三木合戦前の別所氏は東播磨八郡を治める将で有ったようだ。
現在の三木城跡を見ると、貧相で「三木合戦」においてあたかも悲惨な餓えがあったようにも感じる。
しかし、当時三木城は播磨三大城の一つと言われていた。
また、東播磨を束ねる将の城であり、政治の中心地であったことを考えると
中世の城としては大きかったのだろう。
事実、現商工会議所~現三木市役所・文化会館あたりまで城郭が確認されている。
三木城開城後、しばらくこの地が東播磨の中心であった。
しかし、時代の流れからか姫山(姫路)、明石にその役割は移っていったようである。
江戸時代に入り元和元年(1615)、一国一城令により廃城が決まり
元和2~5年にかけて取り壊され、その廃材は明石城築城の資材とされたそうだ。
播磨国
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