今日はヘイトスピーチについて私の考えを述べたいと思います。
人(個人、または民族、宗教などの一定の集団)に対して、人種、文化、宗教などを理由に差別的発言をしたり、憎悪をあらわにしたり、個人の人権を侵害するようなことをしたりするのは、よくないことだと私も思います。
しかし、「人」に対してではなく、「物事」(文化、伝統、慣習)に対してならどうでしょうか。それぞれの国や地域の文化(伝統、慣習)がありますが、中には性差別にあたるような伝統文化、人権侵害(個人の自由の束縛など)にあたるような伝統文化もあるので、それに対して嫌悪感を示すことは、むしろ差別をなくすことにつながり、社会にとってプラスとして働くと思います。
性差別や人権侵害と思われる慣習とその広がりに抵抗する手段として、政治的に慣習化された構造的差別(たとえば日本の米軍基地の75%が沖縄に集中していること)に抵抗する手段として、悪法(たとえば裁判員制度)への抵抗の手段としてのヘイトスピーチは、むしろあったほうがよいと私は思います。
欧米諸国の多くで存在するレディーファーストの習慣、私はあまり好きではありません。たとえばドアを通るとき男性はドアを押さえておいて女性を先を通すというのは、女性はドアに触らなくていいので不公平だと思います。旅行本で「レディーファーストが『徹底』されている」とか「『何ごとにも』レディーファースト」という表現も見ましたが、「徹底」、「何ごとにも」と強調されることは私は嫌いです。日本にもレディーファストにあこがれる人もいますが、もともとその習慣のない日本で導入すると男女平等に逆行し、レディーファーストと称した女性から男性へのハラスメントも助長しかねないと思うので、取り入れるべきではないと思います。レディーファーストの精神は中世ヨーロッパの騎士に興ると言われているので、言ってみれば中世の騎士たちに対して(朝鮮語で言うところの)「恨(ハン)」を感じます。
また、日本で名前を呼ぶときに男子を「くん」づけ、女子を「さん」づけで区別することも私は嫌いです。年上には男女とも「さん」づけで、目下には男子には「くん」づけして女子にはそのまま「さん」づけするのは不公平だと思うからです。日本のこの習慣を批判する外国人がいたら、私は感謝したいです。
批判し、批判されるという関係は、あってよいと思います。それが、悪い伝統をなくしてみんなが幸せに暮らせるよりよい社会を作っていくための原動力になるんじゃないかと思います。確かに、人に向かって嫌悪感をあらわにする発言や行動をするのはよくないですが、物事に対してなら一種の嫌悪感の表明もある程度あっていいと思います。
コメント一覧
すぐる
ジャコウネズミ
ジャンケンマン ジャックポット
最新の画像もっと見る
最近の「政治」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事