下田歌子の墓
実践女子大学を創立した、下田歌子先生のお墓です。
下田歌子は安政元 (1854) 年8月9日、旧松平藩士であった父・平尾鍒蔵と母・房子の長女として現在の岐阜県恵那市岩村町に生まれ、鉐 (せき) と命名される。
幼いときから和歌や俳句、漢詩、日本画に秀でており、明治5年には宮中に出仕し、皇后 (のちの昭憲皇太后) はその歌才を愛でられ、鉐は「歌子」の名を賜る。
その後歌子は宮中を辞し、下田猛夫と結婚して下田歌子となり、また明治18年には当時新設された華族女学校の教授に迎えられ、その傍ら2人の内親王の教育掛かりの命を受け、そのために先進諸国の女子教育の状況を視察するため、欧州留学を命じられる。
帰国後の明治31年、「新時代に生きる女性の教養とそれに裏付けられた実践力を身につけ、生活と社会の改善をはかる」ことを目的に帝国婦人協会を組織し、その一環として、明治32 (1899) 年に実践女学校と女子工芸学校が創設され、現在の実践女子学園の基となる。
昭和11年(1936年) 10月8日逝去。
明治時代に女子の教育を広めるのは、大変な苦労があったと思いますが、その精神は現在まで続いており、先見の明がある方だと思います。
●墓の位置 残念ながら確かな記憶がありません。確か本堂の真裏の一角だと思うんです が…