山際 うりう
この世の闇は黒いとは限らなかった。鳥海山の御浜小屋から先は、もう登山道も見分けが付かなかった。どこからが空なのかも分からなかった。ただ濛々たる白い闇に覆われ、強風に身体の均衡を崩され、大小の岩石の狭間で歩を進める困難を感じた。私は登頂を断念した。下山せざるを得なかった。
周囲は白い闇で足元の道しか見えなかった。体を押し倒すように吹いてくる白い風。息さえしづらい。小説風に「恐怖感と寒さで背骨周辺が凍え、戦慄した」と言いたいほどだった。雨は降っていなかった。ただ白い魔物が四方八方から覆いかぶさってきた。昨日麓から見上げた鳥海山の優美な姿は、私の心の中で幻と化してしまった。たった一日の違いが山を天国と地獄とに分けた。
善光寺の地下回廊を、若い頃、左手で壁を触りながら回ったことがある。漆黒の闇を見た。一筋の光もない、濃密な、豊饒な、甘美な闇だった。漆黒の闇には、しかし、いずれ出口に通ずる壁という名の導きがあった。恐怖感は克服できる仕組みの枠内で私に張り付いただけだった。
鳥海山の白い闇は、私を克服困難な不安の中に陥れた。あれは、単なる自然現象だったのか、それとも不埒者の私に対する山の神の拒みだったのか。
2005年9月17日(土)、午前3時20分、車に乗り込み、多治見の自宅を出発した。目覚まし時計に起こされたわけではなく、自然と目が覚めた。何の苦も感じなかったので、そのまま、身支度をして出掛けることにした。いつものことながら、計画の細部までは計画しない。我が事ながら、なぜだか分からない。ずぼらな性格なのか。
一人玄関を出る時、胸に微かな不安がよぎった。数年前、フランス放浪の旅に出掛けた時もそうだった。母体離脱時の不安の類か。臆病者の癖に冒険への憧れは抑えられない。今いる世界からどこか知らない所へ抜け出したい、そんな思いがいつも私を突き動かす。怖いけれど、ここにはいたくない。いられない。不安を振り切って、エンジンをかけた。
目的地は、鳥海山か。月山か。それとも白山か。走り出しても、逡巡していた。17日は、快晴が約束されていた。18日の天気予報の中の「気圧の谷の接近」という一言が、行き先の決定を遅らせていた。雲一つない晴天の予報なら、迷うことなく鳥海山だった。もし展望がきかないような天気になるのなら、「きょう、天気のいいうちに、近くの白山か妙高山に登って、今度こそ360度の景色を眺めるほうがいいかも」と思った。幾度かあれこれ思案した。
中央道、長野道から上信越道に入り、午前7時53分、妙高パーキングエリアに 到着した。今年は、ここと縁がある。初め(妙高登山の時)は歩いて、二度目(火打登山の時)は車で、そして今回三度目の訪問だ。妙高登山の時には見ることができなかった山の全容を見ることができた。天辺にも雲一つかかっていない。高原の爽やかな風がススキの群れを揺らし、朝の光がススキの穂を乳色に輝かせていた。「きょうのうちに、妙高へ行って、確実に、美しい眺望を得たほうがいいかも」と、またしても心が揺らいだ。
わざわざ遠い山形まで行って、後悔することになるかもしれないが、三連休の機会はそう多くない。今回逃したら、今年はもう鳥海山へは登れない。私は、賭けることにした。妙高や白山なら、いつだって登れる。鳥海山は、今回逃したら、ひょっとしたら、もう二度と登れないかもしれない。美しい妙高山の山裾は、私の心の中にまで延びてきた。登ればきっとかつて味わったことのない感動の連続だろう。別れ難い思いを断ち切り、私は北を目指した。
午前11時、北陸・日本海東北道の終点、中条(新潟県胎内市)出口で、高速代金9,650円を支払い、すぐ左折した。あとは、日本海沿いに国道7号を吹浦(山形県飽海郡遊佐町大字吹浦)まで北上するだけだ。
10時間以上運転を続けていた。かなり飽き飽きした気分だった。道路の両側に黄金色に輝く田園を見ることは、楽しい気分にさせてくれてはいたが、頭の中は疲労物質で一杯だった。と、突然、道路の左側に日本海とその水平線が私の視野の中に飛び込んできた。山形県温海町。道路沿いの、飛び去る小さな看板には、そう表示してあった。とうとう海に出た。吹浦はもう少しだ。
岸辺からウミウが海を見ている。
寂しいのは、
海を見ている私だ。
海の向こうには
自分が知らないような幸福があるのか。
岸辺からウミウが海を見ている。
海は私を見ていない。
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