岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

妙高山から帰る その1

妙高山から帰る           山際 うりう

序章

今年の夏は、誰が何と言っても、
妙高と燕へ行く。
そして、
妙高山が見える所で地元の人に出会ったら、
「あれが、妙高だね?」と尋ねるつもりだ。
そう、あれが、妙高なんだ。
分かっていても、僕は、尋ねる。
あれが、心の隅の隅の隅で、
長い間消えることなく息づいていた憧れの山なんだ。
険しくても、登らねばならない。

人には、行き着かねばならない所が、ある。

憧れの像としてではなく、
自分の心の中に、
本当のあるがままの妙高を
あるがままの大きさで入れなくてはならない。
そうでもしなければ、
決して埋まらない空虚感がある。

行き着けなくても、行き着かねばならない所がある。
「山路きて何やらゆかしすみれ草」
すみれで、しかし、芭蕉の心は埋まったか。
どんなに旅をしても、
夢や憧れは、
行き着くことなく、
どこまでも枯野を駆け巡るばかりだろう。

だから、僕は、
妙高では、寝そべって雲を見ていたい。
あの果敢ない、溶けやすい、
風のまにまに消え果てる雲を。

第一章 妙高山登山日程(案)

0716土、JR多治見1122-1348長野着
      しなの7号
      JR長野1431-1518関山着
      バスに乗り換え
      関山駅発1615-1633燕温泉着
      (頸南バス0255-72-3139)
      燕温泉泊
      宿は、ホテル岩戸屋0255-82-3133
      新潟県妙高市燕温泉
      連絡先は、旅館組合長宅0572-24-3593

0717日、徒歩0600燕温泉発―1300妙高山頂着
      徒歩山頂発1400-黒沢池ヒュッテ着
      ヒュッテ泊 (0255-86-2261)

0718月、徒歩0600ヒュッテ発―燕温泉1300着
      燕温泉1418発(頸南バス)―1438関山駅着
      JR関山発1534-長野着1625
      JR長野発1650-1922多治見着
          しなの22号

  * 第2案
    JR関山発1643-長野―多治見着2032
    しなの24号

第2章 行動開始
 
 2005年7月13日水曜日、ネットで宿、電車の時刻等を調べる。ネットで宿の申し込みをする。
 7月14日木曜日、妙高山の山小屋「黒沢池ヒュッテ」に直接電話して、17日日曜日の宿泊予約をした。主人は、「すいています」と言った。若い頃の私ならば、山頂を征服した後に山小屋で泊まるなんて考えなかったことだろう。
 7月14日夕刻、昨晩ネットで申し込んだ燕温泉宿泊予約がうまくいかなかったということが分かった。時間的余裕がないので、自分で直接燕温泉旅館組合へ電話した。「登山したいので、なんとか一部屋探してくれませんか」と。全部で7軒しかない燕温泉旅館は、満室状態だった。が、何とか組合長経営の旅館の小さな部屋に入れてもらえることになった。布団部屋みたいな所だろうか。男一人の旅、寝ることさえ出来ればいいか。税別12,000円で合意。
 電話の相手の女性に、17日日曜の早朝6時に登山に出かけると話したら、「じゃ、朝と昼の2食分のお結びを用意します」と請合ってくれた。
 7月14日木曜日夕刻、多治見駅の窓口で、多治見駅から関山駅までの往復切符を購入した。16日土曜の特急しなの7号の指定席は、その時既に満員だった。長野に行く人は、自分だけではなかった。

第3章 準備

 学生時代、大垣の友人に名古屋の「好日山荘」という登山用品店へ連れて行ってもらったことがある。田舎育ちの私が所謂「専門店」というものを知ったのは、その時が初めてだった。その遠い記憶が、しかし、消えずに残っていたので、今回登山用品を買い揃えるために、わざわざ栄三丁目の「好日山荘」まで出掛けた。7月15日金曜日。
 買った商品は、笛、小型ライト、ズボン、非常食、6本爪アイゼン、地図、熊対策用鈴、ビバーク用品。合計26,197円。
 代金を支払っていると、学生風の女性たち3人が、店内に賑やかに入って来た。ザック類の売り場で品定めを始めた。一人が背負うと、他の二人が「可愛い、可愛い」を連発する。最近では、こういう若い女性を山で見掛けることは極めて少ない。「へぇ、山へ行くのか。感心だ、立派じゃないか」、若い女性が山へ行くこと、それがなぜ立派なことなのか、自分でも分からないまま、そう思った。
 大きな紙袋を手にぶら下げて、栄駅から地下鉄に乗った。と、偶然だった。前任者のMさんと出会った。久し振りだったので、すぐには見分けがつかなかった。大人の女性としての雰囲気が漂っていた。私は、その時、休暇を取っていたのだが、彼女は、どうだったのだろう。時間的には、出会ったのは、勤務時間内だった。ドアが閉まりそうだったので、さよならも言わずに急いで下車した。
 出発の前夜に荷造りをした。いつも思うことだが、衣服類と雨具だけでザックの8割の空間が埋まってしまう。せめて6割にする工夫を今後はしたい。そうすれば、残りの空間に果物や嗜好品を詰められる。山で食べる果物は、家で食べる時の3倍はうまい。

第4章 出発そして到着
 
 7月16日(土)、往路は、多治見駅7時27分発のしなの1号に乗った。ほぼ満席だった。曇天。自由席は、後方の2両だけで、そのうちの1両は喫煙車両だった。中津川駅で数人下車したので、すかさず空いた席に座った。どんな場合でも、運というものは、軽視できない。
 10時、長野駅到着。ここで、10時32分発の信越本線直江津行きに乗換え。その間、改札口から少しだけ外に出ることにした。しばらくブラブラしていたら、所謂既視感がかすかに生じた。窓枠に座っている少女、広い構内、駅の構造、階段、コインロッカー、トイレ。1往復したところで、ようやく私のボケた頭にも飲み込めた。この駅は、昨年、私が白神山地から帰る時、ホームレスのように床の上に寝た場所だった。また来たのだ。
 直江津行きに乗っていると、隣におじさんが座ってきた。「混んでいますね」から始まって、そのおじさんは、喋り詰めだった。主な内容は、カブトムシの話、パチンコの攻略法にまつわる話だった。おじさんは、長靴を履いていた。きょう、これから牟礼駅周辺の低い山に入り,カブトムシを捕りに行くと言った。鳥居川を指差しながら、ここでもうすぐ鮎釣り出来るようになるよと言った。私は、人の話をきくのは好きなほうだが、このおじさんには少々参った。顔をちょっと近づけ過ぎるからだ。語彙はかなり豊富だったが、間の取り方が下手な人だった。
 私がこれから妙高山に登ると答えたら、「一人で登るのか。すごいね。そりゃ、立派だ」と二度程誉めてくれた。自分のようなもののどこが立派なのだろう。山に登るだけでどうして立派な者になるのか。よく分からなかった。が、ふと、自分が前日、好日山荘で、女の子たちを立派だと思ったことを思い出した。おじさんも、僕と同じように、よく分からないまま、何となく「立派だ」と感じてそう言ったのだろう。
 世間話の67%は、よく理解できない。私は、そう思う。

 関山駅に到着したのは、11時半。駅前の頸南バスの時刻表を見ると、次の燕温泉行バスの発車時刻は、13時57分だった。駅の観光案内所の係員に尋ねると、燕温泉まで約10km。私は、歩くことにした。
 歩き始めて数分経つと、雨が降ってきた。好日山荘で買ったばかりのズボンは、雨を弾く材質だった。観光案内所の係員の指示通り歩いて行くと、神社にぶつかった。関山神社という名だった。十数名の男たちが明日からの祭りの準備をしていた。と、ちょうど正午になった。男たちは、社殿の板敷きの上に車座になって、ビールを飲み始めた。
 境内の外れまで歩いて来たら、一台の軽ワゴンが停まっていた。中に小学生低学年の男の子と中学生くらいの女の子が乗っていた。女の子は、私と目が合うと何も言わずに会釈した。この「無言の会釈」という日本の美風は、神社の境内を横切る私の心に染み渡った。
 燕温泉まで歩くつもりだったが、明朝の登攀のことを考えて、途中の国民休暇村「妙高」までで止めることにした。休暇村にはテニスコートが2面あった。誰も使用していなかった。晴れていたら見えるはずの妙高は、ガスがかかっていて見えなかった。
 14時11分、休暇村のバス停から頸南バスに乗った。14時15分、燕温泉に到着した。バス代250円。バスから降りて、ふと見上げると、スキー場のリフトがあった。こんな所までリフトが来ているのか。驚いた。重いザックを宿に預けると、すぐ「黄金の湯」という無料の露天風呂に入りに行った。白濁の湯だった。近くには、落差80mの惣滝があった。たった7軒しかない温泉宿。土産物屋は2軒のみ。ストリップ劇場もなければ、薬屋もなかった。土産物屋で土産物の温度計を見ると、午後5時現在で21℃だった。
 宿の「ホテル岩田屋」に戻り、チェックインした。案内された部屋の名は、「萩」だった。することもないので、すぐまた宿の内風呂に行った。宿にも露天風呂があった。しばらくすると、男が一人入ってきた。男は、妙高よりもその外輪山のほうが面白い、と言った。湯から出た後、部屋の欄干にもたれつつビールを1本飲んだ。
 ビールを飲み干した後、浴衣姿のままアイゼンと登山靴とを持って、外のベンチの所まで行き、そこでアイゼンの装着を試みた。
 夕食時に食堂の壁に飾られていた写真を見た。歌手の五木ひろしがこの旅館を訪れた時の写真だった。撮影日は、去年の3月25日と書いてあった。この写真がもし、五木ひろしのではなくて、他の誰か小説家、例えば、長塚節のだったら、私の感激もかなり強いものになったことだろう。いずれにしろ、人は、自分と有名人との間に何らかの接点ができることに無関心・無感動ではいられない。(そう言えば、去年白神岳で、「長谷川恒男氏登頂記念」と書かれた粗末な白塗りの杭を見た時、ある小さな喜びの感情を覚えたものだ) 夕食後、部屋に戻る前に、女将と少々雑談をした。女将が心配を隠さずに言った。「ここは、コクドなんです。堤さんがあんな風になってしまいましたからね。この先、リフトがどうなるか、分かりません」
 会えなかったが、この宿のご主人は、全日本スキー連盟の元会長で、カルガリーオリンピックにも出場している人だった。

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