偉人のお墓は、すきですか?⊥卍⊥

歴史上の偉人のお墓めぐり記録です。史跡もあります。

山県有朋(護国寺)

2005-12-23 17:29:59 | お墓

山県有朋の墓
明治の元老山県有朋のお墓です。

長州藩士として尊皇攘夷を信奉し、松下村塾へ入ることによりますます信念を強くする。
文久3年(1863年)12月奇兵隊に参加、奇兵隊軍監に抜擢される。 翌元治元年(1864年)英米仏蘭四国連合艦隊と交戦(下関砲撃事件)、負傷して武器と兵制の改革の必要を痛感、攘夷論から開国論に転じた。

明治維新後は、陸軍卿、西南戦争における征討軍参謀、参謀本部長など陸軍の枢要な役職を歴任し、また、明治11年(1878年)には参謀本部、監軍本部を設置して統帥権の独立を進め、さらに同年「軍人訓誡」、同15年(1882年)「軍人勅諭」を発布し、天皇制軍隊の実現を進めた。

明治31(1898)年元帥となり、内閣総理大臣、枢密院議長を歴任。  明治24年以後は元老であり、とくに伊藤博文暗殺後は最長老として軍政両界に権勢を振ったが、大正10年(1921年)宮中某重大事件(皇太子妃色盲事件)で山県の主張する婚約解消論が敗れると小田原の古稀庵に閉じこもり、翌大正11年(1922年)死去。

現代まで続く官僚制度を創り絶大な権力を振るった人ですが、政党を嫌っており伊藤博文と対照的な態度で臨んでいたようです。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)裏手、墓地の中央より少し奥の独立した墓地です。 

三条実美(護国寺)

2005-12-23 00:04:54 | お墓
三条実美の墓
三条家墓地            三条実美公墓地


        実美公の碑

幕末から明治にかけて活躍した公卿の1人、三条実美公の墓です。
父は正一位右大臣三条実万、母は土佐藩主山内豊策の娘紀子の子として生まれ、家臣の尊攘志士富田織部や、漢学者志士池内大学に学ぶ。
尊攘派公卿として長州と連携し、文久3年(1863年)には大和行幸計画を立案するも計画は頓挫、長州へ下向する。(七卿落ち)
その後王政復古により新政府の首脳として復帰し太政大臣に任じられる。
明治24年死に際し正一位に叙される。同年2月18日卒

父が安政の大獄により落飾して以来尊皇攘夷の志を持ち、朝廷内をまとめた維新の立役者の一人といっても過言ではないでしょう。

 ●墓の位置 観音堂(本堂)の右後ろにあります。