マリの朗読と作詞作曲

古典や小説などの朗読と自作曲を紹介するブログです。
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父の故郷訪問記(3)

2022年03月28日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(3)

50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

→ 父の故郷訪問記(1)

→ 父の故郷訪問記(2) 

 

 

おばあちゃん = 父の19歳上の姉

 

おばあちゃんはわたしを、

近所に住む同年配の

茶のみ友達の家に連れて行った。

お友達というのは、

ちょっと目の鋭い、

年の割に上背のある女性だった。

彼女はおばあちゃんとわたしとの

血縁関係を聞かされると、

即座にこう言った。

「ああ、モンジさんの曾孫(ひまご)かぇ」

モンジさんというのは、

どうもわたしの父方の

ひいお爺さんであるようだが、

無論、初耳だった。

ふぅむなるほど、 

この辺りでは

他家の血縁関係にも

よく通じている、と。

 

わたしたちはお宅におじゃまして、

こじんまりした炬燵に三人で入った。

友達同士が世間話をしている間、

わたしはそばで蜜柑を食べたり

猫をかまったりしていたが、

土地の言葉で交わされる会話は

未知の外国語同然で

ちんぷんかんぷんだった。

 

 

 

家に戻ると、

寅四郎さんの長男のエイ君が

笑いながら言った。

「年寄り同士の話は、

何言ってるか

全然わかんないっしょ。

俺らでもわかるのは

半分くらいだから。」

当時わたしは二十歳、

エイ君は一つ年下。

 

「モンジさんの曾孫」

という言葉に触発され、

わたしは寅四郎家の

家系図を作ってみようと思い立った。

で、大きめの紙と鉛筆を用意して

エイ君にあれこれ尋ねたのだが、

これがまったく要領を得なかった。

そもそも家系などというものに

興味がないのだろう。

私は気が抜けてしまって

この話はすぐに終わりとなり、

興味は他へ逸れた。

が、いっそあの時、

自室にいたおばあちゃんのところに

押しかけて行けばよかった。

喜んで詳しく教えてくれた気がする。

残念なことをしたと、

ずっと後になってから思った。

 

(私が新潟の家を訪れたのは

これが最初で最後だった。)

 

父の故郷訪問記 (4)  に続く

.

 

 


父の故郷訪問記(2)

2022年03月24日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(2)50年前の思い出

 

 父の故郷訪問記(1) から読んでね    

  

 

父と私の乗った列車が到着した駅に、

トラちゃんこと

虎四郎さんが迎えに来てくれた。

名前の通りに伯母の四男で、

年齢は父といくつも違いなかった。

父と寅四郎さんは

顔を合わせるやいなや

「やあやあ、ひさしぶり」と

大声であいさつを交わし始めた。

父は地声が大きいが、

寅四郎さんもそれに負けてない。

20歳の私はちょっと恥ずかしかった。

 

 

おばあちゃん(伯母)の一家は

米作り農家であった。

古い大きな日本家屋に住んでいた。

部屋の襖を次々に開けていくと

ぶっ通しで

何十畳もの広さの座敷になり、

座敷ぼっこが出没しそうなお家。

昔は村の庄屋を務めていたので

お殿様を泊めたこともあったという。

 

 

 

家族がお正月用に

庭から松の枝を切ってきた。

それを見たおばあちゃんは,

「昔は家には

立派な赤絵の花瓶があって、

大切なお客があるときは

おじいさん(亡夫)が黒松を活けたもんだ」

と述懐した。

 

活け花は単なる趣味やお稽古事でなく、

当主の務めのひとつだったのだ。

わたしはその時ふと、

虎四郎さんに活け花ができないのを

おばあちゃんは

無念に思っているのではないか

と感じた。

 

 

虎四郎さんが当主になったのは、

戦後しばらくしてからであった。

兄たちがみな戦死してしまい、

虎四郎さん自身も

満蒙開拓団で大変な苦労をし、

何とか生き延びて帰ってきた。

 

戦前は、

長男だけが当主になるべく

帝王学を叩きこまれた。

おそらくは食事も、

家長と長男だけが

特別だったのではないか。

教養も人脈も

客のもてなしも風流も

教え込まれたのは長男だけなので、

長男がいなくなり、

戦後の農地解放で土地を失うと、

没落と共に

旧家の文化も途絶えた。

 

 

外の水道端に、

様子の良い唐金の建水が

無造作に転がっていたり、

裏庭には

什器と古文書の蔵があったりと、

都会で、親子だけの

ごく普通の勤め人家庭に育った私には、

初めて見る世界であった。

    

 父の故郷訪問記(3) に続く

   

前の記事はこちら

  →  父の故郷訪問記(1) 

  


父の故郷訪問記(1)

2022年03月20日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(1)

 

わたしの父は、新潟県の

海に近い町の生まれであった。

父に連れられて

初めてその町を訪れたのは、

半世紀も昔の二十歳のころ。

12月下旬にしては

珍しく雪のまだない年だった。

 

 

父の生家は地元の旧家で

田畑や山林を所有して裕福だったが、

他人の借金の保証人になったがために

すべての財産を失ったという。

以後、

「絶対、他人の借金の保証人になるな」が

一家の座右の銘となる。

 

 

父は9人兄弟の末っ子だったので、

父が生まれたときには、

19歳年上の長姉はすでに嫁いでいた。

父が子供のころに一家は没落し、

知り合いのいる神戸に引っ越して

赤貧洗うがごとしの生活をおくった。

父の両親は、

その後いくらもしないうちに

相次いで亡くなった。

父は年の離れた兄の援助で

神戸の商業高校を卒業した。

 

 

50年前の新潟訪問時に

当然ながら父の生家はすでになく、

長姉(私の伯母)の嫁ぎ先に泊めてもらった。

父と19歳離れている伯母は

私には祖母の年代といってよかった。

小柄で品のいいお年寄りで、

優しくふわッと発音する「おばあちゃん」

という呼称がぴったりの人であった。

なので、私の中では

おばあちゃんとして認識されている。

   

 → 父の故郷訪問記(2)  に続く

 

 


バレエを習っていた頃

2022年03月16日 | 私の昔

 

私は写真に撮られるのが苦手である。

大人になってから

自然な表情の写真がほとんどない。

だから、子供時代は

ごく自然に写っているのが

不思議でならない。

 

そんな私の

4歳~6歳ころのバレエの写真。

これが笑っちゃう写真で、

膝から下が、いや足の付け根から下が、

どうしたらあんな風に

ふつう曲がらない方向に湾曲するのか

わからない。

(今ではとても無理。)

バレエスタジオに

カメラマンが来て撮ってくれた。

先頭で胸を張ってるのが私。

おそらく

カメラマンや先生から言われた通りに

一生懸命ポーズをとったのだろう。

      

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次は発表会の舞台写真。

お母さんウサギを囲んでいる

子ウサギとちびっこい小鳥たち。

曲の終わりの決めポーズ、かな。

 

 

 

 

私の役柄は小鳥の一羽。

お母さんウサギが出かけて

小鳥たちが

子ウサギの子守をしているところに

こわい狼が来る。

慌てて木の葉で子ウサギの乳母車を隠し

とぼけて狼を追い払う、というお話。

 

舞台終了後に

一人づつ撮った写真もある。

衣装の羽根が首に触れて

くすぐったかったことを

よくおぼえている。

 

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反り指だね・・・。

 

 

 

 

             

 

 

朗読が追いつかず、

古写真でお茶を濁す・・・。

 

 

朗読は、

まず作品選択が結構大変。

長かったり、よく知られてない作品は

聞く人にあまり好まれないだろうし、

文学的価値と一般受けは

必ずしも一致しないし、

著作権の続いている作品を

勝手にアップすることはできないし、

朗読は読み込まないといけないし・・・

で、

今日の記事はこうなりました。

あしからず。

/

 


猿の喰逃げ他2篇(薄田泣菫)

2022年03月12日 | 詩の朗読

 

薄田泣菫の楽しい詩を3篇。

1.猿の喰逃げ

2.春

3.狐の嫁入

 

薄田泣菫の詩(猿の喰逃げ、春、狐の嫁入)

 

薄薄田泣菫(1877年~1945年)は

岡山県倉敷市生まれの詩人、随筆家。