- マラソンは止めよう。(骨に震動を与え過ぎると疲労骨折する。)
- 歩くこと。(高低差のある所を選ぶ)
- 雨天時の歩行は避ける。(転倒しやすい)

私には棘があった。人と接することはとても大事である。ついつい調子に乗って、言わなくても良いことを言ってしまうのである。相手を不愉快にして、傷つけてしまった。夜中に「あっ!なんていうことを言ってしまったのだろう」もう遅い。その方にはもう会わないかもしれない。後悔しても後悔しきれない。今までもそういう場面がありながら、気が付かなかったのかもしれない。自分はまじめでまともな人間だと思っていた。普段からおしゃべりは苦手である。だから頑張ってしゃべろうとする。口は災いの基とも!~ 沈黙が私の取柄なのだったから、余計な事、出しゃばったことは言うまい。今更になって私は棘人間であったことに痛切に感じた。山岳信仰に少しでも触れようとしている。自然に対する畏敬の念と人への感謝を大事にしてきたつもりが、会話で相手に傷つけていた自分に「とんでもない恥知らずの馬鹿者」であったのである。もう70を越えている。人間失格のままである。年齢ではないのかもしれない。自身の性格に問題がある。直すことは到底困難。かと言って、諦めては人間失格+棘人間で終わりたくない。さてどうするか。孤独に耐える自分を鍛えよう。自分を表現することは止め、透明人間になろう。
山を歩き悟りを開くときが訪れるのだろうか。山の頂上に辿り着くと、神様への感謝も忘れ、景色に奪われ(感動を含め)、それで終わる。自分には心の修行が皆無なのであろう。初めての山に登る時、ルートを外れず、安全に心がけ、周囲の状況を確認するだけで精一杯である。特に獣道とか人の踏みあとが気になり、どちらを進むのかその判断はおのれ自信が決断する。これは経験者だから自分の未踏の山へ挑戦する喜びでもあるのだが。山頂への道のりが楽しみなのである。それゆえ、山頂での行動に自然を畏敬し、感謝する気持ちのゆとりが足りないのだ。ひとつ、いいことがある。単調に歩いていると色々な発想やイメージが浮かぶ。その時は何と素晴らしい「発想」だと我ながら感心する。だが下山してみるとすっかり忘れている。記憶し、心のどこかに仕舞って置ける場所(仮置き)がないのか、年齢によるものか記憶低下しているのかもしれない。振り返るとトイレの中とか、就寝中に目がさえ、考えるときがある。もちろん山中で歩いている時も。心の安寧する場所、空間なのである。良い発想はメモでもすればよいのだが、面倒でもあり、自身天邪鬼の性格でもある。~随分本題から外れてしまった。ひとり静寂な所で生命とか、宇宙とか、考えることがある。そして疑問もたくさん出てくる。そして疑問を解き明かす為に色々と調べる。だがそのことについて学問をしなければわからい部分も出てくる。そういう学問をする機会を得たいのであるが。今は食うだけが精一杯でもあり、贅沢なことは諦めた方がよいのかも !悟りを得ることとは、諦める事。なのかもしれない。「今」を一生懸命(感謝と思考すること)歩むことである。
私は何の為に山に登っているのだろう。1000座の山を登り、無い知識を絞って考える。私個人宗教にかぶれているわけではない。どちらかと言えば妻が亡くなったあと、仏式の葬儀を済ませた。先祖からの宗派でお坊さんを呼び、葬儀と3回忌をやり、お経について関心を持った。毎日妻の仏壇でお経も読むようになった。一番の供養になるとされている。山頂に何時も妻の写真を携え、余裕があればお経を読む。山には霊魂が集まり、神聖な場所でもある。妻に会えるのかもしれないと。山行の数が増える事でウクライナの悲劇をしずめていただきたいと祈ることもある。プーチンという鬼を鎮めたいとも思う。広い意味で世界への平和を望むようになった。どこの宗教でもいいのである。大日如来、キリスト、アラーの神でも。我々人類として人を愛し、排他的な感情を持たず、人々の気持ちを受け入れる寛容さが必要なのではないだろうか。~さて話は山岳信仰である。先日、栃木の三峰山を登った。麓に御岳山(おんたけさん)神社があり、手を合わせて来た。この地は空海(真言宗)が開山されたと伝えられている。なぜ神社なのだろうかと。今の日本は神仏分離という不条理な状況が続いている。明治政府のブレーンに国学者平田篤胤がいた。飛鳥時代前の日本神道つまり復古神道を唱える過激な人物である。政府内で時間をかけ、慎重に進める重大な法律をいとも簡単に神仏分離政策をとったのである。聖徳太子から始まった神仏習合政策は続く天皇たちの努力によりお寺が数多く創建され、本地垂迹(神仏合体)の思想のもと、宇佐神宮、伊勢神宮、二荒山神宮などの神宮寺が出来上がる。これは日本独特な宗教観で世界にない平和的な宗教思想である。平和を念頭に置いた人類たぐいまれな国(日本人)である。他国と違い宗教戦争などはない。もちろん権力闘争による戦はあった。他国を支配するという(太平洋戦争)一部過激な人物たちには日本独特の宗教心が無かったのだろう。戦後になっても政教分離の考えは良いとしても、天皇家の信教の自由はない。今の天皇家は今までの天皇の位牌(泉湧寺)すら拝められないのは無知な政治家の多いせいだろう。どうにかかつての天皇家が進めた神仏習合にならいたいものである。~今の山岳信仰は神を祀っている。私には仏教、儒教と道教が入り混じっているように感じている。特に道教の思想には自然の山を重きに置いている。山の神に使える仙人。日本の山岳信仰の先達。修行僧(山伏、修験者)たちと相通じるところがあるのかな。卑弥呼時代前の人々の暮らしには、山の神を信じて、生活の安寧を感謝し、山を尊んでいたのだと思う。それこそ古来の神様である。地域地域のそれぞれの山の神がいたのである。我々一人一人が自然に崇敬の気持ちと、隣人を愛し、助け合い、先達、先人たちに感謝する心を持ち続けたい。山岳信仰は密教(山岳仏教)と強く結ばれている、修験道の行者で在家である。新時代の行者に私は取り組むことにしよう。
くしくも国葬の重みについて比較されます。英国民に愛され、国民が亡くられて悲しんでいます。英国では国葬にされた人は一握りの誰でもが認める人物しかいません、ダーウィン、ニュートン、ネルソン提督、チャーチル首相等です。国内の首相が戦後国葬にされた方は吉田茂だけです。果たして安倍元首相は元統一教会信者の息子であり、安倍元首相が少なくとも影響与えた人物である。因果応報とも思える結末でもある。日本人を苦しめていた実態が明るみに出てきている。彼を国葬にした岸田首相の勇み足としか思えない。日本の歴史に恥じを残す結果となる。国民によりそう立派な人物だったのかもう一度振り返ってみよう。天皇でさえも狼狽していると見受けられた。国民として歴史上国益のある活動をしたのだろうか。小泉元首相でさえ、北朝鮮から誘拐された人達を戻した。失礼であるが彼がもし亡くなった時は国葬になってもしかるべきである。日本人に愛されること、日本人の国益として実績があること、そして最後に日本人(国会)に認められてこそ意味のある国葬ではないでしょうか。
疑問です。政教分離に詳しい方どうか教えてください。政党の圧力団体(宗教法人)に公明党と創価学会があります。選挙モードになると創価学会員はものすごい応援体制で公明党候補者が選挙に出ると電話が矢継ぎ早に投票依頼してきます。今回、問題になっている安倍刺殺後に旧統一学会がクローズアップされています。安倍元首相の指示で旧統一学会員は自民党候補者に選挙応援活動します。当然当該候補者に投票します。候補者としては当選の為の大事な票です。創価学会は問題視されず、旧統一学会だけが騒がれています。構図は全く同じです。宗教法人と政党は密接にかかわっています。憲法に政教分離をうたいながら、実際は憲法違反しています。国民も代議士も何の疑問も持たないのでしょうか。信仰の自由は保証されていますが、政治介入は許されてよいものか。政治介入する宗教法人の取り消しがあっても良いのではないかと最近、思うようになりました。正義ある政府指示の下で、文科省、国家公安等が日本人を守り、日本の行く末に間違いがないように導くべきと進言します。
プーチンロシアは近いうちに敗戦そして破綻する。その前に日本政府のすることは北方領土の全面復帰に当たって、青写真を描くこと。そしてロシア領土を戦勝国(ウクライナへ援助国)でどう管理するか。当然ウクライナへ全面時に復興保証することを前提に欧米と日本が深くかかわるべきである。ロシアをウラル山脈を境に欧州ロシアとアジアロシアに分割し、自立できるような国家にする。と同時に日本は明治時代に遡り樺太全部と千島列島全部を全面復活させるように詳細を検討しておくべきである。米国はウクライナ支援に投資したものは大きいのでシベリア地域(資源)の管理を供与可能とする。欧州のエネルギー確保を(ロシアからのパイプライン等)永年保証及び採掘権を譲渡する。考えておくシナリオ作り、忙しくなるであろう。各国の思惑が出てくる。ウクライナ復活とロシア統治を今のうちに考えてください。そして今後の無力な国連のあり方も考えるべきである。ウクライナに多大な支援対策はもっと進めることは外交上不可避(ロシア崩壊後の発言力)であるとも思う。日本政府よ、将来を見据える日本シンクタンク(?)よ、すべきことは多い。