偉人のお墓は、すきですか?⊥卍⊥

歴史上の偉人のお墓めぐり記録です。史跡もあります。

大隈重信(護国寺)

2005-12-26 19:11:40 | お墓
  
大隈重信の墓
大隈重信というと、早稲田大学を思い出す方も多いでしょうね。

天保9年(1838年)佐賀藩士として生まれ、弘道館にて教授をつとめる。
その後、慶応3年(1867年)には、徳川慶喜に大政奉還をすすめるため副島種臣とともに脱藩して京都に行くものの、藩吏につかまって佐賀へ送り返され、1ヶ月の謹慎を命じられ、維新を迎える。

明治政府では、大蔵卿などを勤めるものの、明治14(1881年)年、薩長藩閥勢力と衝突して下野する(明治14年の政変)。
明治15(1882年)年、立憲改進党を創設し、また同年10月には東京専門学校(後の早稲田大学)を創設する。
明治22(1889年)年、玄洋社員来島恒喜に爆弾を投げられて負傷し、右脚を切断。
明治31(1898)年、板垣退助の自由党と合流し憲政党を結成、第一次大隈内閣をつくる。(日本初の政党内閣、隈板内閣)  
その後大正3(1914年)年には再び総理になり第二次大隈内閣を組織する。

大正11(1922年)年、死去。日比谷にて国民葬が行われる。


こちらの墓ではよく応援団の方が、リーグ戦等の前に必勝を祈願してお参り(校歌斉唱)をされています。
余談ですが、受験生の方、今年は厳冬ですが、体調を壊さぬよう気を付けて頑張ってくださいね。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)の右側にあります。かなり大きい墓地です。





山県有朋(護国寺)

2005-12-23 17:29:59 | お墓

山県有朋の墓
明治の元老山県有朋のお墓です。

長州藩士として尊皇攘夷を信奉し、松下村塾へ入ることによりますます信念を強くする。
文久3年(1863年)12月奇兵隊に参加、奇兵隊軍監に抜擢される。 翌元治元年(1864年)英米仏蘭四国連合艦隊と交戦(下関砲撃事件)、負傷して武器と兵制の改革の必要を痛感、攘夷論から開国論に転じた。

明治維新後は、陸軍卿、西南戦争における征討軍参謀、参謀本部長など陸軍の枢要な役職を歴任し、また、明治11年(1878年)には参謀本部、監軍本部を設置して統帥権の独立を進め、さらに同年「軍人訓誡」、同15年(1882年)「軍人勅諭」を発布し、天皇制軍隊の実現を進めた。

明治31(1898)年元帥となり、内閣総理大臣、枢密院議長を歴任。  明治24年以後は元老であり、とくに伊藤博文暗殺後は最長老として軍政両界に権勢を振ったが、大正10年(1921年)宮中某重大事件(皇太子妃色盲事件)で山県の主張する婚約解消論が敗れると小田原の古稀庵に閉じこもり、翌大正11年(1922年)死去。

現代まで続く官僚制度を創り絶大な権力を振るった人ですが、政党を嫌っており伊藤博文と対照的な態度で臨んでいたようです。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)裏手、墓地の中央より少し奥の独立した墓地です。 

三条実美(護国寺)

2005-12-23 00:04:54 | お墓
三条実美の墓
三条家墓地            三条実美公墓地


        実美公の碑

幕末から明治にかけて活躍した公卿の1人、三条実美公の墓です。
父は正一位右大臣三条実万、母は土佐藩主山内豊策の娘紀子の子として生まれ、家臣の尊攘志士富田織部や、漢学者志士池内大学に学ぶ。
尊攘派公卿として長州と連携し、文久3年(1863年)には大和行幸計画を立案するも計画は頓挫、長州へ下向する。(七卿落ち)
その後王政復古により新政府の首脳として復帰し太政大臣に任じられる。
明治24年死に際し正一位に叙される。同年2月18日卒

父が安政の大獄により落飾して以来尊皇攘夷の志を持ち、朝廷内をまとめた維新の立役者の一人といっても過言ではないでしょう。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)の右後ろにあります。

護国寺

2005-12-18 21:45:20 | お墓
護国寺
これからしばらくは護国寺にある偉人のお墓について記載していきたいと思います。

護国寺は、天和元年二月(1681年)五代将軍徳川綱吉が、その生母桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当亮賢僧正を招き開山し、幕府所属の高田薬園の地を賜い堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称したことに始まるとのことです。

まず初めにあるのが仁王門です。ここには正面に金剛力士像、背画両脇間に二天像(右に増長天、左に広目天)が安置されています。
 仁王門


その後境内を進むと不老門にさしかかります。こちらは昭和13年4月に建立されたものです。
 不老門


そして観音堂(本堂)に至ります。 この観音堂は、元禄十年(1697年)観音堂新営の幕命があり、同年八月落慶供養の式典が挙げられた。 元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都下隋一のものと賞されています。
 観音堂

この他、鐘楼・月光堂など貴重な堂宇が多くあるので、お墓とあわせればたっぷり半日以上楽しめると思います。

 ●護国寺 東京都文京区大塚5-40-1

林氏墓地

2005-12-17 16:51:54 | お墓

林氏墓地
江戸時代の儒学者林氏の墓地である。
もともとは、上野忍ヶ岡にあったものだが、元禄11年(1698年)三代鳳岡のときに牛込(現在の地)に地をもらい移転したものである。
歴代12代の当主とその家族の墓があるが、儒葬形式のものは8代から11代までのもののみとなっている。

大久保通りから少し中へ入った閑静な場所にありますが、通常では塀の切れ目からしか中がのぞけないので、毎年11月に行われる一般公開時に行くのがベストだと思います。新宿区のHPの月間予定を見れば詳細が分かるはずです。

 ●林氏墓地 新宿区市谷山伏町1-14の先 市谷小学校の北あたり
  市谷柳町交差点(地下鉄牛込柳町駅上)から大久保通りを神楽坂方面に150m位進むと左側に常敬寺というお寺があるので、その手前の路地を左へ曲がります。その後1つめの十字路を右に曲がると案内が出てます。 

試衛館跡

2005-12-15 20:52:11 | 史跡

試衛館跡
試衛館とは、天然理心流近藤道場のことであり、興味のない方でも新撰組の近藤勇(四代)の道場といえば分かりやすいでしょう。

天然理心流は、近藤内蔵助長裕(初代)が寛政年間に開いた流派であり、当初は薬研堀(現在の東京都中央区)に道場を構えたらしい。 その後近藤周助(三代)のころに市谷甲良屋敷(現在の跡地)に移った。

多摩地域へ出稽古に赴いたことから門人の多くは多摩出身の者が多く、そのことから多摩の田舎剣法といわれることもあったが、天真正伝香取神道流の流れを汲む実戦的な剣法であり、京都での活躍を見れば他流に引けをとることがないことは明白であろう。
門人としては、土方歳三・沖田総司・井上源三郎などが有名である。

現在跡地は駐車場(下の写真)になってしまっていて、趣を感じるのは町並みくらいなのが残念です。
 
●試衛館跡 新宿区市谷柳町25 市谷柳町交差点(地下鉄牛込柳町駅上)を神楽坂方面に進むと柳町病院があるので、その角を右折すると案内が出ています。 


練兵館跡

2005-12-13 16:18:43 | 史跡

練兵館跡
神道無念流 斉藤弥九郎の道場練兵館の跡地です。
神道無念流は、天明の頃下野出身の福井兵右衛門によって開かれた剣術の流派で、その後戸ヶ崎熊太郎、岡田十松などによって広められることとなる。
斉藤弥九郎は、江川太郎左衛門の後援を得て麹町九段下爼橋(この碑の地)に練兵館を開き、江戸の三大道場(他は北辰一刀流千葉周作の玄武館、鏡心明智流桃井春蔵の士学館)のひとつとして隆盛する。
門人としては、長州の桂小五郎、高杉晋作、新撰組の芹沢鴨、長倉新八などを輩出した。

斉藤弥九郎は剣術の師範であるにもかかわらず、隠居後は自宅に新たな門人を集め洋式調練を行うなど枠にとらわれない広い視野の持ち主であったといえるでしょう。
 ●練兵館跡 靖国神社境内内にあり、靖国通り側の南門のそばにあります。

和学講談所跡

2005-12-10 17:57:23 | 史跡

和学講談所跡
「群書類従」などで知られる塙保己一が国学の編纂をした場所である。
塙保己一は五歳にして失明し、芸事の道に進むが(別名塙検校)、国学に対するたぐいまれな才能が見込まれ、古代から江戸期までの古書の研究を進め群書類従を編纂する。 
寛政5年(1793)に国学研究の場として和学講談所の設立を幕府に申し出て、江戸麹町に設立した。

この碑は、交差点のそばにあり人通りも多くなかなかシャッターチャンスが訪れませんでした・・  道行く人から変な目で見られたり、思い出深い場所です。

 ●和学講談所跡 千代田区三番町24 三番町交差点の角にあります。


 

根津神社

2005-12-08 21:28:35 | 史跡
   
 根津神社 唐門から臨む社殿         根津神社 楼門  
根津神社
根津神社は今から1900くらい前に、日本武尊(ヤマトタケル)が千駄木に創祀し、徳川五代将軍綱吉により現在場所に社殿が奉献されたという、古社だそうです。
つつじで有名な神社でもあります。

 乙女稲荷へ続く鳥居

 森鴎外奉納の石

参拝に訪れた際に案外見落としやすいのが、この森鴎外が奉納した台座です。
楼門を正面に見て左側にあり、現在は水飲み場として利用されています。
裏側に、「陸軍医監 森林太郎(森鴎外の本名)」の銘があり、日露戦争戦利砲弾を飾るための台座であったものを再利用したものらしいです。

 ●根津神社 文京区根津1-28-9

お七[八百屋お七]の墓(円乗寺)

2005-12-06 19:32:37 | お墓


円乗寺
地下鉄白山駅の南側の細い坂道(車はよく通ります)の途中にあるお寺です。
お七の墓の案内も出ているので、分かりやすいと思います。

 ●円乗寺 文京区白山1-34-6

お七の墓
お七の生家はかなりの八百屋であったが、天和2年(1682)の大火により家は焼失。 建て替えまでの間菩提寺であった円乗寺に避難する事になる。
その際に寺の小姓の佐兵衛(又は吉三郎)と恋仲になるが、家へ戻ることになる。
佐兵衛に会いたい一心のお七は、とうとう付け火をしてしまう。 放火の大罪で捕らえられたお七は、火あぶりの刑に処せられた。 享年16歳(文京区案内より抜粋)

井原西鶴の好色五人女などで書かれて異説も多いようですが、あらましはこのような感じです。 女性は思いつめて腹を据えると男性みたいにうじうじせず、大胆な行動に出るのかと思うと管理人もタジタジです。

ちなみに写真中央の墓石はお寺の住職が供養のために建立したもの、右側が寛政年間に岩井半四郎(歌舞伎役者)がお七を演じ好評だったため建立したもの、左側は近所の有志が270回忌の際に建立したものだそうです。

 ●墓の位置 本堂手前、参道の左側です