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質問運営スタッフに連絡する  質問者:ken3333111 原罪

2010-07-02 18:38:36 | 日記
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質問者:ken3333111 原罪
困り度:
すぐに回答が欲しいです 原罪
原罪はイエスの贖罪でなくなりましたか?
原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?
原罪がないのに最後の審判があるのはなぜですか?
質問投稿日時:2009/04/24 03:31質問番号:4904345
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回答者:puregrape 罪が少しも無い完璧な人は誰でも神様の息子です「ピリポ書2:14、ローマ書8:14、1ヨハネ3:1~2」。                                                                                 最初の人であるアダムも神様を模って作られたので神様の息子でした「ルカ福音3:38」。                                                                 しかし、悪魔の囁きに騙され神様の御言葉を削除、変改、付け加えた結果、死ぬようになりました。                                                                                善悪果を食べたのは神様の御言葉を削除、変改、付け加えた結果に過ぎません。                                                                                       善悪果を食べると「必ず死ぬ」と神様は言われましたが、アダムは愛深い神様がそうなさるはずが無い、「もしかすると死ぬかも知れない」との意味だろうと変改した結果、食べたのです。                                                                                        その結果、アダムは神様の似姿を失いました。                                                                         私達はこのようなアダムに模られて生まれたのです「創世記5:3」。                                                                 即ち、アダムは神様の似姿を失い、悪魔の支配下に置かれていたのであり、私達も悪魔の支配下にいるのです。                                                                     だから、イエスキリストがこの世に来られた時、悪魔が自分に拝むなら世の全てのものをイエスキリストに譲ると言ったのです「マタイ福音4:8~9」。                                                                                                    このように哀れな私たちのために神様は、女の種から生まれた人が、悪魔の権勢を無くす「頭を踏み砕く」と約束されたのです「創世記3:15」。                                                            これを証明するのがルカ福音3:23~38まで書かれてあるイエスキリストの血筋です。                                                             ただ、女は種が無いので花婿の名前を借りて女の血筋を書いているのです。                                                                    旧約時代は罪を犯すと、子羊を犯した罪の身代わりとして捧げて、罪を赦して貰いました。                                                                               旧約時代に捧げられた子羊は、体に傷があるかないかを詳しく調べた後、傷が無いのだけが身代わりの祭物として捧げられました「レビ記」。                                                                      子羊はイエスキリストの模型だったのです。                                                                   即ち、罪「傷」が一つも無い物では無いと祭物としての効果がないと言うことです。                                                                     だから、イエスキリストは聖霊によって宿られたのです。                                                                   もし、イエスキリストが人間であるヨセプによって宿られたならば、聖書の全ては嘘になります。                                                                             先も述べたように、全ての人は悪魔の悪霊「傷だらけ罪だらけ」に導かれている、からです。                                                                       イエスキリストは、傷一つない聖霊によって宿られたから我々の罪の身代わりになって、完璧な祭物として捧げられる事が出来たのです。                                                                  だから、浸礼者ヨハネはイエスキリストを見て、「世の罪を取り除く神様の子羊だ」と明かしたのです「ヨハネ福音1:29」。                                                                     そして、子羊になるイエスキリストは私達の罪の身代わりとして捧げられたのです。                                                                       これによって、アダムから長い間、悪魔の悪霊に捕りつかれていた私達は罪から逃れて全ての罪が無くなったのです。                                                                       イエスキリストが私達の全ての罪の身代わりになられ、私達を罪一つ無い完璧な状態に取り戻したからです。                                                                       即ち、創世記3:15の予言が成し遂げられたのです。                                                                        だから、イエスキリストは十字架で「全てを成し遂げた」と宣言されたのです「ヨハネ福音19:30」。                                                               {1}私達の全ての罪は無くなりました。                                                                  {2}イエスキリストが私達の全ての罪をなくしてくれたのを信じる人は罪が無いけれども、信じない人は相変わらず罪があるのです。                                                                          また、信じない人の霊は死んでいるのです。                                                                             霊が死んでいる人は真理の御言葉を分からず、悪魔によって地獄まで導かれます。                                                                                   聖書で死んだという意味は、主に霊が死んでいる人を指します。                                                                                     霊が死んでいるから聖霊の字である聖書の意味をわからないのです。                                                                               そして、聖霊の導きを受けられず、自分勝手な解釈をするだけです。アダムのように。。                                                                             {3}最後の審判の時に裁かれるのはこのような事実を信じなかった人々のみです。                                                                     これを信じる人は死にません。                                                                                  また、彼らの霊は蘇られ御言葉を分かるようになります。                                                                               肉体が亡くなっても復活されます。                                                                         だから、信じる人が亡くなっても死んだと言いません。                                                                          寝ていると言います「1テサロニケ4:14」。                                                                        代わりに、信じない人はいつも死んだ人だと言われます。                                                                            真理の御言葉を分かることが出来ないからです。                                                                     最後の審判の時、裁かれる人はみな死んだ人のみです「ヨハネ啓示録20:11~15」。                                                                       {後記}ここに書かれた内容は聖書の基本の基本です。                                                                       日本には救われた人が書いた書物は無いけれども、外国には多くあります「Dr.Peter S.Ruckmanサマ,M.R.De Haanサマなど」                                                                                    しかし、ここに書かれた内容は当然わかっているという前提で書かれています。                                                                       ここに書かれた内容を信じる人を救われた人、或いは生まれ変わった人だと言われます「ヨハネ福音3章」。                                                                               今年、聖書についての回答の中で救われた人は一りもいませんでした。                                                                     救われてない人は救われてない人の字を読むと「なるほど」となります。                                                                        彼らの父は同じだからです。                                                                         救われた人は救われた人をすぐ分かります。                                  

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