岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

紀北町紀行

紀北町紀行

 三重県紀北町の割烹民宿「美鈴」の大将は「丼の蓋を取って下さい」と言った。その声の方に顔を向けると、焼けた丸みのある小石を、毬栗頭の大将が将に我々の味噌汁の中に放り込もうとしていた。「蓋をして30秒待ってください。一番美味しい温度になります」2017年3月22日朝食の品数も多かった。食後、後継ぎの若旦那が片付ける際の皿の枚数の多かったこと、今も蘇る。前の晩の満腹の名残が少し食欲を抑えていたのに、いざ朝食を食べ始めると、一箸ごとになぜか食欲が盛り返し、体の奥に力が戻り始めた。自分にとっては即効性のある薬膳のような食事になった。

 21日は朝から夕方近くまで雨。半ば諦め顔で自宅を午前9時頃出発し、紀北町には昼頃到着。陰気臭い雰囲気だったが、山葵だけは効いていた寿司屋Yで昼飯を済ませた後、する事もないので当てもなく車を走らせた。名も知らなかった島勝半島の細い道に入り込み、小さなビーチに逢着した。人っ子一人いない。野良猫もいない。陰雨なので海の色も曖昧で冴えない。狭い車中で、地図を見ると、熊野灘と表示してある。「灘」とはどんな意味か。暇潰しに古女房に尋ねる。まともな返答が返ってこない。電子辞書を開く。風波が荒く、航行困難な所と書いてある。車窓から確認する。見える範囲内では、荒い風波なし。雨の日の海はぼやけた白黒写真。何の輝きもなし。じっとしていられない私は寂れた海を抱え込んだままやむを得ず宿に向かうことにした。16時過ぎ、到着。国道42号線(熊野街道)沿いの宿の外観には何の魅力も感じなかったが、その内部は端から端まで美的趣味に彩られた、凝りに凝った作りになっていた。贅を尽くした網代天井を寝ながら鑑賞したのは初めてだった。数寄屋造りです、と女将は静かな声で言った。その女将の手で廊下や部屋のあちこちに飾られた季節の花々は、各々自分独自の色と香で品よく囁いていた。どれも心に染みないものはなかった。(帰りに立ち寄った道の駅マンボウのレジ係によれば、歌手の坂本冬美も以前この民宿に宿泊したということだった。)

 21日は雨だった。22日は行楽日和だった。熊野古道を歩くことにした。始神峠、馬越峠の二カ所へ行った。始神峠の看板には「北越雪譜」で有名な江戸時代の随筆家鈴木牧之が当地を訪れた時の俳句が紹介されていた。一息つきながら木々の間から海と島嶼の景色を眺めた。往路は急な江戸道、復路は緩やかな明治道を通って出発地の駐車場に戻った。往復1時間半程かかった。若旦那が言っていた通り、明治道は大八車でも通れる道幅だった。この山中では誰にも出会わなかった。

 熊野街道を車で少し移動し、馬越峠の入口に向かった。「皇太子行啓記念 平成25年5月」の石碑が建っていた。始神峠よりは人気があるのか、この馬越峠では20名ほどの散策者と擦れ違った。綺麗に整備された石畳の道には古道という雰囲気があまりなかった。1時間程で馬越峠に到着。案内板によると、ここに明治の中頃まで茶屋があったという。こういう山中で熱い茶を啜り、甘い饅頭を食えば、さぞ美味かろう。林間に立ったまま幻の饅頭を食べ、その平らな跡地から尾鷲市街を見下ろした後、尾鷲方面には降りて行かずに、同じ道を引き返した。往時の面影を残す石畳の上に靴底を載せる度に、その敷設のための莫大な労力を想像した。心の片隅では、登り始めからずっと考えていた。ここは以前歩いたことがあるかどうか、と。déjà-vuなのか、記憶が薄れているだけなのか。馬越峠の避難小屋とかその手前の疎らな植林地及びその向こうの水平な明るい峰とかは特に見覚えがあるような感覚がよぎった。しかし、古女房に尋ねると、ここを歩くのは初めてだと言った。自分の中では確かめようにも確かめる術がない、曖昧な記憶のまま残る事柄、こういうものは加齢と共に今後も増えていきそうだ。

 木漏れ日が照らす石畳、早くも耳に響く鶯の鳴き声、そして、前日宿の近くの展望台から眺めた遥かな水平線上で揺れる小さな船影・・・・気儘に過ごせる時間の中で味わったものは、掬い取ろうとしても掬い取れない言葉を超えたものだった。

「鱲子」と書いて、「からすみ」と読む。ボラの卵巣を塩漬けにして作る食品だそうだが、この宿で初めて食べた。この民宿はカラスミ加工場を併設していた。夕食時、カラスミを食べ尽くしてから日本酒を注文したら、女将が「日本酒とからすみはよく合うんですけどね」と言った。サービスでもう一切れ持って来ましょうかと付け加えて欲しかったが、そういう甘い展開にはならなかった。

 朝食時にはカラスミの茶色のパウダーが出た。大将が早口に「温かいご飯に振り掛けて召し上がってみて下さい」と言った。正直に言えば、特に美味しいとは感じなかったが、食べる機会がこの先たくさんあるように思えないので、有難い気持ちで味わった。(75歳になるという大将は気さくな人で、その人物像が分かるような話も書いてもよいのだが、読者に誤解を与えかねないような内容になるので、割愛する。)

 大将や女将との途切れ途切れの短い雑談の中で、土岐市の山上温泉の主人は大将の弟弟子だということが分かった。また、女将は食器の一部は滝呂のS店から購入したものだと言った。紀伊長島でまさか土岐市や滝呂の地名を耳にするとは夢にも思っていなかった。これも一種の縁だろう。

 大将は漁師の息子だった。この辺の海のことなら全部頭の中に入っている、夜でも漁をするポイントへはまっしぐらに走って行けると言った。月夜だとかえって迷うというようなことも言った。私の知らない世界の一端を垣間見た思いだった。井の中の蛙大海を知らず。誠に私のことだと言わざるを得ない。

 帰りに近くの古里温泉に行った。数年前にも利用したことがある。湯船の中で、地元民同士の会話を聞いていると、聞き取れない部分が6割ほどあった。イントネーションが違うとこんなに聞き取りにくいものか。湯の中で、自分は余所者だとつくづくと感じた。人の話し言葉は壁にもなれば扉にもなる、ということか。

 古里温泉の近くの農家で、「はるみ」という名の蜜柑を買った。これも二度目の経験だった。二度目だと私に認識させたものは、その農家の販売店風景と「はるみ」という名札と店先に置かれたベルだった。見覚えがあった。ベルを押すと付近一帯に聞こえるような音が響く。すると、近くの作業場から奥さんが店先にやって来る。そういう仕掛けだった。前と同じ経験をする(積み重ねているという確かな感覚)、記憶が蘇る(自分の心の殻が厚くなっていくという感覚)、そこに少し心の安らぎを覚える(誰かに語れる物語の章が増えていくという感覚)。私は小さな満足感を覚えながら「経験」という名の征服地から離れていく。新しい冒険と馴染みの安らぎ、この二つのものの間を揺れ動く旅。確かに、人生の旅路に果てはない。

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