三木城
三木合戦における土塁・付城群は織田方(秀吉軍)によるものだけなのか?
そんな疑問を持ち続けています。
たとえば、明石道峯構付城。地形や虎口や櫓の位置から見ると、南・南西方向に対するものと感じます。
話では、別所方援軍の毛利勢に対する備えと言われているようです。
しかし、、、
織田方(秀吉軍)・織田信忠を指揮官として築き上げられた土塁包囲網との関係をみると対峙する形に見えます。三木城開城(別所氏降伏)時には織田方にあったのは間違いないと思いますが。。。
ただ、明石道沿いに北上する者に対しての構えであることには変わりはないでしょう。
三木合戦では「兵糧攻めによる大量の飢え死」があったのか?、「命乞いは許されず大量虐殺」があった、などまだまだわからないことが多いようです。ただ、その後三木では秀吉に対する評判は悪くはない。領民と武士との違いも多いのか。
*「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書 三木市文化研究資料第23集」はまだ見ていない。