・・・アキカンと空と・・・

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雲仙焼き

2016年03月29日 | 歴史

雲仙焼き・・・。











値段が高いので

びっくり・・・。










立派な物がたくさん・・・。
















































つぼみが・・・。

目についたので・・・。





平凡が一番。普通が一番。自然が一番。健康が一番。笑顔が一番。

また行きたいなあの場所へ・・・

武家屋敷

2016年03月21日 | 歴史
武家屋敷























































島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼びます。

鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、

造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、

その名がつけられたと言われています。






















7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸ありました。

町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、

水奉行を置き、厳重に管理されていました。

現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで、

山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。














































長崎 島原城

2016年03月16日 | 歴史

島原城・・・。









島原城の茶店・・・。








由来・・・。









多くの展示品がありました・・・。










長崎に大名のキリスト教徒がいたと知りました・・・。

勉強不足でした・・・。

島原の乱も少し勉強しました・・・。
















































































島原の乱の・・・

幕府軍

幕府派遣軍 上使 - 板倉重昌 800人 (従軍者:柳生清厳)

上使 - 松平信綱 1,500人

副使(目付)- 石谷貞清 ※出兵人数不明

副使 - 戸田氏鉄 2,500人


諸大名 備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)

筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人

筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人

同柳河藩 - 立花宗茂・立花忠茂 5,500人(従軍者:立花政俊、安東省菴)

肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人

同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人

同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人

肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人

日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人

豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 (従軍者:宮本伊織、高田吉次)

同中津藩 - 小笠原長次 2,500人 (従軍者:宮本武蔵)

豊後高田藩 - 松平重直 1,500人

薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人

そのほか - 800人

総計 125,800人(「オランダ商館日記」によると士卒80,000)

幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死傷者は諸説あるが、

「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、

「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされています。


籠城軍

  詳細は島原の乱における一揆勢の主要人物参照

総大将 - 天草四郎時貞 (当時16歳)

原城本丸大将 - 有家監物入道休意(有馬氏旧臣)

評定衆 - 益田好次(小西氏旧臣)

評定衆 - 蘆塚忠右衛門(有馬氏旧臣)

評定衆 - 渡辺伝兵衛(天草 元庄屋)

評定衆 - 赤星内膳(加藤氏家臣の子)

惣奉行 - 森宗意軒(小西氏旧臣)

原城本丸番頭 - 山田右衛門作(有馬氏旧臣・松倉氏御用達南蛮絵師)

浮武者頭 - 大矢野松右衛門(小西氏旧臣?) 戦闘員 - 14,000人以上(推定)

非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)



総計 約37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢を除き27,000人とするなど異説あり)。

幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、

生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったと言われています。・・・