西の果てまでもう一度行けと命じられたとしても、僕は喜んで行くだろう。自分に似ていない顔立ちの人々が時間の鎖に縛られることなく暮らす様子や一人占めできるビーチで青い宝石のように輝く海の色を眺められるならば。
「歩いて与那国島一周できますか?」と聞くと、ホテルのレストランで働いていた若い女性が6時間程度で一周できると教えてくれた。思い出のために歩いてもよい。彼女の顔は、中国人と酷似している僕らの顔とは違っていた。いかにも南方の顔立ちだった。髪も顔も黒く、熟れたパイナップルをその頬の横に置けば、似合いそうだった。空港近くでレンタカー会社を経営する島の男に聞くと、台風11号が島を直撃した時は、風速70mの強風が吹き荒れ、キビ畑はそのために甚大な被害をこうむったという。運良く台風の過ぎた後に僕らは訪れたのだった。久し振りに大きな台風だったよ。社長の口調は静かで単調だった。その時与那国島に向かっていた観光客は、着陸できない飛行機に乗ったまま那覇に逆戻りしたということだった。島の人口1,600人程度。高校も総合病院もない。初めて訪れた与那国島だ。どんなことであれ、聞くことすべてが僕の耳には新鮮だった。確か「魏志倭人伝」で出てくる島の一つだったよな。僕の予備知識はその程度のものだった。
2010年9月22日(水)、到着した当日は、レンタカーを借りずにホテル周辺を散歩するだけにした。国道216号から細い道に入り、ティンダハナタという伝説の岩場へ登った。あまり感激もせずに引き返すと、「崎元酒造」への案内板が目に入ったので、そちらへ向かった。伝説より泡盛だ。そこへ行く途中の坂道で、女房のサンダルの緒の一部が切れた。坂道を上った所になぜか廃船が置いてあり、そこに案内板が掛っていた。舳先が指し示す方角を見ると、酒造工場が畑の真ん中に建っていた。泡盛を畑の真ん中で造っているのか。道端の廃船と畑の中の酒造所。見上げる空には明るく強い日射し。日本の西の果ての長閑さだ。僕は工場の一角にあった小さな売店で泡盛の小瓶を買った。店を出ると、酒造所の責任者が工場のシャッターを閉めだした。腕時計を見ると、午後5時だった。一人の従業員が原付に乗ったまま「また明日」と別れの挨拶をしながら赤土の畑の脇を去って行った。一方では、大都会の片隅で深夜遅くまで仕事に携わって心身を疲れさせている人々がいる。給料が少なくてもこういう所で働きたいな。僕は一日の労働を終えてバイクで立ち去る人の幸せを羨ましく見送った。
帰り道、僕は道端の蔓で女房のサンダルと足とを結わえたが、その結び目は暫く歩くと解けてしまった。ホテルに着くと、女房はフロントで接着剤を借りて修理した。
翌日は朝から海へ出かけた。ホテル「アイランドリゾート与那国」のフロントで手作りの地図をもらった。
「六畳ビーチへはどう行けばいいんですか?」
「こう行けば浦野墓地群が見えます。ここを少し走ると、右手にアダンの茂みがあります。それが目印です。そこに車1台分のスペースがありますので、そこに駐車して、反対側の細い道を下の方へ降りて行くと、六畳ビーチがあります」
「看板は立っているんですか?」
「何もありません」
僕らはアイスボックスに数本のサンピン茶だけを入れて出発した。墓地群はすぐ見付けることができた。海の響きに包まれて、薄青い草花が地面の所々を飾っていた。なぜこんなに一つ一つの墓が大きいのか。アダンの葉の茂みって、どのことだろう。僕は車の速度を落として墓地群を通り抜けた。その辺りの道沿いにはどこもかしこもアダンが生えていたと言ってもよい。ここか、あそこか。アダンの茂み、アダンの茂みと口の中で唱えながら走った。「あった!あれに違いない。こんもりしている。車1台分のスペースも確かにある」と僕は叫んだ。
道端に駐車しながら、もし先客がいたらどこに駐車すればいいんだろう、と自問した。ビーチに続く細い道の両側にもアダンの葉が茂っていた。葉の先には小さな刺が付いていた。両手で葉を掻き分けながら進んだ。僕は何の予備知識も持たずに島へ来た。ビーチの写真も見ていない。アダンの葉のトンネルを抜けて、数歩歩くと、僕の視野の中の端から端までが、突然、青い海で一杯になった。見下ろすと、眼下に白い砂浜が岩の間に見えた。躍る心を抑えて、僕らは急で細い崖道を滑り落ちないようにゆっくりと降りて行った。六畳ビーチの砂浜には誰の足跡も付いていなかった。僕らが歩くと、僕らの足跡だけが付いた。誰に言うともなく、「こんな美しいビーチを一人占めできるなんて、・・・」、その後は、もう言葉にならなかった。僕は水中撮影用のカメラを持って海の中に入った。岸辺から数歩の所にもう魚がいた。波の動きと光とが海底に作るゆらゆらと揺れる黄色い網目模様が美しかった。僕は水の中で、自分一人だけの幸福を味わった。あるいは、味わった幸福は自分一人だけのものだった。
都会では、人は何かにつけ自責の念を持ちやすい。仕事上でも私生活でも、人は間違いを犯しやすいからだ。自分の歪んだ顔を通勤途上の駅のトイレの鏡に何度映したことだろう。鏡面をハンカチで拭いても、歪みは直らない。シュノーケリングをしている時、僕は水の中で、息を吐き出すことだけを意識的に行った。そして、夢中で魚を追いかけた。その間、ブクブクブクと泡のように水の中へ消えて行ったのは僕の中の何だったのだろうか。
誰もいない。目に入るものは、月並みながら、青い海と白い砂浜だけだった。夜になったら、月と波しか目に入らないだろう。そうなったら、「本当に月波だね」と言えるだろう。人は幸福に酔っていられる間に酔うべきだ。なぜなら、人が幸福に酔っていられる時間は短いからだ。
夕飯前に僕らはレンタカーの軽に乗り込み、日本の「最西端」を目指した。そこへ行ったからと言ってどうなるものでもない。が、なぜか行きたかった。日没前に着いたが、あいにく空は曇っていた。日本で最も遅い日没を広い水平線の向こう側に見たかったが、見られなかった。最西端で夕陽を見たからと言ってどうなるものでもない。最西端にいようと、波照間島の最南端にいようと、伊吹山麓にいようと、どこにいたって自分がいる所が世界の中心なのだ。どこにいようと、自分と太陽との間の距離はみな同じだ。最西端の崖の下をのぞくと、はるか眼下に白い波が騒いでいた。振り返ると、東の空には満月がゆっくりと昇り始めていた。
三日目、24日、僕らは車で島の外周を回った。どこへ行っても牛馬の糞が散らばっていた。こんな所までは来ないだろうと崖っぷちに行くと、やはり糞が転がっていた。15センチ先は吸い込まれそうな断崖絶壁だ。馬だけにウマく崖っぷちの草を食べ歩くのか。与那国空港近くに馬鼻崎という絶景の場所がある。与那国馬が悠然と水平線上を歩いている。放し飼いの状態だ。ここだけではなく、島では鉄条網とか柵とかはほとんど見たことがない。牧場らしくない牧場ばかりだ。ただ、「テキサスゲート」と言う名の溝が道に設備されている。蹄を持つ動物が渡ることを嫌う溝らしい。
車で走れば外周1周くらいはすぐ終わってしまう。僕らは再び六畳ビーチに向かった。前日と違い、波は荒れていた。風も強かった。僕らは注意しながら少しだけシュノーケリングをした。電信柱よりも太くて長い木材が海岸近くに浮いていた。僕は女房が波に押し流されて近くの大きな岩塊に頭を打ち付けないかとヒヤヒヤした。危険と恐怖とを感じた僕は1回潜っただけで帰る支度をした。
滞在中に与那国中学校の運動会を見学した。レンタカー会社の女性社員が「きょうは中学校の運動会で、お昼休みにエイサーがあります」と教えてくれた。僕らはお昼休みに中学校へ行き、立て看板に貼り付けてあったプログラムを見た。エイサーは12時40分開始と書いてあった。芝生が全面的に植えられた運動場を見ると、リレー競技をしていた。案内放送が「予定より少し遅れています。エイサーは午後1時15分から始めます」と入った。僕らは仕方なく1時15分まで待つことにした。僕は校内を歩き回った。直径1mほどの大釜にはソーキソバ用の汁が用意されていた。食べたい者が食べたい時に好きなだけ食べている様子だった。校舎の壁面のあちこちには「第○○回卒業記念」という表題とその時の卒業生の名前とがペンキで書かれていた。こんなこと続けていると、そのうち書く場所がなくなってしまうだろうに。大胆だが緻密さに欠ける発想だ、しかし、経費はあまり掛からないなと思った。
午後1時15分になった。僕らは案内放送に耳を傾けた。「予定より少し遅れています。今から昼食の時間とします。エイサーは午後2時から始めます」僕はなぜか心の中で嬉しさを感じた。この島には時間など有って無いのだ。時間の外枠に縛られるのではなく、演技の中身、内容、人間の心の自然の流れに従っているのだ。当たっていようがいまいが、僕はこの観点を引き出すことにした。12時40分頃、既に敷物の上で弁当を食べている人々もいた。プログラムにも案内放送にも縛られずに、独自の判断で長い食事時間を楽しんでいる人もいたようだ。愉快な光景だった。
プログラムの中に「職域別リレー」というものがあった。与那国中の教員、教頭、校長、別の中学の教員、校長、農協の職員、民間会社の社員、色々な人々が職域別にチームを作り、競走するのだ。競走と言っても、本気で走る人もあれば、キャンデーを子供たちに配りながら走る人もいる。名は運動会だが、その実質は地域一体で楽しむ祭りだ。競走の結果、一応、ゴールした順に順位を付けていた。だが、賞品は別に籤引きで決めていた。賞品は寄付されたもので、賞品授与後、案内放送が堂々と「○○商店様、○○農協様」と寄付者の名を読み上げていた。指令台の下に、子ヤギが1匹いた。僕は最初、校内で飼育されているヤギが暑いから指令台の下の陰にいるんだなと思っていた。違っていた。あれも賞品だった。ホテルに戻ってからフロントの人やレンタカー会社の人に尋ねたら、みんな知っていた。「もらったチームはヤギをどうするんですか?」答えは、「最後は食べる」だった。与那国島では、運動会の季節になると、ヤギの命も果敢無くなる。
ホテル「アイランドリゾート与那国」はプール付きだった。が、台風の影響で設備が一部故障していた。このホテルのレストランで食べたクロワッサンの味が忘れられない。係員が「良かったら、この塩を付けて召し上がってください」と勧めてくれたものだ。意外な組み合わせに驚きながら食べたが、わが人生で一番感動した味だったと言ってもよい。僕はすぐ与那国海塩の最高級品を探し回って買った。製塩所までわざわざ出向いたが、工場を修理中で休業中だった。塩そのものには甘味が含まれていたが、塩探しは甘くはなかった。手に入れるまで二日間もかかった。
一人で比川の集落から久部良まで細い農道を歩いた。茶色っぽい、明るい、雑然とした荒れ地のような畑。畑か荒蕪地なのか見分けがつかないものが多かった。誰にも会わない。僕の存在を認めてくれたものは、鳥と馬と牛だけだった。
与那国島のメインストリートを見ずに帰るわけには行かなかった。僕らは車で向かった。与那国町役場、与那国診療所、ふくやまスーパー。生活に必要な施設が集まっていた。この島で最大のスーパーには中まで入って見回った。このスーパーの近くの坂を上った所に、凱旋門風の門と黄色っぽい屋根の大きな建物とがあった。民家だろうか、何だろうか。僕らは首を傾げながら細い道をゆっくりと走った。与那国島から石垣島に移動する日、9月25日土曜日、僕らはレンタカーを返却しに空港近くの会社へ行った。こんがりと日焼けした顔の若い男が対応した。眉は細かった。剃っているようだった。笑顔がまぶしかった。僕は彼に前日見た与那国中学校のヤギの話や凱旋門風の門の話をした。「あの一風変わった建物は民家ですか。公的な施設ですか」と尋ねた。「あれは、ふくやまスーパーの経営者の所有でお墓です。昔はたくさん儲かったそうで、あのお墓は1億円かかったという話です。中にはクーラーもあります」と教えてくれた。僕らは驚いた。僕の計算では、墓に1億円かけるということは、当時少なくとも66億円の資産は持っていたことになる。文字通り、福の山だ。時間がないので、全部は書けないが、その後、僕とその若い男とはヤシガニの話をして笑い合って別れた。どんな所へ旅に行くにしろ、その土地の者と一緒に笑い合うことほど愉快なことはない。
人口の少ない島から石垣島に来ると、石垣島が大都会に見えてくる。高層ビルが立ち並ぶ。車も人も多い。9月25日土曜日、僕らは「ANA INTERCONTINENTAL ISHIGAKI RESORT」に泊まったが、今後もし石垣に行く機会があったら、カビラビーチの「クラブメッド石垣島」に泊まりたい。26日、旅の最後の日、米原ビーチでシュノーケリングをする前に、そのホテルの見学をした。古ぼけた民宿で三線を聴きながら泡盛を飲むのも捨てがたいが、映画007に出てくるような高級リゾートホテルでオリオンビールを飲むのもいい。人それぞれ追い求める夢は違うが、夢は見るだけではなく、たまには味わうべきものだからだ。
川平に行く途中、石垣島の或る店に立ち寄った。サトウキビの絞り汁を注文すると、若い男が自分で絞ってみますかと勧めてくれた。店先に絞り器が置いてあった。男は長さ40㎝ほどのキビを4本渡してくれた。乾いた軽い棒のようだった。絞り器に通すと、それでも汁が出てきた。マジックのようだった。男は氷を入れてグラスに注いでくれた。あっさりと甘かった。いつまでも忘れられそうにない味だった。
沖縄では、特に、先島諸島では、何かが違う。その何かが何なのか、まだ分からない。ただ行くたびに強い力で引き寄せられることだけは確かだ。
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