二つ心 管理人ざんげ室

小夜@管理人の駄文『二つ心』制作ノート。へたれ管理人の言い訳部屋とも言う・・・。

沖田さん。

2005-05-28 10:41:11 | 照葉
沖田さんは色黒で彫りの深い現代的な顔立ちで、当時でいう二枚目の範疇からは外れていたんじゃないかと。ファニーフェイス設定です。
で、良く笑う。歯を見せて笑う。これも当時の行儀の良さからは外れることです。

彼は武士の子ですが、ちゃんとそれらしい教育を受けてない感じがします。厳格な家に育った感じはしない。
それよりも、近藤や土方と言った百姓上がりの、武士への憧れだけは異常に強い人達の間で揉まれて、精神論だけは叩き込まれている荒削りな人のような気がしてます。
それと、その二人の武士至上主義ゆえの甘やかし。「お前は俺達と違って歴とした武士なんだから」みたいな、アイドル視されて育ったがゆえの奔放さみたいなものも感じる。もちろん「武士の子だから」というプレッシャーもあったろうし、それだけに自分というものについて悩んで、それを克服してきたんだと思うし。
「普通」に育っていない、ということはそれだけ人間を賢くしますからね。

それから、彼は普段いつも冗談ばかり言っていて真面目な姿を見たことが無い、という証言が残っていますので、それに合わせて、軽い印象に設定してます。少なくても見た目は口の減らない、口から生まれてきたようなへらへらしたヤツ。調子が良くていつも愉快な男。ついでにヘタレでボヤキ魔です。
基本的に男の子なので剣術大好き、強い男大好き、カッコイイもの大好きです。人に親切にしなさいと(姉ちゃんに)躾けられてます(笑)。
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木札。

2005-05-27 10:40:46 | 照葉
一般女性の出入り許可証を木札にしちゃったんですけど、本当は紙片だったようです。
それもどうも吉原のやり方で島原ではどうだったか良く判らない。私が調べ切れていないということなんですけれど(^^;

島原では遊女達も所属する店の許可があれば(これが木札なんです)どこへでも出かけられたみたいですから、一般の女性はなんの許可も要らなかったかもしれませんねぇ。

どうしましょうねぇ。今後これでちょっとひと展開あるんだけどな(--;

それにしても島原の遊女ってプロ意識が高いんですかね?
島原から逃たいという意識は無いみたいです。
出入り自由だからでしょうか?
ハードワークじゃないからかな?江戸と京の男女比率、全然違うだろうからなぁ・・・。
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出口の茶屋。

2005-05-27 10:40:29 | 照葉
島原の大門のことを出口と言うそうです。入り口なのに出口と言うのは島原七不思議のひとつ。
その昔大門だけが出入り口であったので、島原の人から見ればまあ、出口ってことなんでしょう。

で、その大門を入ってすぐ(両側なんだか片側なんだかどっちサイドなのかもわかりませんが)のところに水茶屋があって、これを出口の茶屋と言ったそうです。
ここで女郎さんたちが馴染みの客を待ってたり、遊びに来た客がひと休みしながら世間話をしたりしてたようです。

昼間のうちだけ端女郎を揚げる(女郎さんと遊ぶことを揚げると言います)こともそのまま泊ることも出来たみたいです。

端女郎と言うのはおおざっぱに言えば普通の女郎さんですね。
最上級が太夫(こったい)、次が天神、その次が端女郎、それから局女郎というのが島原では一番リーズナブルなグレードの遊女らしいです。

それでも安い女郎というのはもっともっと居ますから。島原の外にはもっとね。
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島原大門。

2005-05-26 10:39:54 | 照葉
現在残っている島原の大門は慶応3年の建造だそうです。
ttp://kyoto.cool.ne.jp/tukasa21/shima.html
本編は慶応2年の話ですんで、その直前ってことで「質素な」門という風に書いちゃいましたが、正しい表現としては「古い」とか「朽ち果」てたとかの方が的確だったかと(^^;
外界との境も築地塀が回されていたのかどうか確認はしてません。何時頃の物か判りませんが、古い写真で門の脇が築地塀になったものがあったので、ついそのまま参考にしました。全部が全部築地塀かどうか判らないし、幕末の頃がどうだったかもはっきりしません。
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斎藤さんの女癖。

2005-05-26 10:39:31 | 照葉
斎藤さんって「女にのろい」っていう評価がありますよね。あと、伊東甲子太郎のところから離脱する時の理由で、女に使った借金があってその穴埋めに50両盗んで行った、とかいう。

それって、たぶん方便なんだと思うんですよ。私はね。
女を情報源として、あるいは情報伝達の中継として使っていたんだろうと思う。50両盗んだというのもそのカムフラージュだと思います。そういう説は昔から有るもので私だけの考えじゃないですけど。

なのであちこち「女」は居たんじゃないかと。花街にも市井にも。それをタレコミ屋とは明かせないので、自分の女ってことにしてるんでしょう。実際に関係があったかどうかは判りませんけどもね。身体壊さないぐらいには適当に(笑)。

囲ってる女も複数居るってことにもしちゃったんですけどねぇ。
これは彼の性格を「切れない男」と言う風に設定した私の創作です。付き合った女と自分からは切れない。切ることができない人。他に女が出来ても、前の女ともずるずる付き合っちゃう。相手の女が愛想を尽かして切れるまで、関係は続く。あるいは自然消滅を待つか。
女に関しては来るものは拒まないし去るものは追わない、って感じすか。
それを「優しい」とは言わないよ、と私なら忠告してあげたいですけどね。とんでもねぇ男だよ。たまったもんじゃないよ、とね。
囲っちゃうと余計自分からは切れないんでね。なんでそんなことするのかと思いますけどね。囲われることで「安定」を求める種類の女が彼を利用するんでしょうね。あるいは彼を独り占めしたいと思ってそうするのか。
・・・不幸だねぇ。こういう男は誰をも愛さないよ。満遍なく適当に愛せるってことは、特別な存在が居ないってことだよ。こういう男に惚れたら不幸だ。
でもまあ昔は時々来てくれるだけでいい、なんて奇特な女性も多かったろうからね。彼の収入で生活できてるんならそれでいいのかもしれんし。そういう意味で、囲われる方も囲ってる方もギブ・アンド・テイクと割り切っているのかもです。

そんなわけで彼は自分の女達に優しいわけでも無ければ特別惚れているわけでも無いので、その気になればいつでも一掃できると思うし、今後そうする場面も出てくると思う。
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墨流し。

2005-05-22 10:39:03 | 照葉
付け文=ラブレターってことなんですが、色町の女性は営業でこれを書きます(笑)。お客を繋ぎとめておく手段ですね。
本編では、斎藤さんが書いた手紙を、沖田さんが娼妓からの付け文だと勘違いしたという笑い話なんですが、用いられた紙が手のかかった料紙だったという・・・。

墨流しとはこんなもの↓hをつけて飛んでみてください。
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~kuroda/room-1j.htm

わざわざそんな紙を使わなくたっていいのに使っちゃうのが斎藤さんの洒落っ気ってことで。
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沖田さんと斎藤さん。

2005-05-21 10:38:37 | 照葉
この二人の関係はですねぇ、面白いです(笑)。私が面白がってるだけですけど(^^;

天才肌と努力家タイプ。陰と陽的なところが有りますよね。もちろん斎藤さんが努力家だったかどうかは、史実としては定かではありませんけれども。

父親から武士の何たるかをガッツリ教え込まれたであろう斎藤さんと、父親の居ない沖田さん。
試衛館チームのアイドル的な沖田さんとアウトロー色の強い斎藤さん。
酒も、女の匂いもしない沖田さんと、酒が好きで「女にのろい」斎藤さん。
冗談ばかり喋っていたという沖田さんと、余計なことは喋らない性質の斎藤さん。
年は沖田さんの方が二つ上。

斎藤さんから見れば、沖田さんは妬ましい相手かもしれないけれど、それ以上に憧れが有ったろうと思う。
彼ぐらいになれば、いくら努力したとて天才沖田のようにはなれないってことが判るだろうし、それを妬んでも得にはならないってことも判ってるでしょうから。それ以上にその天才と肩を並べていられる喜びの方が大きいような気がする。彼はそれをちゃんと判っている。
それぐらいの大人では有ると思います。

沖田さんから見れば、斎藤さんはちょっと頭の固い後輩、みたいな(笑)。もうちょっと柔らかくなれよー、って感じ(笑)。でも斎藤さんの努力にも武士としての矜持にも一目置いているので、余計な事は言わない。いざと言う時には頼りになる同僚として信頼してるんだと思います。

某人気少女漫画の設定に近いんですけど、二人とももうちょっと大人ですね。つるんで何かをするということは余り無いですけれど、基本的には仲が良いです。
キツイやり取りの後もあとくされは無い。と言うより、仲が良くなければそんなやり取りはできないですから。
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永倉さん。

2005-05-20 10:38:05 | 照葉
永倉新八。書き残したものを読んでも、男気のある人だったと思います。
脚色があったとしても、それは(高齢になってからの回顧録だったりするので)記憶違いとか、あるいは当時の価値観に則って、亡くなった英雄達に対する敬意の表れだったりするわけで。

でもそういう、男気のある竹を割ったような気性の正義漢って、実際側に居たら、私みたいな人間は敬遠しちゃいますね。扱いづらいし付き合いづらい。

だって、この世の中、1-1=0で治まる話ばかりじゃないですから。それを理解しない人間が側に居ると困るんですよ。頑なに制限速度を守られると渋滞しちゃって迷惑なんです。却って事故を起こす引き金になったりする。

例えば同じ組織で仕事をする同僚にそんな人が居て、面倒な会議があったとしたら、私はたぶん、当人には何も知らせず他の人間には根回しをしておいて、会議当日に賛成多数で押し切っちゃう手法を取ると思う。
そいつ一人を説得するために会議が紛糾するのは目に見えてるもん。そのために何度も会議をやり直す時間と手間が惜しい。

土方と永倉の関係ってたぶん、そういうものだったのじゃないかと思います(わたしゃ土方か・爆)。

そうすると彼は土方の頭を飛び越えて近藤さんに直談判という手段に打って出る。
アンタは俺と土方とどっちを選ぶのか?と。俺の言ってることは間違っていないじゃないかと。それでも土方を選ぶなら、おれはアンタの側を離れるよ。・・・っていうことなんじゃないかなぁ、甲府攻め以後は。

そして維新後、近藤さんの本当の気持ちを知っているのは俺だけだと思いながら生き、晩年になってきっと、土方の気持ちにも気づいたんだと思いたい。
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リレー将棋in島原。

2005-05-20 10:37:42 | 照葉
>リレー将棋in島原。
なんて書いてますけど、もちろん嘘ですから(^^;

>永倉新八+井上源三郎+原田左之助チーム(年長チーム)対、藤堂平助+斎藤+沖田チーム(若手チーム)で、三日三晩将棋を打って勝敗を決めるらしい。

ホントに適当です。
でも、これで勤務交代考えたりしましたよ(^^;面白かった。
でもまあ、それほど完全な三交代制ではないとは思いますけどね。
毎度テキトーですいません。
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屯所-島原間。

2005-05-20 10:36:50 | 照葉
西本願寺の大宮門から島原の大門まで、地図を見ると300メートルぐらいですか?歩いて5分もかからない?
実際に歩いてみたことが無いので、というか京都自体23年前に行ったのが最後、と言うぐらいの人間なので、本編には適当なことを書いてます。すいません。

それにしても近いですよねー(笑)。
私は絶対、当時はこの島原を宿舎代わりにしてたと思う。
だってピーク時の新選組、200人体制ですよ。西本願寺の北集会所じゃ間に合わないよ。兵舎を建てていたと言うならともかく。
寝る場所を確保するぐらいはなんとか間に合ったにせよ、そんなところに寝泊りしたくないよ、普通。
懐に余裕があったなら仕事帰りに島原に繰り出して、そのまま泊って翌朝出勤、というパターンは多かったんじゃないかなぁ。

兵士は必ず宿舎に戻る、という軍隊式の法規はまだ無かったと思うし。拘束時間は存外短かったんじゃないかと思います。仕事にさえ来ればいい、みたいなね。
食事も自前なんじゃないかと思うしね。
なので、島原に居た方が便利だったりする。

我々が想像するような、タイムスケジュールに則って行動するような規律というのは、この後、軍隊という近代的な戦闘組織を整備するにあたって、外国から移入したシステムなんだよね。

新選組って「士道不覚悟!」なんて、隊規によってがんじがらめにされていたような印象があるんだけど、あれって、本当に最低限のことを定めたものであって、普段の生活はゆるゆるだったと思います。
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