偉人のお墓は、すきですか?⊥卍⊥

歴史上の偉人のお墓めぐり記録です。史跡もあります。

武藤信義(護国寺)

2006-01-21 16:11:20 | お墓

武藤信義の墓
明治から昭和にかけて陸軍の重鎮であった武藤信義のお墓です。

佐賀藩士武藤信直の次男として明治元年に生れる。
陸軍士官学校を卒業して日清戦争に従軍、陸軍大学を主席で卒業して日露戦争に出征。また、シベリア出兵にも第三師団長として参戦。

 経歴としては、参謀本部次長から、1926(大正15)年には陸軍大将・関東軍司令官、1927(昭和 2)年に教育総監、1932(昭和 7)年には再び、関東軍司令官兼駐満全権大使兼関東州長官として要職を歴任している。
1933(昭和 8)年満州で卒。

経歴から考えると、実務家肌の生粋の軍人として、陸軍の中心的な人物であったかと思います。

 ●墓の位置 本堂(観音堂)裏の山田顕義の墓の裏(北)の区画にあります。鳥居が目印です

富井政章(護国寺)

2006-01-19 17:25:26 | お墓

富井政章の墓
明治の法学者、富井政章(とみい・まさあきら)のお墓です。

京都聖護院宮侍だった富井政恒星の長男として、1858年9月10日現在の京都府京都市に生まれた。
そして、1874年東京外国語学校仏語科に入学し、また1877年には、フランス・リヨン法科大学院へ留学。法学博士等三つの法学位を取得して卒業している。

帰国後は、東京法学社(現在の法政大学)の講師に就任し、1885年には、東京帝国大学法学部教授に就任。

1893年に設置された法典調査会で、穂積陳重、梅謙次郎 らと共に、民法起草委員に選出され、日本の民法典の生みの親となる
また、日露戦争前には主戦論を唱え、七博士の1人として七博士建白事件に関与している。
1935年9月14日卒。

実は彼(というより穂積陳重、梅謙次郎の3人)、民法・商法施行100周年記念として郵便記念切手になっています。  みなさんも封筒を見返すと彼らに出会えるかもしれません。

 ●墓の位置 今回もあやふやです。おそらく本堂真裏の近い区画にあったと思いますが…

下田歌子(護国寺)

2006-01-14 21:02:34 | お墓

下田歌子の墓
実践女子大学を創立した、下田歌子先生のお墓です。

下田歌子は安政元 (1854) 年8月9日、旧松平藩士であった父・平尾鍒蔵と母・房子の長女として現在の岐阜県恵那市岩村町に生まれ、鉐 (せき) と命名される。
幼いときから和歌や俳句、漢詩、日本画に秀でており、明治5年には宮中に出仕し、皇后 (のちの昭憲皇太后) はその歌才を愛でられ、鉐は「歌子」の名を賜る。

その後歌子は宮中を辞し、下田猛夫と結婚して下田歌子となり、また明治18年には当時新設された華族女学校の教授に迎えられ、その傍ら2人の内親王の教育掛かりの命を受け、そのために先進諸国の女子教育の状況を視察するため、欧州留学を命じられる。

帰国後の明治31年、「新時代に生きる女性の教養とそれに裏付けられた実践力を身につけ、生活と社会の改善をはかる」ことを目的に帝国婦人協会を組織し、その一環として、明治32 (1899) 年に実践女学校と女子工芸学校が創設され、現在の実践女子学園の基となる。
昭和11年(1936年) 10月8日逝去。

明治時代に女子の教育を広めるのは、大変な苦労があったと思いますが、その精神は現在まで続いており、先見の明がある方だと思います。

 ●墓の位置 残念ながら確かな記憶がありません。確か本堂の真裏の一角だと思うんです が…



田中光顕(護国寺)

2006-01-09 19:24:24 | お墓

田中光顕の墓
幕末から明治にかけて活躍した政治家です。

天保14年(1843年)閏9月25日生まれの土佐藩の郷士。明治時代の政治家。名は光顕のほか、顕助。号は青山。別名として浜田辰弥などがある。

1843年、土佐藩の家老・深尾家の家臣の長男として生まれた。武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。しかし1863年、勤王党が八月十八日の政変を契機として弾圧されると、自宅謹慎処分を命じられてしまった。1864年、同志を集めて脱藩し、大坂や大和国に潜伏する。やがて長州藩の高杉晋作と会って長州を頼り、自分と同じく脱藩していた中岡慎太郎の配下として働き、薩長同盟の成立に貢献した。
1867年、陸援隊が組織されると、その幹部となった。同年、中岡が坂本龍馬と共に暗殺されると、陸援隊の指揮官となって戊辰戦争を戦って活躍した。

明治維新後は功労者の一人として昇進する。明治12年10月14日に陸軍省会計局長となる。また、陸軍少将、初代内閣書記官長(現在の内閣官房長官)、警視総監、元老院議員、宮内大臣などを歴任したが、収賄疑惑で周囲から非難を浴びて辞職を余儀なくされ、政界からも引退した。
1939年、97歳で没した。 (『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

派手な活躍はありませんが、薩長同盟の下地を作るなど歴史に影響を与えた偉人であります。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)の右側(東側)にあります。

山田顕義(護国寺)

2006-01-04 19:07:52 | お墓

      墓地全景                 お墓
山田顕義の墓
明治の元勲山田顕義のお墓です。

1844(弘化元)年 藩士山田七兵衛の長男として産まれる。 通称、市之丞。
松下村塾に入塾し、以後攘夷運動に奔走することになる。
1864(元治元)年禁門の変に加わり、翌年には四境戦争(第二次長州征伐)にて整武隊総督として参戦。
1868(明治元)年 鳥羽伏見の戦いに整武隊を率いて活躍する。

新政府発足後は、1871(明治4)年の岩倉使節団の一員として渡欧し、また1877(明治10)年 西南戦争では政府軍別軍を率いて鎮定にあたる。
以降は第一次伊藤内閣、黒田内閣、山県内閣の司法大臣に就任し、民法・商法・民事訴訟法の制定準備に尽力することとなる。
1889(明治22)年 日本法律学校(現日本大学)を創設。
1892(明治25)年 生野銀山視察中に急死する。

前半生は軍人として、後半生は近代法整備に尽力しました。 実務肌の人で逸話などは少なく、また生野銀山での死も疑問が残るところではありますが、今現在まで続く仕事を成し遂げたいぶし銀ではないでしょうか。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)の真裏(北側)にあります。


コンドル(護国寺)

2006-01-02 20:17:09 | お墓
あけましておめでとうございます
本年も出来る限り頻繁に更新していきますので、気軽にのぞいて行って下さいね。
コメントもよろしくお願いします。
  
       墓上部                  墓下部
コンドルの墓
新年一発目は、明治の建築家、コンドルのお墓です。
正式名 Conder,Joseph Josiah(コンダー・ジョセフ・ジョサイア)
1852年ロンドンに生まれる。
その後建築を学び、1876年には一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞、その腕を見込まれ日本政府とお雇い契約を結ぶ。
1877年(明治10年)来日、工部大学校造家学教師および工部省営繕局顧問となる。
1893年(明治26年)には前波くめと結婚。
1920年(大正9年)逝去

コンドルの主な作品
鹿鳴館(1883年、現存しない)
ニコライ堂(1891年)
三菱一号館(1894年、現存しない)
岩崎久弥邸(1896年頃、湯島、旧岩崎家庭園)
岩崎弥之助邸(1908年、高輪、三菱開東閣)
三井倶楽部(1913年)
島津邸(1915年、清泉女子大学)
古河邸(1915年、旧古河庭園)

コンドルの弟子
工部大学校造家学科の第一期卒業生の4人
辰野金吾
曾禰達蔵
片山東熊
佐立七次郎 など

コンドルは、まさに日本の近代建築の父とも言うべき人であり、また河鍋暁齋の弟子として、狩野派の日本画を学ぶなど研究熱心な偉人であります。
100年近くたっても現存している建築物も多く、いま問題となっている耐震偽装問題をコンドルが知ればどのようにお思いになるのでしょうか・・・

 ●墓の位置 観音堂(本堂)裏手、突き当りの山の西側の麓あたりにあります。