岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

青ざめて、赤岳へ (その2)

 8月6日日曜、午前10時10分、青ざめたまま、登頂。
 十四、五センチ角の、ガラスのない窓から風雲を見ながら用を足した。しゃがみながら人には言えない喜びを一人でじっと噛み締める。間に合って良かった。よく頑張りとおした。
 今、泣いていた烏はどこへ行ったか。私は、すぐ元気を取り戻し、山小屋に入り、「チーズ付きワイン」を注文した。若い男がステンレス製の盆に載せて運んできてくれた。値段400円。ワイングラスに赤い液体。注ぎ方を知らないのか、サーヴィスなのか、大盛りだった。山頂の割には、値段がなぜか安かった。チーズもワインもうまかった。苦の後の楽は、楽の後の楽とは違い、飛び切りだった。  
 小屋の中を見回すと、「個室あります」と書いてあった。尋ねると、小さい方の個室料金は、「一泊二食付きで7,800円」という標準料金に8,500円の追加料金が必要とのことだった。8月7日月曜の天気予報さえ良かったら、山頂で泊まりたい気分だった。俗界から離れ、大自然と一体化して心が清新になるか、退屈して酒ばかり飲むことになるか、一人でたっぷりの時間を過ごすという贅沢な冒険を試みてみたかった。原村のような人間臭の満ちた所ででも星空に圧倒されて恐怖感を覚えた私だ。こんな尖った山の先端に立ったまま、言わば夜空に囲まれて夜空の奥底を見上げたら、一体どうなるだろう。底なし感、煌めき、闇、不安、神秘感、暗い想像、そういったものに対して眩暈を起こして卒倒してしまうだろうか。
 頂上小屋でチーズを食べながら赤ワインを飲んでいたら、カップルが入ってきた。青年は美男子だ。東京から来たという。「何度目ですか」と男の方に聞くと、「6回目です」と言った。女性の方は「私は初めてです」と言った。あれこれと話をしたが、東京にも二千メートルの山があるという話が新鮮だった。若い二人が会話をした。
「来週は、どの山に登る?」
 男は、考えながら、「まだ考えていない」と言った。
 山が好きな女友達がいれば、私だって毎週登るだろう。
 眺望には恵まれなかった。1時間早く到着していれば、北の方面はよく見えたらしい。運不運がある。仕方がない。が、考え方が大事だ。雷雨や暴風に襲われなかったことを感謝して下山することにした。
 行者小屋に戻って来た時は、ほっとした。冷たい水槽の中に浮かんでいたオレンジを一個買って食べた。200円。自分の体が柑橘類を喜んで受け入れているのが実感できた。次に、「行者ラーメン」を注文した。しばらくして、厨房からラーメンを持って現れた髭を生やした若い男に、「酢はありますか」と尋ねたら、男は、目を一際大きく丸くして、「酢、ですか」と聞き返してきた。そうだ。我輩は、ラーメンにたっぷりの酢をかけて食べるのだ。800円。実にうまかった。
 行者小屋からの帰りは、北沢ルートを選んだ。初めて歩く。テニス仲間の魔人が若い頃、アルバイトをしていた山小屋が途中にある。
どんな小屋でアルバイトをしていたのか、見たいという気持ちもあった。
 赤岳鉱泉という名の山小屋だった。冷泉を沸かしたもので、誰でも千円で利用できる。私は、入らなかった。客は多かった。小屋の前で後ろを振り返ると、八ヶ岳連峰が屏風のように立ちはだかっていた。
午後2時を過ぎても登山者が続々と上がってきた。私は、川の流れを楽しみながら、今度ここに来る時は、釣竿を持ってこようと思った。
 帰りは、なぜか快調だった。川を横切り、風を切り、快速歩行だった。やはり旧中仙道で訓練した甲斐があった。足も痛くならない。私は長い長い林道を多分普通の人の三倍の速度で歩いただろう。(ひょっとしたら、行者ラーメンの効果が出ていたのかもしれない。)。
 午後三時半頃か駐車場に無事に戻った。そのまま帰宅するには疲れていたので、大泉村で一泊することにした。
大泉駅前の観光案内所へ行った。「ロッジ・ポレポレ」を紹介された。「ポレポレ」に行くと、主人から「今、掃除していますから、駅のすぐ下にある温泉へ行っててください」と入浴券を渡された。
「ポレポレ」には小さなレストランがあった。温泉から戻るとすぐビールを飲みたくなった。主人にその旨を言うと、主人は、「どうぞ」と店先のテーブルに案内してくれた。主人と並んで座りながら生ビールを飲んだ。主人もビールや焼酎を飲みながら、色々な話をしてくれた。長崎グラバー邸のすぐ近くの生まれで、東京でサラリーマンをしていた。14年前、登山とテニスとスキーが楽しめる空気のきれいな所という点が気に入って、ここに引っ越してきた。若い頃は、駅伝、ロッククライミングなどをしていた。そんな話を面白く、また羨ましく、聞いた。
 2006年8月7日月曜日。午前中は、雑木林の中をうろうろさすらって過ごした。蚊はほとんどいない。日向は暑いが、木陰は涼しかった。昼、お気に入りの家庭料理店「霧亭」に行ったが、休みだった。仕方なく、山の中の蕎麦屋へ行った。蕎麦の実がうまかった。
 雑木林の中での野鳥の観察も、日ごろの忙しなさを忘れさせてくれるのでいい。ディレクターチェアに座って、双眼鏡を構えて、野鳥が目前の木の枝に飛んで来るのを待つか、自ら林の中を歩いて鳥の居場所を探すか、どちらがいいか。私ならば、前者を選ぶ。野鳥はすばしこい。音を立てながら林の中を歩いても、鳥を追い立てることになるだけだ。ゆっくり座って、ワインでも飲みながら、松林の中で待つほうがいい。
 八ヶ岳連峰は、空に長々と立てられた屏風だ。夕方、一人山麓の田んぼの中に立って見た。シルエットだけの八ヶ岳連峰を左から右へ、右から左へ、何度も首を横に振りながら峰の数を数えた。あそこまでよく登ったものだ。頂上では得られなかった満足感を得たのは帰る途中に振り返った時だった。
 うっとりと山容を眺めていると、暑熱地獄の多治見や名古屋には
帰りたくなくなった。八ヶ岳山麓から離れたくはなかった。自分は、退職したら、どういう所に住みたいか、段々と分かってきた。鳥ではないので、自由に住みたい森へ飛んで行くことは出来ないが、何とか、テント生活でもいいから、自然の懐に抱かれて暮らしていきたい。旅の終わりの感想は、いつもの夏と同じようなものだった。
 自宅に帰り、冷蔵庫を開けると、二日前に糠に漬け込んだ胡瓜は、そのままの状態だった。誰も世話をしてくれていなかった。シャワーを浴び、ビールを飲み、糠漬けを掻き回した後、二階へ上がった。階段の途中で、むっとした空気の層の中に入った。また、日常が始まる。咄嗟に、皮膚感覚がそう反応した。
 仕事に戻った。なぜか疲れも痛みも出てこない。エスカレーターを見る度に、私は、苦しかった赤岳の岩場を思い出す。そして、迷わずに、階段を自分の足で上ることを選ぶ。まだまだ登らねばならない山、渡らねばならない川は、多い。

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