●剣豪列伝
◆【敵討ち(かたきうち)(仇討ち(あだうち))】
二つの言い回しがある。
江戸時代に許された行為で残忍なもの。
武士のメンツとプライドの為に行われていた。
武士というのはそういう体面を何よりも重んじた。
許可証がなければしたら処罰される。
仇討ちは「復讐心」ではなく「名誉」のために行われたもの。
何年も掛かりカタキに遭遇して見事 本懐を遂げる。
江戸時代では当たり前。今では考えられないことだけど。
昨今では死刑反対で仇討ちの復活まで唱えている。
それはさて置き 日本にはこんなにも分厚い文化がある。
昔は戯作 今は芝居や小説として色んな物に取り上げられている。
チョツト趣向は違うけれども落語などにもある。
最近ではゲームなどでも取り上げられているのでは。
日本は分厚い文化の層がある。
何処ぞの国は なんでも自分の国が一番に成りたいから自分の国から輩出したと触れ回っている。
何の根拠のないものばかり。
調べれば調べるほど資料が沢山出て来てどれを取り上げようか選択に困る。
一つ一つの事柄が縦糸と横糸に成り大きな布を紡ぎ出している。
どれを外しても説明が上手く出きない。
素晴らしい国で有る事は間違いない。
★
★敵討ち論? - Mirrors
http://mirrors.unna.org/homepage.mac.com/tuyano/iblog/C1653772498/E70575498/index.html
敵討ち論?
江戸時代の敵討ちってのは、実際、どうだったのかね?
前回、死刑容認の意見の中で「敵討ち」について触れたけど、あちこち死刑制度に関するサイトなどを見ると、実に頻々とこの言葉が出てくる。「敵討ち制度を復活させれば・・」とか、「死刑がなくなれば、敵討ちが復活する」とかね。——で、「敵討ちって、ほんとのところはどういうものだったのよ?」ということについてちょっと考えてみたのであった。意外に、その実際のところは知られていないんだよね。
★
★江戸時代、なぜ「仇討ち」はお上公認だったのか?|武士はなぜ腹を切るのか
https://www.gentosha.jp/article/11357/ 2018/10/18
「日本人はもともととてもすばらしい民族だった」「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」……そう語るのは、歴史学者の山本博文東京大学教授。江戸時代にくわしい教授は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった、日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿を活き活きと描いています。昔の人はカッコよかったんだな、と素直に思えるこの本。一部を抜粋してご紹介します。
★
★お茶の間ヒーロー
https://youtu.be/HbrWe9BpMvA
宮本武蔵 忠臣蔵 新選組 四十七士 赤穂浪士 白虎隊 荒木又右衛門 義経 弁慶 暴れん坊将軍 信長 秀吉 家康 義士 など
★
★知ってるつもり?!宮本武蔵(音声あり版)
116,920 回視聴 2019/07/13 https://youtu.be/nstbp7gl9rs
h komasa
チャンネル登録者数 9650人
※既に、Youtubeに音声無し版がありますが、音声あり版を。
1991年5月19日放送 宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[1]がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
宮本武蔵 Miyamoto Musashi
時代 江戸時代
生誕 天正12年(1584年)?
死没 正保2年5月19日(1645年6月13日)
改名 幼名:辨助(または弁助・弁之助)
別名 藤原玄信、新免武蔵守、新免玄信、新免武蔵、宮本二 天、宮本武蔵
戒名 二天道楽居士
墓所 武蔵塚(熊本県熊本市北区)
父母 新免無二
子 養子:三木之助、伊織
生涯
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書[4] が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い[注釈 6][注釈 7][注釈 8]。
『五輪書』には21歳の頃に[注釈 9]、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者[注釈 10]と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。
大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている[注釈 11]。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている[注釈 12]。
元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 13]。
寛永期、吉原遊廓[注釈 14] 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語[注釈 15]が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
武蔵塚(熊本県熊本市北区)
寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 16]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上永青文庫蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(和泉市久保惣記念美術館蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上岡山県立美術館蔵)「布袋観闘鶏図」(福岡市美術館蔵)などがある。
書としては、「長岡興長宛書状」(八代市立博物館蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(熊本県立美術館蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
★
★宮本武蔵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。特に吉川英治の小説が有名であるが史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[注釈 1]がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
時代: 江戸時代
子: 養子:三木之助、伊織
戒名: 二天道楽居士
改名: 幼名:辨助(または弁助・弁之助)
★
★芸術家としての武蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵#芸術家としての武蔵
武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。また『武公伝』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。
現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。
★その他 https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵#その他
身の丈
『兵法大祖武州玄信公伝来』は、武蔵の身の丈を6尺(換算:曲尺で約182センチメートル相当)であったと記している。当時の日本人の平均身長からしてみれば、稀に見る長身であったらしい。
★
★佐々木小次郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐々木小次郎
佐々木 小次郎(ささき こじろう、? - 慶長17年4月13日(1612年5月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。剣豪として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。ただし、名前については不明な点が多い。宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
★
★デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
?-1612 織豊-江戸時代前期の剣術家。
越前(えちぜん)(福井県)の人という。鐘捲(かねまき)自斎に富田流をまなび,武者修行で燕(つばめ)返しの剣法をあみだす。豊前(ぶぜん)小倉藩(福岡県)藩主細川忠興(ただおき)につかえ,慶長17年4月13日宮本武蔵(むさし)と船島(巌流島)で決闘し,敗れて死んだとつたえられる。出身,経歴には異説がおおい。幼名は久三郎。号は巌流,岸柳,岸流。
★
★鍵屋の辻の決闘 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/鍵屋の辻の決闘
鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。
伊賀越の仇討ちとも言う。
曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。
また、曾我兄弟の仇討ちに代わって浄瑠璃坂の仇討ちを加えて江戸三大仇討ちとすることもある。
★
★高橋英樹・・・荒木又右衛門 男たちの修羅[午後のスペシャルアワー]
31,122 回視聴 2020/09/11 https://youtu.be/eBfp3vPMMDk
christopher R Metcalf
チャンネル登録者数 5740人
★
★伊賀越の仇討ち(読み)イガゴエノアダウチ
デジタル大辞泉の解説
寛永11年(1634)岡山藩士渡辺数馬(わたなべかずま)が義兄荒木又右衛門(あらきまたえもん)とともに、父(一説に弟)のかたき河合又五郎(かわいまたごろう)を伊賀上野で討った事件。赤穂(あこう)義士・曽我(そが)兄弟の仇討ちとともに天下三大仇討ちの一。
★
★上野(読み)うえの 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
三重県中西部にあった旧市名(上野市)。
現在は伊賀(いが)市の中央部から西部を占める一地域。
1941年(昭和16)上野町と小田(おだ)、城南(じょうなん)、花之木(はなのき)、長田(ながた)、新居(にい)、三田(みた)の6村が合併して市制施行。1950年(昭和25)府中(ふちゅう)、猪田(いだ)、中瀬(なかぜ)、友生(ともの)の4村、1955年花垣(はながき)、依那古(いなご)、比自岐(ひじき)、神戸(かんべ)の4村、1957年古山(ふるやま)村を編入。
2004年(平成16)伊賀町、阿山(あやま)町、青山町、島ヶ原(しまがはら)村、大山田(おおやまだ)村と合併、伊賀市となる。
旧上野市は上野盆地の中心都市で、名称の「上野」は中世からの地名、江戸期の城下町名を引き継いだ。
市街地と城は盆地内ではやや高燥な平地に展開し、地名の由来ともなっている。
JR関西本線と伊賀鉄道伊賀線、近畿日本鉄道大阪線が通じ、名阪国道と国道25号、163号、165号、368号、422号が走る。古くから伊賀国の中心地であったが、1585年(天正13)羽柴(豊臣(とよとみ))秀吉が筒井定次(つついさだつぐ)を封じて上野城を修築させた。
1608年(慶長13)徳川家康は東西交通の要(かなめ)の一つであるこの地に、大坂の豊臣勢に対する軍略上から、築城に長じた藤堂高虎(とうどうたかとら)を配して本格的な市街地を形成させた。
天守は竣工(しゅんこう)直前に台風のため倒壊し、その後の一国一城令によって津藩藤堂氏は津を本城としたため、再建されることはなかった。
上野城跡(国指定史跡)には高さ30メートル、わが国最高といわれる本丸石垣がいまも残り、実戦的な城のおもかげをしのぶことができる。
現在の3層の天守がある白鳳(はくほう)城は1935年の建造で忠実な復原ではない。
周囲は上野公園となっていて、1999年に歴史民俗資料館が開館している。
上野は伊賀忍者でも知られ、高虎以後も忍者は登録、扶持(ふち)制となった。
家康の伊賀越えを助けた伊賀者200人はその後幕府に召し抱えられ、隠密(おんみつ)も勤めた。
上野丸の内の上野公園(白鳳公園)内の伊賀流忍者博物館には忍者屋敷があり、資料が展示され、忍術の実演が行われる。
明治以降、幹線交通路から外れて産業的にも農村都市として推移し、組紐(くみひも)や和傘、伊賀焼など伝統工芸が知られる程度であったが、1965年以降、大阪と名古屋を最短距離で結ぶ名阪国道の開通で工場の進出が続き、県下では北勢に次ぐ工業化の著しい地域に変容した。
繊維、電機の工場が多い。
松尾芭蕉(ばしょう)の出身地で、生家、俳聖殿(国指定重要文化財)、蓑虫庵(みのむしあん)、記念館などゆかりのものが多い。
また荒木又右衛門(またえもん)の伊賀越仇討(いがごえあだうち)の遺跡鍵屋の辻(かぎやのつじ)がある。
国指定史跡に伊賀国分寺跡、国分尼寺跡と推定される長楽山廃寺跡、藩校の旧崇広堂、浄土信仰ゆかりの廃補陀落寺(ふだらくじ)町石、御墓山(おはかやま)古墳があり、城之越(じょうのこし)遺跡は名勝・史跡。
高倉神社本殿、絹本著色『藤堂高虎像』(西蓮寺蔵)など国指定重要文化財も多数ある。
果号寺のシブナシガヤ、高倉神社のシブナシガヤは国の天然記念物。
10月に行われる上野天神祭は近世初期に始まり、鬼行列や9基の山車(だし)(だんじり)で知られ、「上野天神祭のダンジリ行事」として国の重要無形民俗文化財に指定される。
また、だんじり会館においてだんじりの常設展示を行っている。
[伊藤達雄]
『『上野市史』(1961・上野市)
▽福永正三著『秘蔵の国』(1972・地人書房)』
[参照項目] | 荒木又右衛門 | 伊賀(市) | 伊賀国 | 伊賀焼 | 伊賀流 | 上野城 | 藤堂高虎 | 芭蕉(俳人)
★
★伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。時代物。10段。
近松半二、近松加助合作。
1783年(天明3)4月大坂・竹本座初演。
1634年(寛永11)荒木又右衛門(またえもん)が義弟渡辺数馬(かずま)を助けて舅(しゅうと)の仇(あだ)河合又五郎を討った事件を脚色。
奈河亀輔(ながわかめすけ)作の歌舞伎(かぶき)脚本『伊賀越乗掛合羽(のりかけがっぱ)』(1776初演)を土台にした作で、題名どおり仇討の過程を道中双六に見立て、鎌倉から郡山(こおりやま)、沼津、岡崎などを経て伊賀上野の敵討(かたきうち)で終わる。
同年9月には歌舞伎に移され、以後「伊賀越物」の代表作になった。
第一(鎌倉)~第五(郡山)―上杉の臣沢井股五郎(さわいまたごろう)は同藩の老臣和田行家(ゆきえ)を殺して逐電する。
行家の娘お谷の夫唐木政右衛門(からきまさえもん)は義弟志津馬(しづま)の助太刀(すけだち)をするため、主君誉田内記(ほんだないき)から暇(いとま)をもらう。
第六(沼津)―志津馬の愛人お米(よね)は、沼津に住む父親の雲助平作(へいさく)のもとで敵股五郎の行方を探している。
ある日、平作が昔、他家へ養子にやった息子の呉服屋十兵衛がこの家に泊まる。
平作は十兵衛が沢井にゆかりある者と知り、千本松原で敵のありかを聞こうとするが、義心厚い十兵衛が明かそうとしないので、自害して末期の耳に股五郎の行方を聞き、お米に立ち聞きさせる。
第八(岡崎)―敵を尋ね、藤川の関所を破った政右衛門は、岡崎で偶然にも旧師の山田幸兵衛の家に泊まる。
幸兵衛は娘の許婚(いいなずけ)の股五郎に味方しようと、いったんは政右衛門に助太刀を頼むが、妻のお谷を追い返し嬰児(えいじ)のわが子まで殺した政右衛門の義心に感じ、助太刀を断念する。
「沼津」は平作の気骨と、義理と恩愛の板挟みになる十兵衛の苦衷を劇的に描いた名場面で、とくに歌舞伎では花道と客席を使って旅の情趣を色濃く表現する。
「岡崎」は雪を背景にした重厚な悲劇で、義太夫では有数の難曲になっている。[松井俊諭]
◆【敵討ち(かたきうち)(仇討ち(あだうち))】
二つの言い回しがある。
江戸時代に許された行為で残忍なもの。
武士のメンツとプライドの為に行われていた。
武士というのはそういう体面を何よりも重んじた。
許可証がなければしたら処罰される。
仇討ちは「復讐心」ではなく「名誉」のために行われたもの。
何年も掛かりカタキに遭遇して見事 本懐を遂げる。
江戸時代では当たり前。今では考えられないことだけど。
昨今では死刑反対で仇討ちの復活まで唱えている。
それはさて置き 日本にはこんなにも分厚い文化がある。
昔は戯作 今は芝居や小説として色んな物に取り上げられている。
チョツト趣向は違うけれども落語などにもある。
最近ではゲームなどでも取り上げられているのでは。
日本は分厚い文化の層がある。
何処ぞの国は なんでも自分の国が一番に成りたいから自分の国から輩出したと触れ回っている。
何の根拠のないものばかり。
調べれば調べるほど資料が沢山出て来てどれを取り上げようか選択に困る。
一つ一つの事柄が縦糸と横糸に成り大きな布を紡ぎ出している。
どれを外しても説明が上手く出きない。
素晴らしい国で有る事は間違いない。
★
★敵討ち論? - Mirrors
http://mirrors.unna.org/homepage.mac.com/tuyano/iblog/C1653772498/E70575498/index.html
敵討ち論?
江戸時代の敵討ちってのは、実際、どうだったのかね?
前回、死刑容認の意見の中で「敵討ち」について触れたけど、あちこち死刑制度に関するサイトなどを見ると、実に頻々とこの言葉が出てくる。「敵討ち制度を復活させれば・・」とか、「死刑がなくなれば、敵討ちが復活する」とかね。——で、「敵討ちって、ほんとのところはどういうものだったのよ?」ということについてちょっと考えてみたのであった。意外に、その実際のところは知られていないんだよね。
★
★江戸時代、なぜ「仇討ち」はお上公認だったのか?|武士はなぜ腹を切るのか
https://www.gentosha.jp/article/11357/ 2018/10/18
「日本人はもともととてもすばらしい民族だった」「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」……そう語るのは、歴史学者の山本博文東京大学教授。江戸時代にくわしい教授は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった、日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿を活き活きと描いています。昔の人はカッコよかったんだな、と素直に思えるこの本。一部を抜粋してご紹介します。
★
★お茶の間ヒーロー
https://youtu.be/HbrWe9BpMvA
宮本武蔵 忠臣蔵 新選組 四十七士 赤穂浪士 白虎隊 荒木又右衛門 義経 弁慶 暴れん坊将軍 信長 秀吉 家康 義士 など
★
★知ってるつもり?!宮本武蔵(音声あり版)
116,920 回視聴 2019/07/13 https://youtu.be/nstbp7gl9rs
h komasa
チャンネル登録者数 9650人
※既に、Youtubeに音声無し版がありますが、音声あり版を。
1991年5月19日放送 宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[1]がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
宮本武蔵 Miyamoto Musashi
時代 江戸時代
生誕 天正12年(1584年)?
死没 正保2年5月19日(1645年6月13日)
改名 幼名:辨助(または弁助・弁之助)
別名 藤原玄信、新免武蔵守、新免玄信、新免武蔵、宮本二 天、宮本武蔵
戒名 二天道楽居士
墓所 武蔵塚(熊本県熊本市北区)
父母 新免無二
子 養子:三木之助、伊織
生涯
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書[4] が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い[注釈 6][注釈 7][注釈 8]。
『五輪書』には21歳の頃に[注釈 9]、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者[注釈 10]と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。
大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている[注釈 11]。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている[注釈 12]。
元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 13]。
寛永期、吉原遊廓[注釈 14] 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語[注釈 15]が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
武蔵塚(熊本県熊本市北区)
寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 16]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上永青文庫蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(和泉市久保惣記念美術館蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上岡山県立美術館蔵)「布袋観闘鶏図」(福岡市美術館蔵)などがある。
書としては、「長岡興長宛書状」(八代市立博物館蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(熊本県立美術館蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
★
★宮本武蔵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。特に吉川英治の小説が有名であるが史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[注釈 1]がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
時代: 江戸時代
子: 養子:三木之助、伊織
戒名: 二天道楽居士
改名: 幼名:辨助(または弁助・弁之助)
★
★芸術家としての武蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵#芸術家としての武蔵
武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。また『武公伝』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。
現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。
★その他 https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵#その他
身の丈
『兵法大祖武州玄信公伝来』は、武蔵の身の丈を6尺(換算:曲尺で約182センチメートル相当)であったと記している。当時の日本人の平均身長からしてみれば、稀に見る長身であったらしい。
★
★佐々木小次郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐々木小次郎
佐々木 小次郎(ささき こじろう、? - 慶長17年4月13日(1612年5月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。剣豪として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。ただし、名前については不明な点が多い。宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
★
★デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
?-1612 織豊-江戸時代前期の剣術家。
越前(えちぜん)(福井県)の人という。鐘捲(かねまき)自斎に富田流をまなび,武者修行で燕(つばめ)返しの剣法をあみだす。豊前(ぶぜん)小倉藩(福岡県)藩主細川忠興(ただおき)につかえ,慶長17年4月13日宮本武蔵(むさし)と船島(巌流島)で決闘し,敗れて死んだとつたえられる。出身,経歴には異説がおおい。幼名は久三郎。号は巌流,岸柳,岸流。
★
★鍵屋の辻の決闘 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/鍵屋の辻の決闘
鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。
伊賀越の仇討ちとも言う。
曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。
また、曾我兄弟の仇討ちに代わって浄瑠璃坂の仇討ちを加えて江戸三大仇討ちとすることもある。
★
★高橋英樹・・・荒木又右衛門 男たちの修羅[午後のスペシャルアワー]
31,122 回視聴 2020/09/11 https://youtu.be/eBfp3vPMMDk
christopher R Metcalf
チャンネル登録者数 5740人
★
★伊賀越の仇討ち(読み)イガゴエノアダウチ
デジタル大辞泉の解説
寛永11年(1634)岡山藩士渡辺数馬(わたなべかずま)が義兄荒木又右衛門(あらきまたえもん)とともに、父(一説に弟)のかたき河合又五郎(かわいまたごろう)を伊賀上野で討った事件。赤穂(あこう)義士・曽我(そが)兄弟の仇討ちとともに天下三大仇討ちの一。
★
★上野(読み)うえの 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
三重県中西部にあった旧市名(上野市)。
現在は伊賀(いが)市の中央部から西部を占める一地域。
1941年(昭和16)上野町と小田(おだ)、城南(じょうなん)、花之木(はなのき)、長田(ながた)、新居(にい)、三田(みた)の6村が合併して市制施行。1950年(昭和25)府中(ふちゅう)、猪田(いだ)、中瀬(なかぜ)、友生(ともの)の4村、1955年花垣(はながき)、依那古(いなご)、比自岐(ひじき)、神戸(かんべ)の4村、1957年古山(ふるやま)村を編入。
2004年(平成16)伊賀町、阿山(あやま)町、青山町、島ヶ原(しまがはら)村、大山田(おおやまだ)村と合併、伊賀市となる。
旧上野市は上野盆地の中心都市で、名称の「上野」は中世からの地名、江戸期の城下町名を引き継いだ。
市街地と城は盆地内ではやや高燥な平地に展開し、地名の由来ともなっている。
JR関西本線と伊賀鉄道伊賀線、近畿日本鉄道大阪線が通じ、名阪国道と国道25号、163号、165号、368号、422号が走る。古くから伊賀国の中心地であったが、1585年(天正13)羽柴(豊臣(とよとみ))秀吉が筒井定次(つついさだつぐ)を封じて上野城を修築させた。
1608年(慶長13)徳川家康は東西交通の要(かなめ)の一つであるこの地に、大坂の豊臣勢に対する軍略上から、築城に長じた藤堂高虎(とうどうたかとら)を配して本格的な市街地を形成させた。
天守は竣工(しゅんこう)直前に台風のため倒壊し、その後の一国一城令によって津藩藤堂氏は津を本城としたため、再建されることはなかった。
上野城跡(国指定史跡)には高さ30メートル、わが国最高といわれる本丸石垣がいまも残り、実戦的な城のおもかげをしのぶことができる。
現在の3層の天守がある白鳳(はくほう)城は1935年の建造で忠実な復原ではない。
周囲は上野公園となっていて、1999年に歴史民俗資料館が開館している。
上野は伊賀忍者でも知られ、高虎以後も忍者は登録、扶持(ふち)制となった。
家康の伊賀越えを助けた伊賀者200人はその後幕府に召し抱えられ、隠密(おんみつ)も勤めた。
上野丸の内の上野公園(白鳳公園)内の伊賀流忍者博物館には忍者屋敷があり、資料が展示され、忍術の実演が行われる。
明治以降、幹線交通路から外れて産業的にも農村都市として推移し、組紐(くみひも)や和傘、伊賀焼など伝統工芸が知られる程度であったが、1965年以降、大阪と名古屋を最短距離で結ぶ名阪国道の開通で工場の進出が続き、県下では北勢に次ぐ工業化の著しい地域に変容した。
繊維、電機の工場が多い。
松尾芭蕉(ばしょう)の出身地で、生家、俳聖殿(国指定重要文化財)、蓑虫庵(みのむしあん)、記念館などゆかりのものが多い。
また荒木又右衛門(またえもん)の伊賀越仇討(いがごえあだうち)の遺跡鍵屋の辻(かぎやのつじ)がある。
国指定史跡に伊賀国分寺跡、国分尼寺跡と推定される長楽山廃寺跡、藩校の旧崇広堂、浄土信仰ゆかりの廃補陀落寺(ふだらくじ)町石、御墓山(おはかやま)古墳があり、城之越(じょうのこし)遺跡は名勝・史跡。
高倉神社本殿、絹本著色『藤堂高虎像』(西蓮寺蔵)など国指定重要文化財も多数ある。
果号寺のシブナシガヤ、高倉神社のシブナシガヤは国の天然記念物。
10月に行われる上野天神祭は近世初期に始まり、鬼行列や9基の山車(だし)(だんじり)で知られ、「上野天神祭のダンジリ行事」として国の重要無形民俗文化財に指定される。
また、だんじり会館においてだんじりの常設展示を行っている。
[伊藤達雄]
『『上野市史』(1961・上野市)
▽福永正三著『秘蔵の国』(1972・地人書房)』
[参照項目] | 荒木又右衛門 | 伊賀(市) | 伊賀国 | 伊賀焼 | 伊賀流 | 上野城 | 藤堂高虎 | 芭蕉(俳人)
★
★伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。時代物。10段。
近松半二、近松加助合作。
1783年(天明3)4月大坂・竹本座初演。
1634年(寛永11)荒木又右衛門(またえもん)が義弟渡辺数馬(かずま)を助けて舅(しゅうと)の仇(あだ)河合又五郎を討った事件を脚色。
奈河亀輔(ながわかめすけ)作の歌舞伎(かぶき)脚本『伊賀越乗掛合羽(のりかけがっぱ)』(1776初演)を土台にした作で、題名どおり仇討の過程を道中双六に見立て、鎌倉から郡山(こおりやま)、沼津、岡崎などを経て伊賀上野の敵討(かたきうち)で終わる。
同年9月には歌舞伎に移され、以後「伊賀越物」の代表作になった。
第一(鎌倉)~第五(郡山)―上杉の臣沢井股五郎(さわいまたごろう)は同藩の老臣和田行家(ゆきえ)を殺して逐電する。
行家の娘お谷の夫唐木政右衛門(からきまさえもん)は義弟志津馬(しづま)の助太刀(すけだち)をするため、主君誉田内記(ほんだないき)から暇(いとま)をもらう。
第六(沼津)―志津馬の愛人お米(よね)は、沼津に住む父親の雲助平作(へいさく)のもとで敵股五郎の行方を探している。
ある日、平作が昔、他家へ養子にやった息子の呉服屋十兵衛がこの家に泊まる。
平作は十兵衛が沢井にゆかりある者と知り、千本松原で敵のありかを聞こうとするが、義心厚い十兵衛が明かそうとしないので、自害して末期の耳に股五郎の行方を聞き、お米に立ち聞きさせる。
第八(岡崎)―敵を尋ね、藤川の関所を破った政右衛門は、岡崎で偶然にも旧師の山田幸兵衛の家に泊まる。
幸兵衛は娘の許婚(いいなずけ)の股五郎に味方しようと、いったんは政右衛門に助太刀を頼むが、妻のお谷を追い返し嬰児(えいじ)のわが子まで殺した政右衛門の義心に感じ、助太刀を断念する。
「沼津」は平作の気骨と、義理と恩愛の板挟みになる十兵衛の苦衷を劇的に描いた名場面で、とくに歌舞伎では花道と客席を使って旅の情趣を色濃く表現する。
「岡崎」は雪を背景にした重厚な悲劇で、義太夫では有数の難曲になっている。[松井俊諭]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます