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和敬静寂

「和」のコツは自分という個性をそのままに、相手の個性もそのまま認めて、敬い、一緒に過ごすこと

恒例の墓参

2012年08月16日 22時11分19秒 | Weblog
8月16日は祖母の命日なので、毎年、東京まで墓参に出向きます。

今日も、早朝の新幹線に乗って日帰りで行って来ました。

去年と一昨年は猛暑でしたが、今年はそれほど暑くなくて助かりました。

お墓は沢山の木に囲まれた場所にあるので、今日は三種類のセミ(アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ)の大合唱でした。

いつもほど、蚊の大群もいなくて、助かりました。勿論、虫よけスプレーはつけましたが、群がって来るほどのこともなく、無事に墓参を終えて来ました。

東京駅まで戻って来て、駅前の新丸ビル6Fにあるタイ料理レストラン「サイアム・ヘリテイジ東京」というお店でビュッフェ式タイ料理を味わって来ました。暑い時に、ピリッとする辛さのお料理は美味しいですね。



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エコマーク

少しでも涼しく・・・

2012年08月15日 20時07分44秒 | Weblog
最近は「よしず」を目にする機会が少なくなってきました。

昔は、西陽を遮ぎって外からの目隠し効果もあることから多くの家庭で使われていました。今は「ブラインド」を取り入れている家庭が多いのではないでしょうか?陽射しを遮る役割は同じですが、「よしず」と「ブラインド」には大きな差があるのです。「ブラインド」は室内にあるため、陽射しを受けて熱を帯びると部屋の温度を余計に上げてしまうことにもなります。材料もアルミなど熱を伝えやすいものが一般的です。

一方の「よしず」は葦など天然の素材ですから熱を伝えにくく、部屋の外にあるため、室内への影響が少ないのです。また、陽射しを遮る面積が広く、壁の温度が上がるのも防いでくれます。窓から離れているのもポイントです。風通しが良く、部屋の中には心地よい風が入ってきます。「よしず」を上手に使えば冷房を使う機会が減りそうです。

畳の部屋でよしず越しの風で夕涼み・・・なんてちょっとした贅沢かもしれませんね。




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植林・植樹

お盆

2012年08月14日 22時22分46秒 | Weblog
お盆の季節です。

お盆こそ仏教での先祖供養の原点であるように思われます。

お釈迦様の十大弟子のうちの一人、目連様があるとき亡きお母さんを神通力(目に見えないところを見通せる力)で捜していました。いわゆる超能力で宇宙の果てからあの世まで見通せる力のことです。

お母さんは仏様として極楽往生されているとすっかり思い込んでいた目連様は、お母さんが成仏しておらず、餓鬼道に堕ちて逆さ吊りの罰を受けて苦しんでいることを知りました。驚きとショックを受けた目連様はお釈迦様に相談されました。

「目連よ、おまえのお母さんはおまえにとっては優しいすばらしいお母さんだったのだよ。しかし、ただお母さんが生前お前を育てることで他人に迷惑をかけたことがままあったのだ。その罪による罰を今受けているんだよ。こんど七月十五日に お坊さんたちの修行が終わるので、その日お坊さんたちに供養しなさい。そしてお母さんの供養をお願いしなさい。お母さんはきっと餓鬼道から救われるでしょう。」と、さとされました。

その結果目連様のお母さんは餓鬼道から救われたのです。

それ以来、普段からご先祖様を供養しなかった一般の人たちに、自分たちのご先祖様の中にも目連様のお母様のように成仏出来ずに苦しんでいる方がいるかも知れない、せめて年に一度の先祖供養の日を設けることにしてはどうかということになりました。

目連様のお母さんが逆さ吊りから救われたことで、「逆さ吊り供養祭」にしたらどうか。逆さ吊りをインドの言葉でウラバーナと言います。ウラバーナを漢字に当てて「盂蘭盆」になったのです。

お盆は正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)と言います。以来2500年以上もの間今日まで先祖供養として盂蘭盆会の行事は続いているのです。人として最も大切なことは亡き人への感謝と報恩です。自分がこの世に生まれたことはご先祖様からの因縁の流れがあったからなのです。

ご先祖様への感謝と報恩を思い、これからの自分の人生をより充実させていく気持ちをご先祖様に報告することがお盆の意味ではないでしょうか。また、とくに、今年新盆を迎える方にとっては、故人への追慕、追悼の気持ちは特に深いものがあると思います。

初めてのお盆を新盆(しんぼん)又は、にいぼんとかあらぼんなどといいます。旧で言うと、八月一日に灯篭や精霊棚を設け、早めに仏様をお迎えします。適当な日に法要を行い供養します。故人にとってはいわば初めての里帰りです。特にゆっくりして頂き、遅くお送りします。

この辺では、八月二十四日に送る場合が多いようです。二十四日はお地蔵様の縁日ですので、それに合わせてのことでしょうか。初めての道をお帰りになるわけですので道に迷わないように、修羅道や餓鬼道に迷い込まないように お地蔵様のお導きに寄ろうとしたものかも知れません。

お盆の供養を受けられた仏様が喜んでいるお姿と供養させていただいた人々が喜んでいる姿が踊りとなったのが盆踊りと言われています。 各地において様々な盆行事がとり行われますが、どれも心を和ませてくれるものですね。そしてお盆休みは先祖供養のためのお休みなのです。

最近では、お盆休みこそビッグレジャーだといって海外旅行や海や山に大勢出かけて行きますが、本来、お盆というのは「出かけるもの」ではなくて「帰るもの」だったのです。仏様がお帰りになるので、外に出ている子や孫、家族皆が家に帰って集まってご先祖様(仏様)に感謝するのがお盆だったのです。

私は仏教徒ではありませんが、お盆の由来、またお盆の心構えなどを知り、仏教でなくても、同じような気持ちでこの時期にはご先祖様のことを考えて、感謝の気持ちを捧げるようにしたく思いました。




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省エネ

お盆玉

2012年08月13日 23時06分04秒 | Weblog
びっくりしました。

スーパーに行って買い物をしていると、レジ横に「お盆玉」と書いてある広告を見つけて!

よく見てみると、お年玉を入れるポチ袋の夏バージョンでした。どうやら、田舎ではお盆に親戚が集まると、子供(学生)にポチ袋にはいったお小遣いをあげる慣習があるそうで、それを最近では、お年玉に対抗し(?)「お盆玉」と呼んでいるとのこと。

色々とお店側も考えるものですね。

数年前から始まったものだそうです。




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エコマーク

奄美大島への旅 その14

2012年08月12日 22時52分26秒 | Weblog
西郷隆盛が最初に島流しになった所が奄美大島です。しかし、あちらの島民としては「あれは島流しではなくて、薩摩藩の要請でかくまって上げていた所がこの島だ」というような感触を持たれていました。それ故、当時は名前も西郷隆盛ではなくて菊池源吾ということにさせられていたようです。

当時の隆盛は33歳。

島では愛加那(あいかな)という10歳年下の女性を妻に迎えて暮らしました。愛加那は愛子が本名で、加那というのは奄美の女性の尊称だそうです。二人の生活は3年間続き、一男一女を設けたものの、その二人目の子がお腹にいる時に隆盛は薩摩藩から本土に呼び戻されてしまいました。当時の制度の下では島妻は本土へは同行できなく、隆盛は愛加那に「黍(きび)の花のように生きよ」と言い残して別れたそうです。黍の花とはサトウキビの花です。頭を垂れずに空に向かって凛としている花だそうです。

昔の島の習慣では、女性は娘(大人)になると左手首辺りに入れ墨を入れるのだそうです・・・お洒落の意味で。そして結婚すると、右手首にも入れ墨を入れるそうなのです。ところが、本土では、腕に入れ墨というのは「島流しの罪人の印」とされていたようで、この入れ墨があるために例え許されたとしても本土へはどうしてもいけない理由がここにあったとのことでした。

長男は6歳の時、そして長女は14歳の時に、鹿児島の西郷家本家に引き取られ、愛加那はその後ずっと一人で過ごし(別の養子を迎えています)、65歳で農作業中に倒れて亡くなっています。

西郷家に引き取られた長男・長女は、隆盛の本妻(糸子)が自分の子と同様に育て、長男(西郷菊次郎)は米国への留学をし、後には台湾高官などを経て京都市長を7年間務め、長女(菊子)も大山巌元帥の弟に嫁ぎ、子孫を残しています。

隆盛は、一旦本土に戻った後、また二度目の島流しに遭い、徳之島に送られた時には愛加那が二人の子どもを連れて船で会いに行っていますが、この時は‘罪人扱い’だったので、更に離れた沖永良部島に行かされ、こちらでは投獄生活を強いられました。そして沖永良部島からまた本土に戻ることが許可された時に、鹿児島へ帰る途中、隆盛は奄美大島に立ち寄って愛加那と二人の子どもと4日間だけという僅かな時を一緒に過ごしています。それ以後は二度と愛加那と出会うことはなかったとのことです。

隆盛はその後、本土に戻ってから本妻・糸子と結婚しています。

とてもドラマチックな生活が展開していたのが、奄美諸島での何年かだったのです。

実際に行ってみて初めて理解できることが沢山あり、実りのある歴史探索の旅でした。

奄美大島の龍郷(たつごう)という場所が隆盛の住んでいた所で、こちらにある龍郷郵便局の外壁はこのような感じでした。



今回、奄美大島の人たちが喋っていた言葉が全く普通の日本語だったことに私は驚きました。

十数年前に次男が出向いた時には、地元の人の言葉が全く分からなかったという話を聞いていたので、意外に感じました。話を聞くと、今50代の方々が小学生の頃、国から方言を使うことを禁止させられた時代があったそうで、学校で方言を使うと先生にビンタされ、「私は方言を使いました」という札を首から下げさせられて廊下に立たされたそうです。それ故、その世代の方々は親御さんたちの使う方言は分かるけれど自分たちは喋ることが出来なくなっている、とのことでした。つまり今、70代以上の方々のみが昔ながらの奄美の言葉を使うことができて、次の世代は聞くことのみができ、更に次の世代・・・今の若者たちは、聞くことも喋ることも全くできない、ということのようです。

今20代の若い人との話は本土の若者との話と全く変わらず、訊いてみると、奄美の若者たちは自分たちの‘おじいちゃんやおばあちゃん’が使っている言葉を全く理解できないとのことでした。このように、言語という文化に一度空白が出来てしまうと、それを元には戻せませんから、何だかちょっと寂しい感じがしました。

島の生活には西郷隆盛も最初はかなりのカルチャーショックを受けたみたいです。

奄美大島の人たちというのは、薩摩藩による黒糖収奪策という想像以上の厳しさを耐え抜いて来た人たちで、それは北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどかったと指摘されているくらいです。隆盛も、島での生活に慣れて来るにつれて、苦しい立場の農民を思いやる気持ちが大きくなり、島民のために多くの功績を残しています。

この島で隆盛は妻を持ち、子どもを持ち、初めて人間らしい心を取り戻し、守るべきもの、背負うべきものを持ち、この時の一家団欒と奄美の島人たちとの心と心の触れ合いがあったからこそ、それが心の支えとなって、その後幾度となく降りかかる艱難辛苦(沖永良部島での1年半の投獄生活も含めて)をも耐え忍ぶことができたのではないだろうかと考えられます。奄美は隆盛にとっての「蘇生の地」だったのでしょう。自暴自棄になっていた隆盛の心に安らぎを与え、生活を楽しませ、どんな困難にも負けないような心を整えさせ、その後の中央での活躍の基盤が作られた場所ですから。

こうしてみると、明治維新の背景に奄美が果たした役割というのは、黒糖による薩摩藩の財政建て直しへの貢献だけでなく、隆盛の蘇生という大きな貢献があったのだと考えられます。そう考えると、奄美はもっと歴史的にも評価されていいのでしょうね。

愛加那さんのお墓参りもして来ることが出来ました。






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ゴミ分別


奄美大島への旅 その13

2012年08月11日 13時44分29秒 | Weblog
奄美大島での代表的な郷土料理の一つと言えば、「鶏飯(けいはん)」です。



大自然の中、放し飼いで育てられた「奄美地鶏」はしっかりとした歯ごたえと凝縮した旨味があります。

鶏飯というのは、かつて薩摩藩から訪れる代官にふるまったのが始まりだそうです。貴重な鶏肉と米を使った島最高の料理と言えるものだったようです。そのため「鶏飯」は別名「殿様料理」とも呼ばれるそうです。

時が流れ、今では祝い事で客に振舞う郷土料理として引き継がれているそうです。

固めに炊いたごはんを茶碗(どんぶり)に入れて、具を乗せ、アツアツの地鶏ガラベースのスープをたっぷりとかけて頂きます。南国情緒うあふれるダシ茶漬です。

実は、とても不思議だったのですが、私の実家では私が小さい時から母が「鶏茶漬」と言って、この料理を頻繁にしていました。

うちのレシピは次のようなものでした。

1.鶏ガラでスープを取る。4カップについて塩小さじ1強としょうゆ少々入れる。
2.具は、鶏の胸肉にお酒を振りかけて蒸し器で充分に蒸し、冷ましてから細かく手で割いたもの、ねぎの小口切り、錦糸卵、のり、紅ショウガ、しそ、塩昆布、たくあんを細かく刻んだもの、好みで山椒など、をそれぞれの器に用意する。
3.ご飯をどんぶりに入れて、具を少しずつ乗せ、お茶代わりに鶏スープをかけて食べる。

これがとても美味しくて、どなたに出しても好評で、我が家での伝統料理の一つでした。これの元祖が奄美大島だったということを知り、更にビックリさせられた旅でした。




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カーボンオフセット

奄美大島への旅 その12

2012年08月10日 08時50分11秒 | Weblog
沖永良部島から知り合いが奄美大島まで来て下さり、その方の学友も一緒に夜、島料理を食べに行きました。



世界でも有数の暖流「黒潮」に囲まれた奄美大島。南国特有の色とりどりな魚介類が豊富に水揚げされます。旅の楽しみは何と言ってもその土地ならではの食材を味わうことです。

干潮時に広がる海の大地、珊瑚礁。そこにはシマ伊勢海老など豊富な海の幸が育まれています。シマ伊勢海老は昔ながらの素潜り漁で捕獲されるそうです。これはモリや網での漁ではなくて、全てが手づかみだから新鮮そのものだとのことです。

お酒は勿論、黒糖焼酎。癖がなくて爽やかな味で、とても気に入りました。 

その時のお話で知ったのですが、今50代の方々が小学生の頃、国から方言を使うことを禁止させられた時代があったそうで、学校で方言を使うと先生にビンタされ、「私は方言を使いました」という札を首から下げさせられて廊下に立たされたそうです。それ故、その世代の方々は親御さんたちの使う方言は分かるけれど自分たちは喋ることが出来なくなっている、とのことでした。つまり今、70代以上の方々のみが昔ながらの奄美の言葉を使うことができて、次の世代は聞くことのみができ、更に次の世代・・・今の若者たちは、聞くことも喋ることも全くできない、ということのようです。今20代の若い人との話は本土の若者との話と全く変わらず、訊いてみると、奄美の若者たちは自分たちの‘おじいちゃんやおばあちゃん’が使っている言葉を全く理解できないとのことでした。

このように、言語という文化に一度空白が出来てしまうと、それを元には戻せませんから、何だかちょっと寂しい感じがしました。




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エコバッグ



奄美大島への旅 その11

2012年08月09日 09時00分15秒 | Weblog
昔の城壁が残っている邸宅があるというので行って来ました。



このような城壁・・・

その上には昔ながらの豪邸が建っていました。もう100歳近い老夫婦が身内の方々とお住まいだとのことです。門は開けっぱなしになっていて、中に入れました。おうちの方に行き、声をかけてみましたが中からは返答がありませんでしたので、庭をちょっと覗いて、写真だけ取って、帰って来ました。



静かな森の中の一軒家でした。こんな生活をしていらっしゃる方がおられるのですね。




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食物連鎖

奄美大島への旅 その10

2012年08月08日 09時14分56秒 | Weblog
「ゴールデンシャワー」がきれいに咲いていました。



これはマメ科の植物で、インド、スリランカ原生の10m位の木で、タイの国花だそうです。

花は鮮やかな黄色で、サイズは大小さまざま、長さ60cm位の房状になり藤のようです。乾季に一斉に開花しますが、開花時には木全体が黄色に見えるほど見事に咲きほこります。花の後、直径2~3cmの円筒状の実をつけます。実の長さは40~60cmもあり、熟すと黒い色になります。実の中のベトベトした果肉は便秘薬として使用されます。若草色の葉は5cmくらいの小葉からなり、小葉が偶数つきます。葉全体は40~60cmあります。

これが奄美大島ではあちらこちらで見ることが出来ました。黄色の花が鈴なりに咲くので凄く目立ってとてもきれいでした。

因みに和名は、「ナンバンサイカチ」というそうですが、通称は「ゴールデンシャワー」と言っているようです。




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エコマーク

奄美大島への旅 その9

2012年08月07日 09時12分21秒 | Weblog
薩摩藩主 島津斉彬が急逝した後、西郷隆盛は、勤王の僧・月照とともに、海に身を投じました。ところが、月照だけが死んでしまい、西郷隆盛は助けられた後にまた元気を取り戻しました。その後、西郷隆盛は、菊池源吾と名を改め、暫く本土から離れて身を潜めておいた方が良いという薩摩藩の命令の下、奄美大島にやって来ました。

その時、乗ってきた藩の黒糖運搬船「福徳丸」の、とも綱を結んだ松の木が西郷松と言われていて、奄美大島の龍郷(たつごう)というところにありました。

数年前にこの西郷松の上の方が枯れてしまい、切り倒されることになりました。枝は切り取られてしまっていましたが太い幹だけは残っていました。



龍郷に着いてからまた本土に呼び戻されるまでの3年間を西郷隆盛はここで過ごしたのです。



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省エネ