岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

火打山・・・その3

8月20日、雨飾山登山、奉納温泉、道の駅泊。
 7時半の朝食後、車で、雨飾山登山口まで行った。登山口の横に、雨飾山キャンプ場があった。フリーサイトは、車道に面していた。除草されていた。広くはなかった。テントを張りたい気分にはさせてくれなかった。登り始めたのは、午前8時20分頃だった。
 湿地帯に木材で道が作ってあった。右足に義足をつけた中年男が一人、私の前を歩いていた。私がすぐ後ろに接近しても、彼は、決して道を譲ろうとしなかった。私は、彼のペースが遅くないので、殊更追い抜こうとしなかった。それに、私は、フロントマンから、「最初はゆっくりのペースで歩け」というアドヴァイスを受けていた。
 ブナの根っこが登山道に網の目を作っていた。その網の目に足を一歩一歩入れながら、登った。急坂の多いかなりきつい山道だったが、2時間半で登頂した。糸魚川方面から登ってくる道との合流点近辺は平坦だった。鞍部に4畳半ほどの小さな黒い池があった。頂上には、午前11時頃着いた。雲間から日本海方面が少々見えた。
 苦労して登った頂上ではあったが、午後には落雷の心配があったので、40分程食べたり、休憩したりして過ごした後、下山した。自分の性格分析をすることは難しいが、私はかなり臆病な性格かもしれない。山が山で私に教えてくれること、これは私自身が真摯に汲み取るしかない。登山も自己省察も、一歩一歩ゆっくりと道を確かめながら進んで行くことが大事だ。何度登っても全容が分からない山、それが自分だから。
 下山後、再び、村営の露天風呂に入った。相変わらず、虻が飛び回っていた。落ち着いて湯に浸かっていられなかった。早めに出た。と、そこへスーツ姿の男が二人現れた。会話をしているうちに分かったことだが、彼らは、「栃の実亭」の幹部だった。紅葉の季節は、上高地よりも素晴らしいです、と言った。「皇室の紀子様は、この先の湯峠がお気に入りの場所だそうです」私は、湯峠に行ってみたくなった。
 その後、小谷村の奉納温泉へ行った。細い道は、奉納温泉で行き詰まりだった。建物は古臭かった。他に客はいなかった。宿泊費を尋ねたら、11500円。意外にも、小谷温泉の老舗山田旅館よりも高かった。清潔感あふれた旅館とは言えなかったので、泊まることは止めた。それに、そこで働いていた女性の顔が、猫よりも愛想のない顔で、泊まる気が湧いてこなかった。私も、職場で、あんな人間味のない顔をして働いているのだろうか。
 道の駅に車を停めて、その夜は、車の中で過ごすことにした。虻がいつの間にか車の中に数匹入り込んでいた。窓やドアを開けると、すぐ侵入してきた。小谷村は、虻の多い場所なのか。駐車場には私と同じように車中泊をする者の車が何台かあった。

 8月21日、湯峠、大渚山、姫川温泉、帰途。
 夜明けと共に出発の準備をし、道の駅から湯峠に向かった。途中、また村営の露天風呂、旅館「栃の実亭」の前を通過した。湯峠からの山の眺め、確かに良かった。一人で林道に立って、自分の目の高さに連なる遠くの山並みを眺めていると、寂しくなるような山並みだった。眺めていたら行きたくなるから寂しくなるのか。湯峠で、風の音を聞きながら、私は、何も思わなかった。

 今、目を閉じる。
 あの遠くに見えた山々の麓へ、
 あの遠くに見えた山々の向こうへ、
 寂しくなるほど行きたくなる。
 行きたくなるから寂しくなる。
 
 湯峠に秋は来ていた。ススキの群れが風に揺れていた。左膝に少々痛みがあった。が、頂上からの360度の展望を求めて、登りやすい大渚山に登ることにした。午前7時20分頃には、登頂した。一息で登れた。雨飾山が目の前に立ちはだかっていた。紅葉の季節には、素晴らしい風景が繰り広げられるだろう。
 私以外は誰もいない。と、頭を掠めるように鼠色の雲の一団が近づいてくる。恐怖感が私を襲って来た。私は、「栃の実亭」の冷蔵庫から持ってきた白ワインを一杯飲み、残りを大渚山の三角点と雨飾山に向かって注いでやった。下山時、蛇を2匹見た。いつ見ても蛇は好きになれない。
 姫川温泉へ抜ける林道は、冬場は通行できない。昔の「塩の道」もあった。姫川温泉では、大きな自然岩がある温泉に入った。2軒並んで温泉旅館があったが、午前10時前でも入れる方の温泉に入った。他に客はいなかった。
 多治見へは、糸魚川、富山、高山、下呂経由で帰った。糸魚川では、フォッサマグナの露頭を見学した。案内板を読んだ上で見たが、自分の目には普通の地層に見えた。どこが断層なのか。分かったのは、自分はやはり知的階層と知的階層との間に挟まっている馬鹿という名の断層だということだった。富山に入り、日本海側の道路を走っていると、「名物たら汁」という看板や旗が目に付いた。どんな物か。馬鹿でも食わねば。食いたい。ある水泳場を見下ろす道の駅で、名物の鱈汁を啜った。1杯600円程だった。
 夕方、多治見の自宅に着いた。テントなどの後片付けは、明日に回すことにした。
 自分の布団の中で、ゆっくりと眠りたかった。
 
 8月22日、骨休み。
 自宅で身体の疲労を癒した。電話が鳴った。伊吹山麓に住んでいる親父からだった。山東町の伯父の訃報だった。京都の伯父伯母、同じく京都の伯父伯母、兵庫の叔父、そして今回の伯父の死。会えば自分を愛称で呼んでくれた親戚の人間が、一人一人この世から去って行った。次は、自分だ。無になるのだ。私は、早速職場に電話して、特別休暇を申し出た。
 
 8月23日、骨休み。
 昼になったから、飯を食べる。その日は、それだけの人生だった。肩書きも名前も予定も、何もない人間として、何も感じず、何も考えない人間として、一日を過ごした。
 
 左膝の痛みが消失したのは、帰宅してから三日後だった。若い頃購入した「現代日本紀行文学全集」を紐解いた。買っただけでほとんど読んでいなかったものだ。「山岳編」の中から、深田久弥、木暮理太郎、加藤文太郎を拾い読みした。(余談。旅に出る前、何気なく入った古本屋で木暮理太郎全集を見つけた。1冊8000円の値段が付いていた。私は心酔者ではないが、買いたい衝動を抑えるのに苦労した。) 今度は、誰が何と言っても鳥海山と月山に行きたい。そして、自分もいつか山男に読んでもらえるような紀行を書けるようになりたい。そう思った。

 山の天辺では、
 空を見上げても、
 風と雲があるだけだ。
 そこから先は、
 もう誰も登れない。

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