◆兵隊やくざ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/兵隊やくざ
『兵隊やくざ』(へいたい - )は、1965年(昭和40年)製作・公開の日本の長篇劇映画である。増村保造監督。本作を皮切りにシリーズ化した。
監督 増村保造
脚本 菊島隆三
原作 有馬頼義
製作総指揮 永田雅一
企画 久保寺生郎
出演者 勝新太郎
田村高廣
音楽 山本直純
撮影 小林節雄
照明 渡辺長治
編集 中静達治
製作会社 大映東京撮影所
上映時間 102分
◆ストーリー
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、舞台はソビエト連邦との国境に近い満州の「孫呉の丘」。4万の兵力を誇る関東軍が駐屯していた。そこへ入隊してきたのは大宮貴三郎(勝新太郎)という浪花節語りになれずやくざの用心棒をやっていた男。大宮の指導係に任命されたのが、三年兵の有田上等兵(田村高廣)であった。彼は名家の出身でインテリであり、幹部候補試験を意図的に落第したという男であった。
大宮は新兵であるにもかかわらず我が道を行く傲慢さで古参兵たちの反感を買い、腕に自信のある砲兵隊の乙種幹部候補生・黒金伍長(北城寿太郎)は、彼を痛めつけた。しかし、入営年次が上の兵隊である有田が現れ、形勢は逆転、黒金は指の骨をすべて折られてしまう。
大宮は自分を助けてくれた有田を慕う。しばらくして、全師団合同大演習の場で軍曹に昇進していた黒金に再会した有田は暴行を受け、歩兵隊対砲兵隊の大喧嘩へと発展した。大宮はついに外出禁止の罰を食らうが、あろうことか兵舎を脱走し、将校専用の芸者屋に乗り込み、音丸(淡路恵子)と遊ぶのであった。当然事件は発覚するも、有田は自分の責任で大宮に制裁を加えることを誓って、彼を許すのだった。
やがて戦況は悪化、有田は満期除隊の可能性は消え、大宮には南方部隊への異動が命じられた。有田と離れることがつらい大宮は、規則を犯せば営倉に入れられ、この地に留まれると考え、またしても無断外出し、迎えに来た有田に敢えて暴行を加え自ら営倉に入った。
結局、本大隊全体が転進することとなった。大宮はいまこそ有田に恩返しだと、兵隊を乗せた客車を切り離す。有田と大宮を乗せた機関車だけが、満州の地をどこまでも走り抜けていくのだった。
◆本作もまたヒットを生み、『座頭市』同様に、シリーズ化された。シリーズ第9作『新兵隊やくざ 火線』は、大映が前年末に倒産したため、勝プロダクションの製作で、東宝が配給した。
◆
新兵隊やくざ 火線
https://movie.walkerplus.com/mv19526/
1972年4月22日(土)公開
「兵隊やくざ」シリーズ第九作目。今回は初めてのカラー作品。有馬頼義原作の、“貴三郎一代”の映画化。脚本は、東条正年。監督は脚本も執筆している「遊び」の増村保造。撮影も同作の小林節雄がそれぞれ担当。
映画のストーリー
どこの部隊でも、もてあまされた大宮一等兵と有田上等兵。
北支の最前線の北井小隊に、転属命令という名目で、ていよくほうり出された。
戦争嫌いの北井小隊長と抜群の戦争屋神永軍曹の指揮下に入った大宮と有田は、八路軍のスパイとして連れて来られた黄少年の事で早速、ひと悶着。
少年は北井小隊に協力している村長の黄の息子であるが、スパイと決めつける神永軍曹は、大宮に殺せと命じたのだ。
大宮は、子供を殺したくないと、その馬鹿力で神永軍曹をやっつけてしまった。
それがきっかけで、少年の姉である美人の芳蘭と知りあえる。神永軍曹も、芳蘭に目をつけており、大宮と神永の対立は激しくなっていった。
その頃、北井小隊周辺の情勢は急速に緊迫していた。
八路軍の動きが激しくなり本部から連絡のトラックは全て爆破されてしまっていた。
日本軍の情報が全てキャッチされていることは疑う余地もなかった。
だが、スパイが何処にひそんでいるのかまるで見当がつかないまま、北井小隊は孤立状態を続けるしかなかった。
隊の全滅は目の前に迫っている。神永軍曹は、芳蘭にスパイ容疑をかけた。
北井小隊長は、大宮に、芳蘭を口説きおとせと、スパイ捜査を命じた。強引に芳蘭を抱きしめ接吻し、スパイなのかと率直に聞く大宮に、芳蘭は、自ら八路軍のスパイであることを自白し、今夜、八路軍の夜襲があると教えるのだった。
北井小隊は、芳蘭のおかげで、八路軍を撃退したが、芳蘭を逃がした大宮は、神永軍曹に叩きのめされ重営倉入り。
芳蘭の弟に救い出され、芳蘭に八路軍に入らないか、と言われて、大弱りする。
その頃、二回目の八路軍の襲撃で、北井小隊長は死に、小隊は壊滅状態になっていた。
芳蘭の機知で、中国服に着がえた大宮は、有田を探し出すべく火線(最前線)を突破し、日本軍部隊の中へ舞い戻ったが、変装がバレて脱走兵として一室に監禁されてしまった。
そしてその部屋には探していた有田もいた。
生き残っていた神永軍曹は、ぬけぬけとその部隊の一員として、大宮・有田を裁く側に立っていた。
大宮・有田の危機に、芳蘭は神永軍曹の前に身を投げだして二人の命を救った。
悪らつな戦争屋神永軍曹への激しい怒りが大宮の身体を走った!
大宮の手に黒く光った軽機銃が固くにぎりしめられた……。
◆兵隊やくざ
https://youtu.be/QoAl4P5pmZ4
◆新兵隊やくざ
https://youtu.be/NaSdRD3XqgE
27,062 回視聴
Kodasusaka
2019/01/05 に公開
◆八路軍 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/八路軍
八路軍(はちろぐん、パーロぐん、簡体字:八路军、拼音: bālù-jūn)は、日中戦争時期に華北で活動していた中国共産党軍の通称である。
華南で活動していた新四軍と共に現在の中国人民解放軍の前身となった。
長征の中で陝西省まで辿り着いた紅軍本隊が国共合作で八路軍となり、華南に残留した紅軍各隊は新四軍となっている。
1937年8月22日に毛沢東の中国工農紅軍が、国民政府の指揮下に入って国民革命軍の一部となった際に第八路軍と称された事に因んでいる。
1937年8月までの編制単位序列は、集団軍=路軍>軍>師団となっており、路軍は小規模な集団軍の位置付けだったが、翌9月に路軍が廃止され集団軍に一本化され、それに伴い第八路軍も9月12日に第十八集団軍と改称された。しかしこのわずか20日間程度の八路軍の呼び名は理由は不明だが、その後も残される事になり以降の中国共産党軍の代名詞となった。
◆はちろ‐ぐん【八路軍】
《「国民革命軍第八路軍」の略》中国の抗日運動期に華北で活動した中国共産党軍。
1937年8月の第二次国共合作による抗日統一戦線によって編制され、抗日戦の主力となった。
日中戦争後、新四軍と合体し人民解放軍と改称。
1937年8月から 47年3月まで存続した中国共産党直系の中国国民革命軍第8路軍の略称。
広義には華北にあったすべての共産党系部隊を総称し,さらに全国の共産党系部隊を総称することもある。
27年創設された中国工農紅軍が,日中戦争勃発直後の 37年8月 25日国民政府軍事委員会の指揮下に改編され,国民革命軍第8路軍の名称を与えられた。
総指揮朱徳,副総指揮彭徳懐のもとに,第 115師 (師長林彪 ) ,第 120師 (師長賀龍 ) ,第 129師 (師長劉伯承 ) の3個師が編成された。
同年9月第 18集団軍と改称されたが,一般にはなお八路軍の名称が広く用いられた。
抗日戦争では平型関の戦いで勝利を収めるなど,華中の新四軍とともに日本軍との戦闘で中心的な役割を果し,日本軍の降伏後,華北,内モンゴル,東北に進撃してこれを解放した。
のち新四軍とともに中国人民解放軍と改称された。
◆路軍【はちろぐん】
中国で抗日戦中に華北を主戦場として活躍した中国共産党軍(紅軍)の通称。呼称は日華事変(日中戦争)後の第2次国共合作進展過程中に,紅軍が国民政府軍事委員会の指揮下に入り,1937年8月に中国国民革命軍第八路軍となったことによる。林彪,賀竜,劉伯承らが師団を率いた。1940年に正規軍40万,1945年に90万を擁し,1945年には19の解放区(根拠地)を建設し,1億に及ぶ人口を支配した。1947年10月中国人民解放軍に改編された。
→関連項目抗日戦争|三光政策|朱徳|スメドレー|中国共産党|平型関|彭徳懐|葉剣英
◆満州 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/満州
満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:Mǎnzhōu、英語:Manchuria)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。
渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。
なお、漢字表記は「満洲」が正式である。
「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。
しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。
◆満州国 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/満州国
満州国(まんしゅうこく、旧字体: 滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、1932年(大同元年)から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した政権。「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる。
皇政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」(だいまんしゅうていこく)あるいは「満州帝国(滿洲帝國)」(まんしゅうていこく)などと呼ばれていた。
日本(朝鮮、関東州)および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。
日本の傀儡国家であるという意見もある。
◆豊かだった満州国【CGS ねずさん 日本の歴史 12-4】
42,364 回視聴
https://youtu.be/G4QJJh_ydGo
ChGrandStrategy
2017/10/27 に公開
今回の目からウロコの日本の歴史は満州国についてです。
大豆によって満州国が豊かになっていったという以外な実話に驚きの回です。
◆満州人が韓人を差別した歴史的背景【CGS 韓国・朝鮮史 宇山卓栄 第4回】
214,351 回視聴
https://youtu.be/SHmgbm_C5ns
ChGrandStrategy
2019/03/02 に公開
日本人がほとんど知らない隣国の歴史を知る、「じっくり学ぼう!韓国・朝鮮史」第四回。
講師は各メディアで時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説を行うなど、多方面で活躍中の著作家・宇山卓栄さんです。
韓国には現在も出身地での差別が横行しているそうです。
全羅道と呼ばれる韓国南部の地域出身者は政治はもちろん芸能の世界でも冷遇されるといいます。
なぜ、未だにそんな差別が存在するのか?その背景に流れる歴史的背景に迫ります。
◆満州国国都・新京《前編》/ The capital of Manchukuo 1 of 2
300,249 回視聴
https://youtu.be/7LAAM2JSnr4
8282typhoon
2009/05/13 に公開
(Digital Library) "CHINA: the pity of it" J.O.P. Bland, 1932
THE QUESTION OF MANCHURIA
https://archive.org/stream/chinathepi...
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昭和初期の日本人が、それまで消化・蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入し建設した満州国国都、新京の姿。全計画の一割にも満たない段階で終戦を迎えたが、進駐米国将軍ウェデマイヤーが「後世に誇るべき傑作」と評価した先進的な都市計画、その一端を垣間みる事が出来る。(1932-1945)
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『満州国の首都計画』 越澤 明 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product...
新京の絵はがき
http://www.library.pref.nara.jp/event...
満洲国民衆風俗
http://www.library.pref.nara.jp/event...
大阪府女子師範学校修学旅行行程表
http://www.library.pref.nara.jp/event...
帝冠様式の建築
http://www.teikan.net/buildings/teikan
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▼ジェームズ・ロスコー・ドラモンド(米紙クリスチャン・サイエンス・モニター編集長)
満洲で最も驚いたのは新京の都であった。
それがいいことであるか悪いことであるか知らないがジャーナリストはとかく新しい事柄に特に興味をもちたがるものである。
新京においても私が最初に見たものは新しく繁栄しつつある街新興国家の新首都――米国の西部の新興都市を思わせるような若々しい気持にあふれ、しかも古い歴史をもった都としての新京であった。
......その土地や建物の発展の迅速さにおいてもまたその徹底ぶりにおいても、新京の如く甚だしいものを私は米国においてすら未だかつて見たことがないくらいである。
しかもその建設たるや極めて慎重に計画され、注意深く設計されたものであることは特筆すべきことである。
阮振鐸氏を局長として建設計画を生み出している国都建設局の屋上から新しく起工された建築物、新しい街路、拡げられた公園などを見渡す眺望は全くすばらしいものである。
それは恰も国家建設への厳然たる決意、豊な経済的資源への固い信用、国礎安泰への強い信頼を物語っているかのようである。(1934年11月)
◆満州国国都、新京《後編》/ The capital of Manchukuo 2 of 2
97,497 回視聴
https://youtu.be/tir3-u3OL8Y
8282typhoon
2009/05/14 に公開
(Digital Library) "CHINA: the pity of it" J.O.P. Bland, 1932
THE QUESTION OF MANCHURIA
https://archive.org/stream/chinathepi...
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