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野 話

美嚢川 その他

美嚢川流域界の一部の調査_歴史_播磨国2

2012-04-03 23:21:25 | 歴史

三木城

三木合戦における土塁・付城群は織田方(秀吉軍)によるものだけなのか?

そんな疑問を持ち続けています。

Akashimiti

たとえば、明石道峯構付城。地形や虎口や櫓の位置から見ると、南・南西方向に対するものと感じます。

Haichizu4

話では、別所方援軍の毛利勢に対する備えと言われているようです。

しかし、、、

織田方(秀吉軍)・織田信忠を指揮官として築き上げられた土塁包囲網との関係をみると対峙する形に見えます。三木城開城(別所氏降伏)時には織田方にあったのは間違いないと思いますが。。。

ただ、明石道沿いに北上する者に対しての構えであることには変わりはないでしょう。

三木合戦では「兵糧攻めによる大量の飢え死」があったのか?、「命乞いは許されず大量虐殺」があった、などまだまだわからないことが多いようです。ただ、その後三木では秀吉に対する評判は悪くはない。領民と武士との違いも多いのか。

*「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書 三木市文化研究資料第23集」はまだ見ていない。


美嚢川流域界の一部の調査_歴史_播磨国1

2012-04-03 21:27:21 | 歴史

播州、播磨国などの呼称がある。

流域界においては播磨国・摂津国のそれぞれ一部が該当。

播磨国って?

Harimanokuni

概ねこんな範囲(適当に作成)。

中世日本(戦国時代など)の東播州は別所氏などが統括していたようだ。

流域内で話題となるのが「三木城」。西暦1578年~1580年の「三木合戦」は三木では有名。

三木城は文献によれば、西暦1177年に築城後、廃城・再築城を経て、1616年に廃城。

「三木合戦」(秀吉の兵糧攻)の詳細は、色々と説があるようだ。

しかしながら、播磨国の別所氏が本拠とした三木は中世の中核都市だったのかもしれない。

有名な「姫路城」や「明石城」はまだこの時代には無い。ここには地の利があったのだろうか。

*「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書 三木市文化研究資料第23集」はまだ見ていない。