西郷隆盛が最初に島流しになった所が奄美大島です。しかし、あちらの島民としては「あれは島流しではなくて、薩摩藩の要請でかくまって上げていた所がこの島だ」というような感触を持たれていました。それ故、当時は名前も西郷隆盛ではなくて菊池源吾ということにさせられていたようです。
当時の隆盛は33歳。
島では愛加那(あいかな)という10歳年下の女性を妻に迎えて暮らしました。愛加那は愛子が本名で、加那というのは奄美の女性の尊称だそうです。二人の生活は3年間続き、一男一女を設けたものの、その二人目の子がお腹にいる時に隆盛は薩摩藩から本土に呼び戻されてしまいました。当時の制度の下では島妻は本土へは同行できなく、隆盛は愛加那に「黍(きび)の花のように生きよ」と言い残して別れたそうです。黍の花とはサトウキビの花です。頭を垂れずに空に向かって凛としている花だそうです。
昔の島の習慣では、女性は娘(大人)になると左手首辺りに入れ墨を入れるのだそうです・・・お洒落の意味で。そして結婚すると、右手首にも入れ墨を入れるそうなのです。ところが、本土では、腕に入れ墨というのは「島流しの罪人の印」とされていたようで、この入れ墨があるために例え許されたとしても本土へはどうしてもいけない理由がここにあったとのことでした。
長男は6歳の時、そして長女は14歳の時に、鹿児島の西郷家本家に引き取られ、愛加那はその後ずっと一人で過ごし(別の養子を迎えています)、65歳で農作業中に倒れて亡くなっています。
西郷家に引き取られた長男・長女は、隆盛の本妻(糸子)が自分の子と同様に育て、長男(西郷菊次郎)は米国への留学をし、後には台湾高官などを経て京都市長を7年間務め、長女(菊子)も大山巌元帥の弟に嫁ぎ、子孫を残しています。
隆盛は、一旦本土に戻った後、また二度目の島流しに遭い、徳之島に送られた時には愛加那が二人の子どもを連れて船で会いに行っていますが、この時は‘罪人扱い’だったので、更に離れた沖永良部島に行かされ、こちらでは投獄生活を強いられました。そして沖永良部島からまた本土に戻ることが許可された時に、鹿児島へ帰る途中、隆盛は奄美大島に立ち寄って愛加那と二人の子どもと4日間だけという僅かな時を一緒に過ごしています。それ以後は二度と愛加那と出会うことはなかったとのことです。
隆盛はその後、本土に戻ってから本妻・糸子と結婚しています。
とてもドラマチックな生活が展開していたのが、奄美諸島での何年かだったのです。
実際に行ってみて初めて理解できることが沢山あり、実りのある歴史探索の旅でした。
奄美大島の龍郷(たつごう)という場所が隆盛の住んでいた所で、こちらにある龍郷郵便局の外壁はこのような感じでした。
今回、奄美大島の人たちが喋っていた言葉が全く普通の日本語だったことに私は驚きました。
十数年前に次男が出向いた時には、地元の人の言葉が全く分からなかったという話を聞いていたので、意外に感じました。話を聞くと、今50代の方々が小学生の頃、国から方言を使うことを禁止させられた時代があったそうで、学校で方言を使うと先生にビンタされ、「私は方言を使いました」という札を首から下げさせられて廊下に立たされたそうです。それ故、その世代の方々は親御さんたちの使う方言は分かるけれど自分たちは喋ることが出来なくなっている、とのことでした。つまり今、70代以上の方々のみが昔ながらの奄美の言葉を使うことができて、次の世代は聞くことのみができ、更に次の世代・・・今の若者たちは、聞くことも喋ることも全くできない、ということのようです。
今20代の若い人との話は本土の若者との話と全く変わらず、訊いてみると、奄美の若者たちは自分たちの‘おじいちゃんやおばあちゃん’が使っている言葉を全く理解できないとのことでした。このように、言語という文化に一度空白が出来てしまうと、それを元には戻せませんから、何だかちょっと寂しい感じがしました。
島の生活には西郷隆盛も最初はかなりのカルチャーショックを受けたみたいです。
奄美大島の人たちというのは、薩摩藩による黒糖収奪策という想像以上の厳しさを耐え抜いて来た人たちで、それは北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどかったと指摘されているくらいです。隆盛も、島での生活に慣れて来るにつれて、苦しい立場の農民を思いやる気持ちが大きくなり、島民のために多くの功績を残しています。
この島で隆盛は妻を持ち、子どもを持ち、初めて人間らしい心を取り戻し、守るべきもの、背負うべきものを持ち、この時の一家団欒と奄美の島人たちとの心と心の触れ合いがあったからこそ、それが心の支えとなって、その後幾度となく降りかかる艱難辛苦(沖永良部島での1年半の投獄生活も含めて)をも耐え忍ぶことができたのではないだろうかと考えられます。奄美は隆盛にとっての「蘇生の地」だったのでしょう。自暴自棄になっていた隆盛の心に安らぎを与え、生活を楽しませ、どんな困難にも負けないような心を整えさせ、その後の中央での活躍の基盤が作られた場所ですから。
こうしてみると、明治維新の背景に奄美が果たした役割というのは、黒糖による薩摩藩の財政建て直しへの貢献だけでなく、隆盛の蘇生という大きな貢献があったのだと考えられます。そう考えると、奄美はもっと歴史的にも評価されていいのでしょうね。
愛加那さんのお墓参りもして来ることが出来ました。

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