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縄文人の志葉楽さんのブログ

日記や趣味を書く

●日本の歴史と栄華衰退

2021年05月28日 15時39分36秒 | 歴史
●日本の歴史と栄華衰退
日本の歴史は国学と称するアカデミアの専門家と古義学と称する江戸時代に伊藤仁斎によって唱えられた儒学の一派と神道と神代文字を唱える一派などが覇を競い今では国学が日本の歴史をリードしている。
昔から国学で認めている古事記・日本書紀・万葉集などの古典が総ての歴史を語っているとされている。
オーパーツを以前書いたけれどもこれを踏まえていくと色んな文化が歴史として反映したり衰退したりして忘れ去られているモノも有る。
この辺りに争いのモトがあるようだ。
戦後GHQにより日本解体論で反日思想が蔓延し日教組始め共産党や在日と言われる三国人などに加えてシナの工作員などにより一層の反日が深まり現在に至っているようだ。
最初に神道がありそれにシナ系の思想が加わりマルクス主義や共産系統の思想が大いに影響しているのではないかな。
現代はまだ本当の日本の本領とされる何でも取り入れてしてしまう輪の力が完全に発揮されないようにされているのでは無いかと思える。
カタカムナやホツマなどが古事記・日本書紀・万葉集などの古典の原本だという説も大分押してきているのでは無かろうか。
どちらにしろ日本は縄文が基盤である。
これなくしてはこの国の歴史も文化の発展もとげる事は出来ないと思う。
神話はその中で一つの接着剤の役をしているのではないかな。
この辺りは上手く説明できない。
すごく難しい問題である。
和の精神がどこかへ行っているように思えるから。
見ているとアマでもプロでも譲れないだろうけれども譲り仲良くする事は出来ないのでは無いかな。
 一時国内で古墳などの発掘で新発見があるとアタマの硬い学者が認めてくれないかな国内で発表せずに今の言葉で言うと外国でリークして国内に入ってた来るように仕向けていたと聞いた事が有る。
 古墳の発掘で以前すごく長いこと話題になったねつ造問題もこの辺りに起因するのではないかな。
 韓国辺りのトンでも学説で世界の文明が韓国を発祥としているとか反日の思想の影響で二万年前の遺物が発見されても振り向きもしなかったりしているのも不思議である。
 機械での年代測定が間違っているとも言われている。
 結局オーパーツではないけれども本当は地球上に存在したけれども侵略や天変地異やその他の原因で継承されずに忘れ去られているのが本当で総てとは言えないかも知れないけど今出てきている学説は認められても認められなくてもほとんどが本物ではないかな。
 今は文化が本当に進歩しているのかな。
幾つもの遺跡に残る石組みの精巧さやこれだけ大きな石をどうして運んだのか色々と取りざたされている。
空飛ぶ円盤は昔から有ったとも言われている。
超能力は元々人が持っている能力で大きな石を浮かせて運んだりモアイの様に一人で移動したとも言うトンでも説まで出てくる。
ここ何日か 不思議なモノや自然の大きさなどの日記やつぶやきを書いたけど楽しめれば其れで良いかな。
したにいくつかのサイトと解説少し上げておきます。
 興味のある方は一読されると良いでしょう。
 私はアタマが良くないので楽しめてアタマが痛くならない程度にしています。
 専門家では無いからね。
◆国学 http://note.masm.jp/%B9%F1%B3%D8/
江戸中期に興った、文献学的方法による古事記・日本書紀・万葉集などの古典研究の学問。儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようとしたもの。漢学に対していう。契沖(けいちゆう)を先駆とし、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤(ひらたあつたね)らによって確立。古学。皇学。
 2 律令制下の地方教育機関。国ごとに設け、郡司の子弟に儒学などを教授した。
 3 中国の夏・殷(いん)・周の制度で、国都に設けた学校。隋以後は国子監という。
1 古事記・万葉集などの日本の古典を研究して、日本固有の思想・精神を究めようとする学問。江戸中期に興り、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)らによって確立、発展した。和学。皇学。古学。
2 律令制下、国ごとに置かれた、郡司の子弟のための学校。主に経書を教授した。
3 古代中国の国都に置かれた学校。隋以後の国子監に相当する。
◆国学
•江戸時代中期になると,民族意識の高揚を背景として古学の実証精神に影響されつつ国文学・国学の研究がさかんとなった。国学は『古事記』『日本書紀』『万葉集』をはじめとする古代日本の思想精神を実証的に研究し,儒教や仏教とは異なった日本独自の精神文化を発掘することをめざした。
 契沖(1640年~1701年),荷田春満(1669年~1736年)の国文学研究がその先駆となり,賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤によって確立された。
1.賀茂真淵(1697年~1769年)
◦『万葉集』の研究に取り組み,男性的でおおらかな気風を「ますらおぶり」とよび,その素朴で純真な精神を高く評価した。平安時代以降は「からくにぶり」(外来の儒教・仏教精神)や「たおやゆぶり」(『古今集』『新古今集』に見られる女性的やさしさ)が広まり,「ますらおぶり」が失われたとした。
2.本居宣長(1730年~1801年)
◦『古事記』の研究を通して,日本文学の本質を対象に接した際に生じる自然的な感情である「もののあはれ」に求めた。外来の儒教・仏教精神に見られる漢心に対して日本固有の大和心を重んじ,惟神の道(日本の古い道)を国学の追求すべき理念とした。
3.平田篤胤(1776年-1843年)
◦国学の研究を通して,儒教・仏教の精神を排し天皇への服従こそが日本固有の精神であるという国粋的な復古神道を唱え,幕末・明治維新の思想的原動力となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/国学
 ◆国学(こくがく)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問で、蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つである。和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。
◆概要
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問である。
 国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを否定し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。
 江戸時代に形骸化した中世歌学を批判するかたちで現れた。木下勝俊・戸田茂睡らに始まるこうした批判は、下河辺長流・契沖の『万葉集』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷の神官であった荷田春満が神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。
 真淵の門人である本居宣長は『古事記』を研究して、古い時代の日本人は神と繋がっていたと主張して「もののあはれ」の文学論を唱える一方で『古事記伝』を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。また、盲目の学者である塙保己一は和学講談所を設立し、国史の講義と史料編纂に従事。「群書類従」は日本の古書を編集・刊行したものである。宣長の古典の考証的研究を継承して、近世考証学派の大家となった伴信友も「比古婆衣」を著した。
その後宣長門人の平田篤胤に至って宣長の持つ「古道論」を新たな神道である「復古神道」に発展させた。彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷思想にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義や皇国史観にも影響を与えた。平田篤胤の弟子である経世家の佐藤信淵の著作『垂統秘録』や『混同秘策』等にはその傾向がよく現れている。
だが、真淵の門人であった村田春海らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期の小中村清矩らの手によって近代以降の国文学の研究や国語学、民俗学の基礎となった。

◆主な国学者
◆国学の四大人(うし)
●荷田春満 - 賀茂真淵 - 本居宣長 - 平田篤胤
●契沖
 ・今井似閑
 ・安藤為章
 ・海北若沖
●本居春庭
●本居大平
●鈴木朖
●権田直助
●敷田年治
●萩原広道
●矢野玄道
●平田鐵胤
●常世長胤
●塙保己一
●富士谷成章
●富士谷御杖
●五十嵐篤好
●拝郷蓮茵
●千家俊信
●谷川士清
●東条義門
●増田宗太郎
●石塚龍麿

●古神道と国学
神秘的な古神道と日本固有思想である国学の世界
http://ftc2.tripod.com/
 
●古義学 とは - コトバンク
こぎ‐がく【古義学】
〘名〙 江戸時代、古学派の一人伊藤仁斎が京都堀川の古義堂で提唱した学問。 朱子学や陽明学を媒介としないで、直接「論語」、孟子の経典を批判することで道義を究めるとともに、仁に基く修養を重んじたもの。
 
●伊藤仁斎【いとう-じんさい】とは - コトバンク
伊藤仁斎【いとうじんさい】
古義学派の創始者。 名ははじめ維貞,のち維【えだ】(これえだ)。 京都の上層町衆の家に生まれ,親族・姻族には角倉了以,里村紹巴,本阿弥光悦,尾形光琳・乾山らがいる。 生涯仕官せず,市井の儒者としてすごす。
 
●伊藤仁斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤仁斎
伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。
諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。
 
●古義真言宗 とは - コトバンク
こぎ‐しんごんしゅう【古義真言宗】
〘名〙 真言宗の一派。 正応元年(一二八八)、根来寺(ねごろじ)の僧頼瑜が大日如来の加持身説法(かじしんせっぽう)の新義を唱えたのに対して、高野山に従来より伝えられてきた本地身説の古義を主張した覚海、道範らの説、およびそれを奉じる一派をいう。
 
●新義真言宗 とは - コトバンク
しんぎしんごんしゅう【新義真言宗】
高野山を拠点とする空海以来の真言宗(古義真言宗)に対し,紀州根来(ねごろ)寺に拠った覚鑁(かくばん)を宗祖とする一派。 現在は京都智積(ちしやく)院を本山とする真言宗智山派と,奈良県桜井市の長谷寺を本山とする真言宗豊山(ぶざん)派が二大宗派で,根来寺は別に新義真言宗本山を称する。
 
●古学(こかく、聖学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/古学
古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の「聖学」(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の「古義学」、荻生徂徠の「古文辞学」の総称。
徂徠の学派を「蘐園(けんえん)学派」と呼び[1]、古文辞学的に研究し、その古典を道徳の観念より制度理論の書=一種の政治学の原典と見るやり方であり、近代的思考に近いものがあるとされる[2]。この学派は水戸学派や在野の「崎門(きもん)派」(山崎闇斎の学派)と異なり、『孟子』の放伐論を肯定したところに特徴があるが、これは幕府の正当性のために利用され、近世期の朝廷に政権がないのは、民を安んじたために幕府に委譲せざるを得なかったと解釈された(前同 p.51)。これに対し、山県大弐は逆に幕府打倒の正当性に放伐論を利用した[3]。
一方、仁斎の古義学は、政治や社会秩序について議論することはほとんどなく、それを天命として、そのまま受け入れる(後述書 pp.173 - 174)。その関心は、秩序の元における人倫世界を愛と誠実と思いやりに満ちたものとするための、人々の日常生活における自覚的実践に向けられ、非統治者の立場から儒学を内面化した(後述書 p.174)。徂徠は、「道」を「古代中国の先王達が制作した礼楽刑政のこと」とし、天地自然や人間(の内面)から道を分離したが、徂徠の道の解釈が、政治や制度に限定されたのに対し、仁斎の道は、人倫世界(俗)に限定された(佐々木潤之介他 『概論日本歴史』 吉川弘文館 2000年 p.176)。
後世の解釈によらず、『論語』などの経典を直接実証的に研究する。その実証的な研究態度は国学などに影響を及ぼした(前同 p.176)。江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。
他方、寛政異学の禁では「風俗を乱す」という理由で江戸幕府及びこれに倣う諸藩で公式の場での講義を禁止された。


皆さんこの日本を楽しまないと。
知らないことを知るとは胸が弾むモノ。
 彼や彼女を発見するのと同じではないかな。
ありがとう

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