楽しいアセンション・次元上昇 ~5次元への旅~

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心の良き気の波動で悪を善の中に抱き参らせよ

2012-08-26 00:04:35 | アセンション

心の良き気の波動で悪を善の中に抱き参らせよ

 前も一度書きましたが、もう一回思いだして頂くために、何故?悪を抱き参らせる必要があるのか?を下記に掲載しておきます。領土問題で今もめていますが、これは闇の世界が関係しています。漁夫の利を虎視眈々と狙っているものたちがいます。神の民である日本人は、そんな挑発に乗って神の使命を忘れていけません。悪は所詮善にはかないません。闇は光にはかなわない。闇は闇表には出てこれないしくみなのです。挑発に乗って、自分の御魂を落とさぬよう用心してください。

日月神示では、神の民である日本人には「みろくの世」を作るための大変な使命が、あると言っています。
まず、それぞれが身魂磨きを行ない、清廉された心の良き気の波動で悪を善の中に闇を光の中に抱き参らせるように言っています。

ただ悪を倒すより、大変困難な仕事です。悪自身自ら改心させ、善になりたいと思うように導きなさいと説いています。きっとこの大仕事、和の民である大和の民でしかできない大業なのでしょう!神風特別行動隊、みろくの世を作るため頑張るしかないです。^^

(某ホームページより)
『日月神示』が示す善悪に関する記述を抜粋しよう。


「悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ」

「まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、悪の大将は光り輝いているのざぞ」

「人の心から悪を取り除かねば神に通じないと教へているが、それは段階の低い教であるぞ」

「大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが」

「悪を悪と見るのが悪」
「悪も御役であるぞ。この道理よく腹に入れて下されよ」
「罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず」
「悪も神の御働きと申すもの、悪にくむこと、悪ぢゃ。善にくむより尚悪い。何故に判らんのか」

「悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ」
「悪で行けるなら悪でもよいが、悪は影であるから、悪ではつづかんから早う善に帰れと申すのぞ」

「善でつづくか悪でつづくか、この世に善と悪とがあって、どちらで立って行くか、末代つづくか、得心ゆくまで致させてあったが、もう悪ではつづかんことが悪神にも判って来るのであるから、今しばらくのゴタゴタであるぞ」

「悪もよいなれど、悪も神の用(ハタラ)きであるなれど、悪が表に出ること相成らん。
悪を食ふて暮らさなならん時近づいたぞ、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶっていること多いぞ、だが悪も大神の中に生まれたものであることを知らねばならん」

「善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。

悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の善悪となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」

「すべての善は、・より起こり、・に還るのと同様、すべての悪もまた・より起こり、・に還る。
故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。

殊に地上人はこの善悪の均衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善はなくなるのである。この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである」

「地上人は絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。
この場合、この平衡を破るようなことになってはならない。

その平衡が、神の御旨である。
平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超大平衡にと進み行くことを弥栄というのである。

左手は右手により生き動き、栄える。
左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生まれ、神に育てられつつある。
始めなき始めより、終わりなき終わりに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである」

「霊人に於いては、善悪の両面に往することは、原則として許されない。
一時的には仮面をかむり得るが、それは長く続かず、自分自身絶え得ぬこととなる。
地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。
しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。
悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。
何故ならば、それがある為に弥栄し、進展するからである。
悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである」

「悪魔の仕組はこの方には判りているから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺してしまうのではなく、悪改心さして、ミロクの嬉し嬉しの世にするのが神の願いざから、この道理忘れるでないぞ」

「悪の総大将よ、早よ改心なされ。
悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。
いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。
悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度はいつまでも結構になるのぞ」

「悪も御苦労の御役。この方について御座れ。
手引いて助けてやると申してあろが。
悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ」

「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ、善も悪もないのざと申してあろがな」

「悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ。
悪も元を正せば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりてくるぞ」

「悪神よ、今までは思う通りに、始めの仕組通りにやれたなれど、もう悪の利かん時節が来たのであるから、早う善に立ちかえりて下されよ。善の神まで捲き入れての仕放題。これで不足はもうあるまいぞや」

「今日までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教ぞ。
この御教に人民は、すっかり騙され悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ。
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪はますます増えるのみ、悪殺すてふそのことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄ぞ。

本来悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八岐大蛇も金毛も、邪鬼も皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪抱きませ善も抱き、あななふ所に御力の、輝く時ぞ来るなり、善いさかへば悪なるぞ。
善悪不二と云ひながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ。
ただ御光のその中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし」


(上記の解釈を一部)

正義感や使命感で「悪をぶった切る」というのは、どういうことか。

それは「鏡を割り続ける」ということです。鏡を割り続ければ、鏡は増え続けます。
それはつまり、終わりの無い「勧善懲悪」のドラマを延々と続けることになります。

「聖書」では「他人を裁くな。汝の敵を愛せよ!」と諭しています。
「日月神示」や「火水伝文」では、「悪を抱き参らせよ」と諭しています。

今今に悪に見ゆるは、悪を使うて悪払うこ度に使う道具なれば、
まだまだ悪の世が続く思いて居ると、怪我をする伝えあろうがな。
これからは悪と悪の共食いになりて参りて、悪神も苦しくあるから
暴れる程に益々危うき世となりて参るから、汝等は巻き込まれん様
に気を付けて下されよ
。(火水伝文p84)


ケガレ逆巻く今の世では、あちこちで「悪と悪の共食い」が起きています。

しかし、共食いをしている本人達は、それぞれ「自分は善で、相手が悪だ。だから、相手を切り捨てるのは正しい」と思ってやっています。

「本当は自分の方が悪い」と思ってやっている場合もありますが、やり出したら引っ込みが付かないんですかね
悪を裁き、ぶった切り、成敗する「外道の善人」・・・その実は、どっちもどっち。お互い様なのです。
人の争いを、面白がって眺めている見物人も、「外道の善人」と同類とはいえないでしょうか。

「あっちは、ああ言った」「こっちは、こう切り返した」って・・・そんなものを面白がる精神性こそが、いまの時代の「腐れきった日本人」を表しているとは言えないでしょうか。

そうではなくて、「他人の争いを面白がっている自分」を、恥ずかしく思う精神性、悲しく思う精神性こそが、本来のヒノモトの民が持つべき精神性ではないでしょうか

他人の争いを見て、悲しく思う心・・・これは、激しい兄弟喧嘩を続ける子供達を見て、悲しく思う親心に通じませんか?ハッと我に返り、「ああ、自分は、他人の争いを面白がっていた」と気付けば、自然と、そんな自分を恥ずかしく思う気持ちがわいてくるのではないですか?もし、あなたがそんなことにすら気付かなくなってしまっていたら「神の民」して、とても恥ずかしいことです。

神の言いたいこと、それは
大和の民(神の民)よ!悪(闇)を倒しても倒しても、この世は善の世(光の世)にはならない。その闇と光の戦いは永遠と続いていく。そうではなくて悪の魂を抱き参らせ善の魂に改心させなさい。そうすれば、争いのない素晴らしいみろくの世が訪れる。

 悪を善に改心させるように導いていくのが、大和の精神(和の精神)を持った大和の民であり、それが日本に生まれた使命である。早くこの使命に目覚め、まずは自分の身魂から磨いて下されよ。もう時間がないぞ。」
だと思います。

転載以上



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