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愛妻・貞子のもとに旅立った丹波哲郎 古沢襄

2010-11-29 12:51:13 | 日記
愛妻・貞子のもとに旅立った丹波哲郎 古沢襄
2006.09.26 Tuesday name : kajikablog
九月十五日に思いつくままに俳優・丹波哲郎の亡妻貞子さんの想い出を書いた。「北一輝や北吉のDNA」と「丹波貞子さんが亡くなって九年」の二本である。その一週間後に入院していた丹波哲郎は貞子さんのところに旅立った。偶然なのだろうか?何か不思議な予感といったものを感じる。

半身不随の貞子さんを丹波哲郎は大切にしていた。地方ロケがない時は家にいることが多かった。貞子さんも明るく振る舞っていて、オシドリ夫婦のような仲睦まじさ。夜になると陽気な丹波哲郎に寂しい思いをさせないために、貞子さんは麻雀のメンバーを揃える毎日であった。

売れっ子の丹波哲郎だったが、夜の食事は意外と質素なものであった。麻雀の合間にとる夕食ということもあったが、炊きたてのご飯に味噌汁、干物を焼いたおかづといった程度。スクリーンやテレビでみる丹波哲郎は、豪快だが人を人とも思わないユニークなキャラクターで人気がある。だが素顔の丹波哲郎は細やかな気配りの人であった。妾腹に生まれた丹波哲郎だったから寂しい思いをした時代があったのだろう。家族や身内を大切にして、その仲間を連れて海水浴によく出かけた。まだ売れない時代だったから、電車賃だけでも大変な出費となる。湘南に行くときは貞子さんと私の女房が一駅前で下車して、最低料金の切符を買ってくる。キセル旅行の海水浴。

霊界ものを手がけた丹波哲郎だが「本当に霊界を信じているの?」と貞子さんに聞いたことがある。「信じている筈がないじゃーないの。趣味よ。趣味、趣味!」と貞子さんは笑い飛ばした。丹波哲郎にはゴースト・ライターがいない。自分でエッセイを書いた。「たいした文章家」と私が誉めたことがある。「いやー」といって照れた丹波哲郎。貞子さんが亡くなった直後に「私の女房殿は魔法使い」と題した鎮魂のエッセイを私家版で親しい人たちに送っている。

貞子さんのところに旅立った素顔の丹波哲郎に対する供養のために九年後になったが公開したい。

◆  わが妻・貞子が逝った。突然に・・・・・。
私の心にはポッカリと大きな穴が空いてしまった。小さな頃から、広い家には住み慣れているが、こんなに家が広いと感じたことはなかった。ほんとうに空虚なのである。

霊界研究を続けてきた私だから、たとえ妻の死であろうと、そんなにショックは受けないだろう。大方の人は、そうお思いになるかもしれない。実際、霊界研究の立場から言えば、「死ぬ」なんてことは、ただ「ここ」から、地続きの「あそこ」へちょっと移動するだけのこと。そう言い続けてきたし、実際そうだと信じている。

しかし、これは霊界研究者の誰もが感ずる矛盾であるが、理論理屈ではよくわかっていても、現実の空しさには耐え難い。辛い。ひたすら悲しい。感情というものは、理性ではコントロールのきかない、実に厄介なシロモノである。頭で考えることとは遊離して勝手に一人歩きし、私の心はすぐに、妻を失った悲しみでいっぱいになってしまうのである。

◆妻の最期の笑顔
妻が不調を訴えて、検査のため入院したのは三月十四日(古沢註 1997年)のことだった。数年前から糖尿病を患っていたのだが、検査の結果、腎臓もかなり悪いことがわかった。一時はよくなり、一週間で退院したのだが、また悪化。自宅で点滴をしていたが、やはり入院したほうがよかろうということになった。

三月三十日、病院で治療中、合併症などで容体が急変。意識不明に陥り、ついには心臓が停止した。延命措置のために、歯を砕き、管をのどに差し込んだ。三日目、出血やたんを除くために、今度はのどを切開、口はきけなくなってしまったが、小康状態が続いた。だが、これも長くは続かなかった。四月十三日、妻は帰らぬ人となってしまう。

小康状態になったとき、妻の手をさすりながら、私は耳元で、今まで働いた悪事の数々を白状し、懺悔した。罪状が多すぎたからというわけでないが、すべてを告白するのに何日もかかった。もっとも、妻は何もかもお見通しだったろう。

口はきけなくても、妻の思いが私にはわかった。和やかな顔をしていたから・・・。妻は、喜んでくれていたのだ。そう思う。いや、そう思いたい。

あとで聞いたところによると、周りが随分と気をきかせてくれ、私が告白を始めると、二人きりにしてくれていたらしい。私は夢中だったので、申し訳ないことに、まったく気がつかなかった。死ぬ少し前に、名前を呼んだら、妻は目を開けてくれた。

「笑ってくれる?」そうリクエストすると、なんと妻は、ほんとうにニッコリ笑ってくれたのである。この妻の最期の笑顔を、なんと表現したらよいのだろう。どんな言葉よりも饒舌な、私への別れの挨拶。私への最大の賛辞、愛情の発露でもあった。うれしかった。生涯忘れることはできないだろう。私の心に、強烈な感銘を与えてくれた笑顔だった。

◆「女房殿」のすごさ
わが「女房殿」については、常々一目おいてはいたのだが、これほどまでに「すごいヤツ」だったとは思いもよらなかった。死んでしまってから、再確認させられたのである。ともかく、信じられないぐらい大勢の人から慕われていたことが判明した。お悔やみに来てくださる方々が、口々に妻のことを話してくれるのだが、そのひと言ひと言に、妻への心からの感謝が込められていた。最初は、お世辞半分かと思っていたが、皆、目に涙をため、あまりにも真剣な表情なので、逆にドキマギしたほどである。

それよりも何より、まず「女房殿」のすごさを思い知ったのは、入院したときのことだった。闘病生活が始まるや、妻の親衛隊というか取り巻き連中というのか、二十人近くの人たちが懸命に看護してくれた。親戚、縁者のみならず、遠くから仕事を投げ打って来てくれた人も多かった。ずっと詰めて徹夜になると、からだがもたなくなるからと、自分たちで自発的にスケジュール表を作り、やりくりしてくれていた。

あまりの人数の多さに、病院側が応接間を開放してくれたほどである。それでも収容しきれず、食堂で寝たり、駐車場に停めてある車の中で寝たりした人もいた。親衛隊の大政格、第一号の浅沼好三は、車に暖房をかけられないから、まるで蓑虫のように、着るものをありったけかけて寝たそうだ。皆、義理で働いているのではない。妻のため、妻が喜んでくれるなら、ただそれだけの純粋な気持ちからだった。

◆ダンスホールの出逢い
私だけに見せた最期の笑顔のすばらしさは言うに及ばず、わが女房殿の笑顔のきれいな人だった。そもそもの出会いから語れば、話はやたらと長くなるが、まぁ、この際、お許しをいただきたい。

戦争中、私は学徒兵で、立川の航空隊に所属していた。今の私からは想像もできないだろうが、何を隠そう、このとき、私はひどい吃音だった。そのため、最前線に出ることはできなかった。ところが、終戦を迎えたときには、どういうわけか、その吃音がウソのように消えてしまったのだから不思議である。

これは、天の配慮以外の何ものでもない、と考える。つまり、霊界の宣伝マンとしての使命を全うするためには、途中で私が戦死しては困る。最前線に出ると死ぬ確率も高い。だが、吃音では、部下に命令が下せないため、最前線に出すわけにいかない。吃音は、私の生命を長らえさせるための手段だったに違いない。今はそう思っている。

終戦を迎え、復員した私は、外務省からの要請でGHQの通訳になった。大学で英語研究会(ΕSS)に属していたのだが、如何せん、まったくしゃべれない、聞きとれない。お粗末そのもの。ただ、耳がよく、発音だけはすばらしかった。皆、これにだまされた。英語の実力のなさがバレないよう、GHQ内で「逃亡生活」をしながら、ごまかしつつ、二年も勤め上げた。我ながら要領のよさだけは大したものである。

街ではすいとんをすすっている時代に、私は将校食堂で、毎日、アイスクリームで終わるようなフルコースを食べていた。そんな贅沢な生活にもそろそろ飽きた頃、自分で勝手に「渉外課長」なんぞという名刺を作り、兄貴のやっていた薬品会社に勝手に入り込んだ。

あるとき、普段はケチなはずの兄貴が、なぜか服地をくれた。今の方はご存知ないかもしれないが、「スフ」という、いわゆる化繊地である。仕立てるのに、高い金を出して仕立て屋に頼むのはバカバカしい、と会社の人が女性のテイラーを紹介してくれた。その日のうちに会いに行き、できあがったらダンスに一緒に行くという条件で、安く仕立てを頼むことができた。このテイラー、五十歳ぐらいに見えたが独身だった。

約束通り、銀座のダンスホールに行くと、そこにもう一人女性が来ていた。若い女性である。かのテイラーが、自分の弟子を連れてきたのだが、これが誰あろう、わが妻となる貞子であった。私も若いから、そりゃあ、五十歳すぎの先生と踊るより、若い人と踊るほうがいいに決まっている。何度も彼女と踊った。

そうしたら、今度は彼女のほうから会社に電話がきた。当時はダンスは大流行だったので、友達を誘い合ってパーテイに行ったりした。これが、いわゆる「慣れ初め」というやつだ。彼女との「この世」の縁の始まりである。縁とは実に不思議なものだ。

◆昼は証券会社、夜は洋裁店
ちょうど時を同じうして、私には、母親同士が結婚させようと目論む許嫁の女性がいた。素晴らしい女性ではあったのだが、なぜだか、結婚相手とは違うな、と感じていた。にもかかわらず、この人があまりにもいい人だったため、私にはハッキリと断わりにくかった。いつ、どのように切り出せば、円満に別れられるか、考えているような状態だった。彼女とは、ある程度の「肉体的接触」、といってもキスにも至らぬほどの純情なものだったが、接触はあった。ところが、このときすでに、貞子とはもう事実上の夫婦になっていた。

ある日、困ったことが起こる。貞子と有楽町を歩いているときだった。向こうから、例の許嫁の彼女が友達とやって来た。なんでも海水浴に行くところだと言う。まさに正面衝突である。彼女は何かを感じたのだろう。突如、海水浴をとりやめ、私は二人の女性にはさまれた形で、自宅に帰ることになった。

当時、私が住んでいたのが荻窪。許嫁の彼女はわが家の100メートル先、貞子は西荻窪だった。三人とも家が近かったのである。三人でバスに乗ると、まず私が降り、次ぎに許嫁、そして最期が貞子という順番だった。これには、さすがの私もホトホト困り果てた。両手に花なんてもんじゃない。両手にムチ。ほとんど拷問のような気分だった。これをきっかけに、許嫁の彼女とは別れることになった。だが、こんな中でも、私はまだ貞子と結婚する意志はなかった。

世の中はまだまだ混乱を極めている状態。先が見えないのである。ただ生きているような日々だった。だから、貞子は手に職を持ちたい、技術を修得したい、と洋裁を始めたのだろう。昼間は証券会社で働き、夜は友達と小さな洋裁店を開いていた。そんなことが可能な時代でもあったのだ。

私はと言えば、兄貴の会社を追い出されることになるのだが、その日のうちに求人広告を見て、東海自動車という進駐軍の修理会社に就職した。これも英語力を買われてのことだったが、実力が三ヶ月でバレて、あえなく失業。

今度は貞子の親戚筋のコネで、油糖砂糖配給公団に入った。ここも二年勤めた。どんな勤務状態かというと、二年いて、鉛筆の芯を削る必要は一度もなかったし、机の上に置いてある原稿用紙の一番最初のページはチョコレート色に変色しているのだが、二枚目からは真っ白。そんな状態だったから、公団解散の折りには、職員900人のうち、ただ一人失業した。

そんな婆娑羅な生活を送りながら、この頃貞子とはもう同棲を始めていた。できたばかりの荻窪のマーケットに、貞子は友達と店を構えた。ここに、貞子は住んでいたのである。私の家はマーケットを突っ切って行ったところだったが、つい途中で寄ってしまう。最初にうちは家まで帰っていたが、いつの間にか、居つくようになってしまった。

◆お茶とお菓子で披露
そのうち、身内同士が話し合い、正式に結婚してはどうか、ということになる。「じゃあ」ってことで、兄貴の会社の応接間で、お茶とお菓子で、お互いの家族が承認し合う、ささやかな披露をした。式を挙げたわけではない。だから、ついこの間、貞子が死ぬ間際に、枕元で「お前が治ったら、結婚式を挙げようね」と言ったのである。

さて、この披露のとき、貞子にはほんとうに悪いことをした。貞子としては、披露のあと、皆で銀ブラでもして食事でもして帰ろうという小さな夢を持っていたらしい。ところが私は、貞子の夢など気づきもせず、応接間を出ると、そのまんま稽古場に行ってしまったのである。アマチュア劇団を主催していたので、夜は毎日稽古だった。

その日、帰ってみると、貞子はカンカン。こんなんじゃやってられない、ということで、仲人さんのところに行って、言い分を聞いてもらうことになった。途中、貞子に首根っこをつかまれたりしたものだから、ふり向きざまに貞子の手を激しく払い落とした。運悪く、この一部始終を見ていた人がいて、男が女に暴力をふるっている、と交番に通報されてしまったのである。

険悪な雰囲気で歩く二人のところに、お巡りさんが駆けつけて来た。いくら夫婦だと言っても信じないので、とうとうマーケットの中の家まで連れて行き、やっと納得してもらった。これが、わが夫婦の記念すべき新婚初夜のできごとだったのである。

よく私の下積み時代を貞子が洋裁をし、食うや食わずで支えてくれた、などと書かれるが、これは大きな誤解である。映画はいきなり主役デビューで、下積み時代はなかったし、あまり金に困ったことはなかった。だから、貞子がミシンを踏んで儲けたお金は、遊びのための金になった。

食うものがないのなら、貞子の家に行けばいいし、私の家に行けばいい。それより、マーケットの中で唯一のインテリだった私は、交渉ごとのときなど、とても頼りにされていたため、プリンス的な存在だった。だから、マーケットを一巡すれば、食べ物なんて余るほど手に入ったのである。よく、貞子とも話したのだが、あのマーケット時代はほんとうに楽しかった。

◆「俳優という職業は心配・・」
貞子を始め、双方の家族全員、俳優なんて趣味でやればいいという考え方だった。貞子は口に出して不賛成と言ったことはないが、快くは思っていなかっただろう。今思えば、女房殿は私のくだらない女性関係も含めて、何が起ころうとビクともしなかった。先程、「金に困ったことはない」などと豪語してしまったが、金の心配も、私がしらなかっただけで、蔭では苦労していたのかもしれない。

親衛隊の一人、斎藤司はこう語る。「俳優という職業は心配だ、と奥さまはおっしゃっていた。自分は亭主の女に苦労させられる、とも。奥さんは強い人だったから、絶対泣いたことなんかなかった。それが、入院する一週間ぐらい前だったが、泣いてらした。そのとき、僕は初めて奥さまの涙を見た。どうして泣いたか。『自分の亭主のお世話ができない』。そう言って泣いてらしたんです」

また親衛隊員の一人はこう語る。「奥さまは、丹波哲郎という商品を、いたずらに安く売ることはしなかった。いつも、高く高く売ろうとなさっていた。丹波哲郎には頭を下げさせたくはない。そうおっしゃっていた」

結婚して八年か九年経ったとき、突然、妻がポリオに冒される。息子の義隆がやっと三歳になったくらいのときだった。三日間、熱が下がらなかったのだが、おかしい、おかしいと言っているうちに、朝起きたら足が動かなくなっていた。ポリオと言えば小児マヒである。大人なのに、なぜ小児マヒなのか・・・・・。

熱が下がってみたら、いきなり立てなくなっていたのだ。これには、ほんとうに驚いた。ショックだった。足が蚊に刺されてもどうにもならない、と妻は言っていた。原因がわかれば、理解のしようもあるが、原因はわからずじまいなのである。

最初は手も動かなかったが、リハビリをし、つたい歩きながら、普通の人に劣ることなく生活をしていた。台所にも毎日立ったし、糸紡ぎから編み物まで、それはマメにからだを動かしていた。親衛隊員たちは、ご飯ができると、台所からテーブルまで運んだり、手伝ってはいたようだが、妻は自分でできることはすべて自分でやっていた。辛かったろうと思うが、一度たりとも暗い表情を見せたことはなかった。いつも明るく元気だった。

◆女王様と下僕
発病後、私と妻のポジションは逆転した。それまで私が王様だったのだが、その日から、妻が女王様となって、私が下僕となった。気持ちの上ではそういうつもりであったが、妻は最後の最後まで、私に尽くし切ってくれた。経堂の家から今の家に越して来てしばらくした頃、台所で足元に小さい犬がまとわりついて、妻は足の骨を折ってしまう。それから、妻は車椅子の生活になった。

今の家を造ってくれたのは、親衛隊第一号。だから、妻のことを第一義に考えてくれた造りになっている。妻の部屋に毎朝、犬たちが庭から挨拶に行けるように、ぐるりを大きなガラス窓にしたり、這っても膝に負担のかからない、厚手の絨毯を特注して敷いてもらった。気分転換できるようにと、替えの絨毯も作ってもらった。妻が快適に暮らせるように、というのは私の、また親衛隊員たちの何よりの願いであった。

貞子は、立派だった。我々にハンデキャップがあることなど、感じさせることはなかった。私のスケジュールはきっちり把握しているし、経理もすべて妻の仕事であった。私の趣味の囲碁や将棋のビデオを録ることも忘れたことはない。お付き合いの面でも完璧にこなしてくれていた。

妻の周りには、いつも男がゴロゴロしていた。麻雀をしに来たり、ご飯を食べに来たり。いつも笑顔があふれていた。親衛隊員、斎藤が言う。「誰だって、奥さまにお会いすれば、きっとフアンになりますよ。ホッとするんです。いつもそばにいたくなる。この人のためなら、と思わせるものがあるんです」

この男は、妻が桜の花が大好きだったのをよく心得ていて、危篤の妻を喜ばせようと、公園の桜の枝をぶった切り、通報されて始末書を書かされたそうである。「二、三本ならよかったんでしょうが、私は部屋中、桜でいっぱいにしたかったから・・・」こんな連中が何人もいるのである。貞子というのは大した人物だったのだ。

◆よく皆で旅行に行った
マーケットの時代から、よく皆で旅行に行った。それこそ、ミシン踏んで二千円、三千円という時代だったが、江ノ島のパン屋の裏に部屋を借りて、何日か過ごしたことがあった。このときは、その日のうちに予定人数の倍になり、日が経つにつれて人がどんどん増えてしまい、とうとう三十人ぐらいになった。床の間にも廊下にも寝た。

少し裕福になってくると、一軒家を借りたり、部屋にプールのある旅館に行ったりもした。なんで、あんなに人が来たのだろう。妻の人徳以外の何ものでもない。もちろん、からだが不自由になってからも旅行は続いた。

ある年、花火を見に行ったことがあった。家族ぐるみで来るので、小さな子どもも来ていた。妻は花火の見やすいほうへと、這って移動する。そのとき、ある子が「犬みたい」と言ったのである。子どもに悪気はないし、妻も聞き流していたようである。だが、私はハッと思った。心ない言葉でどれだけ妻は傷つくことだろう。以来、子ども連れはご遠慮いただいている。

十五、六年前からはハワイに行くようになった。貞子はハワイがお気に入りだった。買い物も楽しかったようである。私は買い物は勘弁だが、親衛隊グループがハリキッて連れ出してくれる。

洋服を買うときなど、妻は試着ができないため、むくつけき親衛隊員が試着して見せていたらしい。想像しただけでも愉快である。車椅子で行けないところは、男たちがおぶって行く。親衛隊員の浅沼は、おぶうときに失礼があってはと、いつもきれいに洗髪し、コロンをふりかけてからおぶうと言う。私も、おぶうのも車椅子を押すのも平気だが、妻は私が車椅子を押すことすら嫌がっていた。

「丹波哲郎」には、そんなことはしてもらいたくなかったのかもしれない。でも、たまにおぶったりすることがあると、うれしそうにしていた。妻はこうやって旅をして、皆が楽しそうにしているのを見るのが、何よりの喜びだったようである。

◆恋愛のピークと妻の死
妻の葬式は、無宗教で自宅で執行した。読経もなく、戒名もなく、好きだった「夕焼け小焼け」と「人生いろいろ」の歌で送った。ここから出してやれたことは、よかったと思う。彼女の希望通りだったから・・・。
 
妻は私を送ってから逝きたかったらしいが、それだけは叶わなかった。弔問に訪れてくださった1000名近くの皆さんには、ただただ、そのご厚意に謝するのみである。

私は今、貞子と結婚して、ほんとうによかったと思っている。考えてみれば、不思議な縁である。結婚するときが「恋愛」のピークだったわけではない。むしろ、淡々としたものだった。それが、結婚してから、こんないいところがあったのか、あんないいところがあったのか・・・。そうやって一つ一つ気づかせてくれた。新しい発見の連続だった。

その静かで穏やかな二人の「恋愛」のピークは、貞子が死ぬときに訪れた。結婚したときに端を発した、ゆるやかな恋愛上昇曲線の最高到達点は死ぬ間際。私に笑ってくれた瞬間だった。私ほど幸せ者はいないかもしれない。ありがとう、貞子。ありがとう。

おまえが最期に、すばらしいプレゼントをくれて死んだもんだから、私はなかなか立ち直れそうもないよ。私の霊界研究には一切関心を示したことがなかったおまえだが、今、どうしているのか。私は感じたり見えたりしないけれど、周りの人が次々と霊界通信を届けてくれている。三十歳ぐらいの髪の長い姿で現れたと聞いた。通信はことごとく明るい情報ばかりだから、安心しているよ。

今頃は、棺の中に入れたダンスシューズを履いて、踊っているのか。外出用と普段ばきの靴も入れておいたから、あちらで困ることもないだろう。思う存分、のびのびと歩いたり走ったり飛んだりと楽しんでくれ。私も近いうちに行くからね。それまで、しばしのサヨナラ、だ。

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