み出す作品に(愛される)価値があることを少なくとも作中現在では認識しているからです。また、これはもしかすると本人は半分無自覚かもしれませんが、その作品を生み出す観察眼というか、作品解釈の論理的能力にも相当な自負を持っていると考えられます。さもなくば、国語教育の敗北などという単語は出てこない(国語教育がそんなに物語解釈において有用化という事はおいといて、川岸先輩はよほどいい現代文の先生に師事したのでしょう。個人的には、一度は作風を変えんとした彼女にとって、ジャンルは違えどなお変わらなかったこの能力にこそ価値あれと思う面もありますが、さておき)。
つまり、川岸先輩は自分の人間としての部分には全く価値を見出さない反面、自分の生み出す文字列や解釈に関しては全き価値を見出している。それも分かり易い卑下とか自己否定というより、文章以外の自分を完全に無視するような無価値。自分自身を絞りつくすようにして出力した文章を後輩に託し、その足元でおなかを晒しながら緩み切った顔で彼女が言う愛してくれの一節、心に突き刺さるようでした。彼女自身は当然ここで言うところの愛の対象ではない。彼女にはその価値がないから。ただ、彼女が出力した、彼女自身ともいえる文字にこそ価値があり、それは愛されるべきである。このように、川岸先輩は徹底した自身に対する「自己」無関心と揺ぎ無い「自己」肯定から成り立つ異常性を有していると言えるでしょう。
実は、川岸先輩の創作に関してまだ重要な語り残しが存在しますが、これは名波後輩がどっぷり絡むので、敢えて一旦置いて先に進みましょう。キーワードは作風転換と苦しい人生に向き合うということ。

さて、反面名波後輩の異常性です。折角なので最終シーン、おなかを晒した先輩の独白を聞いた彼女の能面のような表情から考えますが、これが名波後輩の全てを表現していると言っても過言ではないでしょう。からの先輩に対する踏み付けと、愛してよかったと思わせてくださいね、のセリフ。これに対し川岸先輩は当然のごとく、おう、と応える。何故なら、係り受けとしては名波後輩が愛してくれるのはただ文字だけのはずだから。他ならぬ、川岸先輩の化身たる、確固として価値ある文字列に正当に価値を見出すのが名波後輩の異常性だから。だがそれは本当か、本当にそうか、というのが私の第一感にして名波後輩へのアプローチの取っ掛かりでした。
まず、名波後輩は川岸先輩にとって何者かから検討します。一つは当然読者なのですが、ただの読者ではありません。それまで『何かを好きになる以前の話で自我がな』く、『全てのことを形式的にこなしてた』が、その作品を読んだことで言葉通りならばその『人生を燃やし尽く』された読者です。唐突な自分語りですが、皆様は自我の芽生えを自覚した瞬間はありますでしょうか。私にはあります。それは自分にとって憎むべき瞬間であり、感謝して一生引きずっていくような強烈な喜びを備えた瞬間でした。今でもはっきりと覚えていますが、まさに自我が、自分自身の認識が、自分自身の外側の世界に及んだ感覚というのがあった。残念なことに私は名波後輩のように優秀でなかったので、自我が無い状態で物事を形式的にこなせる程のスペックは無かったのですが、それでも自分の自我を芽生えさせた対象としての文章に対して名波後輩が抱いた興味と執着は察するに余りあります(この辺り本当に難しいのですが、もしかすると名波後輩にとっての自我の芽生えは私の経験で推しはかれるような程度ではないかもしれません。作品鑑賞とその解釈にある程度主観的視点と経験が混ざる事にはどうかご容赦願いたいところです)。
少なくとも、この「作品の書き手」に対する異常な感情を抱えて名波後輩は川岸先輩に接近します。この初対面シーン、非常にワクワクしますね。二人の異常性がやばいやばい(語彙力)。まず川岸先輩、あなた寝起きですか?初対面の後輩に自虐を雨あられと降らせます。誰も君の小中のあだ名は聞いてないぞ!その自傷性ATフィールドを真っ向から貫く名波後輩。お返しとばかりに自分の聞きたいことをダイレクトにぶつけます。すごい異常性だ。いや、獲物を前にした豹のような感じですね。獲物を前にした豹を見たことはありませんし見たいとも思わないけど。そして、本作の珠玉の名セリフ。『……ミザリー?』。
私は以前、この川岸先輩のセリフは川岸先輩の教養を一言で示しつつ、名波後輩の期待を裏切らない、それどころか恐らく彼女の心中を歓喜で千々に乱したであろう強烈なセリフだと感心していましたが、実はそれだけではなかった。ミザリー、これをお読みの方には恐らく説明を要しますまいが、念のため簡単に紹介すると、作家の作品の結末が気にいらなかった熱狂的なファンが作家を監禁して自分好みの作品を書かせようとする小説、及びそれを映像化した映画のタイトルです。ミザリーは劇中作のタイトルでもあるのですが、この熱狂的なファンはちょっとイッてるというか、たいそう危険な人物として描かれるのです。それを踏まえて見返すと、川岸先輩が人間関係を結べない原因が端的に表れているようで本当にいいシーンだと思います。初対面の人間に向かってこれを言ってしまうか、と。しかし、流石は川岸先輩、このミザリーというキーワードは、名波後輩が川岸先輩にとって何者なのかを考えるヒントになります。
名波後輩は、かなり自然に川岸先輩の部屋に出没していることが分かります。一つは明らかに鍵なりを持っているであろう状況、もう一つはほぼ毎日様子を見に行っているという本人の弁から判断しました。しかも、講義を休みがちで創作にのた打ち回る川岸先輩にノートを届け、実家仕込みの身体メンテを施し、悩みを聞き、お酒をご馳走し、うまいものを差し入れる。接近当初の作風変化に関する問いをど真ん中剛速球で投げ込んでくる異常者、名波後輩のイメージとこれは合致しているでしょうか。もっと言うと、ミザリーに出てくる異常者、アニーのように、名波後輩は自らの自我を呼び覚ました川岸先輩の作品が変わってしまった事に対して反発し、以前のような作品を生み出させるために生活に介入しているのか。直前の列挙で敢えて外し、また川岸先輩で敢えて語り残した要素がここにあります。即ち、名波後輩は川岸先輩の変わってしまった作風を引き戻し、川岸先輩に人生に向き合わせる外的装置としての役割を以て自らに任じているのか。この役割、名波後輩が果たしていない筈がない。その証拠に、作中でも名波後輩はかなり意図的に、偶然起こった午前三時ラブホ事件を察した上で利用して、川岸先輩にその人生の苦しみを再認識させている。つまり、川岸先輩の創作の原動力となる負の感情というか負のエネルギーを、創作意欲として励起する為に酒席に誘って傷口を綺麗に開いて存分に語らせる。果せるかな、見事川岸先輩をギギコとして丸二日間興行に勤しましめた。ここまで意中のまま名波後輩は川岸先輩を誘導しつつ、それでもなお友人1に対して、川岸桃子を知りたいということ、しかし読むのが難しいこと、状況の難儀さを語ります。それは何を意味するのでしょうか。また、散々お膳立てされていたけれども、川岸先輩は名波後輩無しでは創作が出来ないのか。私が論じた川岸先輩の異常性は強いものでしたが、それは名波後輩の存在無しでは成り立たないのか。川岸先輩は、あらゆる意味で名波後輩の支配下にあるのか。

ここに私は名波後輩の変化を見たいと思います。当初は文字書きとしての川岸先輩に強い感情を抱いていた名波後輩は、作中現在でも書き手としての川岸先輩の異常性に関するほぼ完全な理解を有する一方で、よく分からない川岸桃子その人のことをも知りたいと思うようになったのではないでしょうか。ただし、名波後輩はそつがないというか底が見えないというか、自分自身をギギコ先生の外付け器官と割り切った上で、或いは欺瞞した上で行動しているというヨミもあり得なくはない。何せ、名波後輩の初期状態における興味の対象として、間違いなく作者本人として川岸先輩の両面が含まれていたはずだから。ただ、それを名波後輩が知る由もなかったと言えばそれはそうなわけで。
また、川岸先輩にも変化があります。大学進学付近と思しきタイミングで『自分の苦痛を切り売りしてるみたい』な『下等な』作風を切り捨てた彼女は、名波後輩に少なからず補助される形であれど、『自分の苦痛を切り売り』することそのものと、そうして生み出される作品に向きなおれたのではないでしょうか。これは彼女が落語家について語る場面において示唆されています。そうなった以上、何より重要なことに、名波後輩が居なくても川岸先輩はそうした作品を書けることになる。それは名波後輩自身が一番よく知っているのです。本来川岸先輩は一人で人生の苦しみと向き合っていたということを。川岸先輩は、少なくとも文字を読み文字を書く限りにおいて、自立した存在であると改めて主張したいと思います。対して、名波後輩はどうなのだろうか。己の業を彼女はどう捉えているのだろう。今後、文字を書く上で川岸先輩が名波後輩を特に必要としなくなった未来があるとして、名波後輩は己の立ち位置をどこに求めるのだろう。


名波後輩は異常な読者として川岸先輩に接近し川岸先輩もそれを心地よいと受け入れた一方で、名波後輩は川岸先輩の文字以外の部分も愛したいと思い、川岸先輩は自らの文字以外の部分を愛さなくていいと考えている。

川岸桃子という異常者が自らの立ち位置に対し一貫した思想を持っているのに対し、名波栞莉也という異常者は自らの二面性の葛藤を抱えている。文字だけを愛せと言われた名波後輩は、その美しい顔の下にどんな感情を抱えていたのでしょう。

この二人の異なる種類の内面が、物語の最後に鮮烈な対立を描く。本当に、この作品はすごい作品だと思います。どうしてこんなものが世の中に存在しているのだろう。めぐり合えて本当に良かった。

具体的に、セックスという行為がその結果として川岸桃子の創作にいかなる影響を及ぼすかは、残念ながら定かではありません。しかし、その行為は少なくとも文字列としての川岸桃子への愛を意味しないことは確かと思われます。その愛を、名波後輩は川岸先輩に伝えることが出来るのだろうか。川岸先輩はそのようにして伝えられる愛にどのように応えるのだろうか。

以上より、野暮ったく結論めいた事を申すならば、名波後輩が出会った当初の異常者のままならおそらく二人の関係は進まないでしょう。作品に対する異常性により共感した読み手はこちらを感想として抱くかもしれません。オタクにとって業に優先するものなどない。

名波後輩が川岸先輩を愛そうと思い、かつ川岸先輩も自分に対する愛を受け入れた時、その一線は超えられるでしょう。二人の関係性から何か痛ましさのようなものを感じる読み手はこちらを感想として抱くかもしれません。
ていうか名波後輩は、かなり心に決めたものを持っていてもおかしくないと思います。女の子同士でどうのこうの言ってたし。でも決定打はないように見える。あと、二人の関係性が閉鎖的なのが気になります。この二人、お互いの「外での」生活を故意にか偶さかにか侵食していないように思える。でも、まあ特別な作者と読者の関係から出発したことを思うと当然なのかもしれません。

色々書きましたが、私はこの二人の変化の果てに至るものとして、問題の答えを楽しみに待ちたいと思います。

ここまで考察というか、胸中渦巻く感情の一斉放射でした。夢中になって書いたので、もし話が飛んでるとことか意味不明なとことかあれば、こっそりご連絡ください。むしろ、色々この作品についてお話してみたいくらいですので。お待ちしております。

追記1
川岸先輩、ラブホでパンツ脱いで寝てたんですか?あ、そういう場所か

追記2
川岸先輩、ラブホにパンツ置いてきたのはいいとして、替えの下着は一着だけだったんですか?え、洗濯中?僕には分かんない。

追記3
考察には可能な限り作中から拾った情報を用いたつもりですが、客観的に見てそれを徹底できたという自信はありません。ちょっと感情が渦巻きすぎている。でも、少なくとも川岸先輩と名波後輩に対し自分が抱いているイメージは明確化出来たように思います。やっぱり川岸先輩は強く感じる。名波後輩はめっちゃ迷ってるように感じる。
確かに、この二人が愛を育むことは何かの解決にはならないかもしれません。でも、私は二人の幸せを願いたいと思います。どうか彼女たちのゆく道に幸運があらんことを、心の底よりお祈りして結びとさせていただきます。

追記4
この考察ざっくり6時間で8500文字くらいです。この6倍弱を2日。うーん、寝ずに稼働し続けて何とか……。川岸先輩凄すぎ

追記5
いとうさんより言及頂きまして、名波後輩の名前が茉莉也であると分かりました。文中で間違えて茉莉としておりましたことを謹んでお詫び申し上げます。また折角降ってきた情報なのでありがたく加えさせていただきました。
ところで二人称で下の名前呼んだことはないどころか、作中で川岸先輩から名波後輩に向けられた中でそれらしいのは『お前のそういう変態性』『名波があいつら嫌いなのは知ってたけど』『お前ホント好きだなそれ』『名波は異常だけどそれだから気持ちいい』の四ケ所なんですけど、一つとして単純な呼び掛けがないんですね。あと、川岸先輩は名波後輩のこと一点の曇りもなく異常者だと思ってるのすごいですよね。

追記6
名波後輩は文字を書くのかどうか、本文でも触れようか散々迷ったくらい興味のある分野なのですが、今後の開示を待ちたい。現状は、彼女は読む方面で異能持ちという理解です。

劇場版艦これのすゝめ(ネタバレなし)

2016-12-03 02:50:32 | 感想類
見てきました。劇場版の艦これ。

ええ、私もアニメは見ましたとも。怒りと悲しみに震えましたとも。
どれをどうやったらこれが出来たのか、と。あの可能性の塊ともいうべきゲームの世界から。

その後色々あって、伏線とか設定とか脚本とか考えたり読んだりして、実は少しだけアニメ版艦これを見直したりもしたけれど。
基本的には、そのアプローチでこの脚本はやっぱり不親切だし物語としても無いわー、と思っていたわけです。

ところが、昨日劇場で艦これのポスターを見た時。私は衝撃を覚えた。なんだ、この名作の香りは。
三回通り過ぎようとして、三回とも引き込まれた。帰って急いで予告編を見た。そして思った。
「そうだよ、これが、これが私が見たかった艦これなんだ」

と言う訳で、学会帰りに居ても立っても居られずに劇場に走りました。

感想は言わない。言い出すと止まらなくてネタバレになるから。ただ、アニメ版を見て絶望した人ほど、ぜひ映画を見て欲しいと思う。心の底からおすすめ。


ただ、注意点と言うか、私からは「予備知識を備えてから行った方が良い」というアドバイスをさせて頂きたい。上から目線の様で申し訳ないが。

艦これアニメはなぜ失敗したのか、とかのサイトが沢山あるので、何でもいいから考察を読んで見て下さい。特に、提督の意図、歴史と艦娘、などに注意するとよいでしょう。
また、如月ちゃんは何故三話でマミさんして、マミさんしたことがその後の戦いにおいて何を残した、何に影響したのかも注意です。あれは単なるマミさんでは無いという点。艦娘とはなんなのか(単なるマミさんとは何だ。)


そして、その上で、艦これ劇場版にご不満を抱いた方のために、ほんの少しだけ突っ込んだお話をしたい。勿論ネタバレは無しで。

またもや上からですが、艦これのアニメスタッフ陣は恐らく、同作品で描きたいことがあり、制約の中でそれに挑んだのです。が、まずい事が沢山あって、ただのクソアニメになってしまった。
さぞや無念だったでしょう。だからこそ、スタッフは劇場版で、同じテーマにアニメ版の失敗を全て踏まえ、修正したうえで全力で挑み、見事な成功を収めたように私には見えました。
劇場版艦これはアニメと密接に関連している。これはそうでなくてはならなかったのでしょう。無かったことにするには口惜しかったのではないか。テーマと想いはあった。

本当に、かなり良かった。冒頭のシーンでまず泣いた。涙が出た。そうだ、これが見たかったのだと。
映画は心憎い演出の連続。波状攻撃。後半30分、ニクイ、ニクイ、と言い続けていた。

その上で、この映画と言うかアニメ版艦これに貫かれているテーマには私は実は反感を覚えている。もしかすると、同じ思いを抱く提督も居るのではないかなどと思う。
だが、それは別に構わない。というよりも、それはあくまで艦これ観の違いに過ぎない。艦娘の数だけ愛があり、提督の数だけ艦これ観がある。

特に私は、物語構造論を掲げている関係から、キャラの変化、言動にこそテーマが表れてくるという立場なので、制作陣の艦これ観の下でキャラが統一され、テーマを描いているのなら大歓迎。いい作品だと思った。

また、映画版は実は艦これの根幹部分にかなり切り込んだ内容でもある。これについて、反感を覚える提督も居らっしゃるかもしれないが、私はこれについても安心して大丈夫だと唱えたい。
公式が正式見解、正式設定として出したのではなくて、あくまで制作陣の艦これ観に基づく一つの解釈なのだから、この映画の存在が提督の艦これ観やそれに基づく創作物を損なうことは決してない。その自由は保障されていると私は考えている。少なくとも、提督方の心の中にある艦これ観がきっちりとそれぞれのテーマに基づいている限りは。映画のテーマは強烈だが、自分の艦これ観は自分だけのものだという自信があれば、恐れる必要はない。


これくらいだろうか。実はかなり詳細に考察する準備は出来ているというか、艦これ二次創作に挑みたくて、上記のあれやこれやを盛り込んだ企画は既に存在しているというか。
やはり、テーマがあるなら書いてみたいと思っているので、そうなったら少しだけ映画にも言及しつつ自分の艦これ観を述べたりしてみたい。いつになるやら分からないが。


さて、最後に若干の名誉回復をして終わりにしたい。
艦これ映画版の批判として、会議シーンがヘボイというのを見ました。でも、実際見てみるとその批判はやっぱり見ていないから生じてしまったもので、作劇場全く問題なかったというか、むしろ適切な描写でした。
艦これ制作陣は、やっぱり艦これについてかなり考えて練ってるので、そうそうひどい物にはならないですよ、やっぱり。だからこそアニメ版はどうしてああなったのか。ノウハウ不足と言うか表現手法の誤りだと個人的には思うけども。

艦これ劇場版、本当におススメです。生きててよかったとまでは言わないけど、2016年をオタク的特異点にした理由の一つにはカウントできるのではないだろうか。
というより、感想を一言だけ言うと、『これが出せるなら最初からこれ出しとけよ!』です。本当に。万感の思いを込めてこの言葉で締めくくりましょう。

艦これはいいぞ。