二つ心 管理人ざんげ室

小夜@管理人の駄文『二つ心』制作ノート。へたれ管理人の言い訳部屋とも言う・・・。

奥州諸藩の警備地&陣屋。

2021-05-09 14:56:08 | 朔の月
安政2年の蝦夷地幕領化に伴って、奥州諸藩が蝦夷地警備に任じられます。
更に安政6年からは領地を与えられます。
最終的に戊辰戦争が始まった時点での各藩の領地&警備地は、ザックリ言って以下の通り。

松前藩 藩領+木古内~七重浜まで
南部藩 東蝦夷地のうち 箱館表から噴火湾沿いに室蘭絵鞆まで
仙台藩 東蝦夷地のうち 登別、白老~襟裳岬~根室+北方4島
津軽藩 西蝦夷地のうち 箱館表、乙部村~スッツまで+奥尻島
庄内藩 西蝦夷地のうち スッツ歌棄?~積丹~増毛~サロベツ辺りまで
秋田藩 西蝦夷地のうち 稚内~枝幸辺りまで+増毛辺りに飛び地+礼文島、利尻島
会津藩 西蝦夷地のうち 雄武辺り~知床半島~別海辺りまで

以上、海岸線を目安に書き出してみましたが。
北海道以外の人には絶対伝らない気がする(笑)。
図で見ると判りやすいんですがね。探してみて(え)。

あと内陸は複雑なのでパス・・・というか、当時蝦夷地の内陸部には道らしい道も無く、沿岸部を船で行き来するのが普通でしたので便宜的に守備範囲(笑)を線引きしたぐらいで奥地はほったらかしだったんじゃないかと思う。
把握出来てないっていうか。

でも一応こちらもザックリ言うと、渡島地方を除けば、大雪山を中心に3等分して太平洋側が仙台藩、日本海側は庄内藩、オホーツク海側は北側3分の1が秋田藩、南東側3分の2が会津藩な感じです(爆)。

各藩はそれぞれ警備地に陣屋を置いてまして、南部藩は箱館、津軽藩は千代ヶ台、仙台藩は勇払、庄内藩、秋田藩は増毛、会津藩は標津です。
稚内が警備地の秋田藩の陣屋が増毛の飛び地に在るのは越冬のためかな?と思います。
あと、庄内藩の陣屋はハママシケという所のようです。

蝦夷地警備は箱館奉行の支配ですんで、各藩とも箱館に留守居を置いてます。
現在の函館ロープウェイの下の南部坂にあった南部陣屋の西隣に秋田留守居、仙台留守居、箱館奉行所を挟んで会津留守居、庄内留守居と、留守居屋敷が並んでいたみたいです。
津軽藩は箱館からほど近い千代ヶ台に陣屋が有ったので、箱館奉行所の坂下の留守居屋敷も小規模で、古地図を見る限り松前留守居と一緒の詰め所かも。

こう見ると、当時の箱館の繁栄って北前船の寄港地というだけのものではなく、奥州諸藩や江戸からの人の往来が多かったからなんだろうな、と気が付きますよね。
役人多そう。
船乗りと役人がいっぱいで、つまり男が多くて宿屋とか料理屋とかお茶屋とか繁盛してそうです。
たったこれだけの規模の街なのに公娼街の他に私娼が多かったというのも頷ける。
ていうか蔵と寺と役所と花街で町が埋まってるカンジ(笑)。

武蔵野楼。

2021-05-08 17:59:06 | 朔の月

鶴岡町の新築島の異国橋にもほど近い、現在の豊川町の某ガソリンスタンドの所にあった妓楼です。

箱館には安政5年に山之上遊郭という江戸の吉原に似せた公娼街が出来たんですが、市街には私娼も目立ち、その管理を山之上町の旦那衆に任せて新築島で営業させることにした。それが文久3年のこと。山之上遊郭が出来た5年後です。

武蔵野楼は新築島の中では一番大きく、三階建てで屋上庭園が有ったことで有名で浮世絵も残ってるんですが、明治8年からは料理旅館になっていて、その頃の古写真にはもう屋上庭園は見当たらない。

屋上庭園とか空中庭園とか聞くと、我々はつい建物の一番上の屋根の上に在るように思っちゃいますが実際はそこまでじゃなく、浮世絵を見る限りでは三階建ての建物の一部が平屋になってて、その屋根の上が庭園になってる感じ。
庭木を配して池もあって、2階から庭に出れたようです。3階からはそれを眺める感じです。


浄玄寺脇の坂。

2021-05-06 15:09:11 | 朔の月
当時の箱館奉行所(五稜郭じゃなく現在の元町公園の方)の坂の下、諸術調所の東隣から順に浄玄寺、称名寺、実行寺と3つのお寺が並んで建ってまして、この界隈を寺町と言った。
称名寺と実行寺の敷地はくっ付いてたみたいですが、浄玄寺と称名寺の間には細い坂道が有ったようで、小夜が言ってる浄玄寺脇の坂というのはこの坂のことです。
浄玄寺の下の「浄玄寺坂」とは別。

箱館が開港した頃から浄玄寺内に間借りしていたアメリカ領事が、築島に居留地が出来ても移るのを拒んで住み続けたとか。
榎本軍が箱館を占拠して他の国の領事が退去してもアメリカ領事はギリギリまで居続けたとか。
どんだけ居心地良かったのか(いや、それだけの理由じゃないのは判るけども・笑)。

明治4年と12年の大火であの辺りは全部焼けましたので、お寺も移転したし坂道も整理されて今はもう在りません。

ちなみに浄玄寺は現在の真宗大谷派函館別院(東本願寺函館別院とも)のこと。
大火の後、称名寺と実行寺は揃って船見町に移転したけど、浄玄寺は元町行ったのね。
船見町には弁天町に在った高龍寺さんが移転したから、敷地の問題とか檀家の居住地の関係で浄玄寺さんは元町行ったのかな?とかいろいろ考える。


函館山にロープウエイで登った後、元町散策しようと浄水場の前を通って突き当りを右に折れるとさぁ、細い坂道の先に東本願寺函館別院のデッカイ瓦屋根が見えて来んのカッコ良くて好きv
自分の地元にあんな大きな瓦屋根の建物って無いのでちょっと感動する。
なんか今にも犬飼源八と犬塚信乃が屋根の上で戦い始めそうでわくわくする(八犬伝か・笑)。
ていうか、これから異国情緒を満喫するゾー!と元町の伝統的建造物群保存地区に向かってる時に、不意打ちみたいに出て来る大屋根にうっかりドキドキさせられるんだよなァ。毎回。

あー、函館行きてぇー。


箱館山の道。

2021-05-05 20:05:16 | 朔の月
箱館山に避難している人達の動きが箱庭の中を歩き回っているように見えて面白い、と幸が言ってるんですが。

そもそも大町の辺りから箱館山(御殿山&薬師山ちょっと離れて観音山)はそんなに近くには見えないです。
ただ、当時は今ほど木々が鬱蒼としていたわけではなく、灌木程度の場所が多かったみたいなので、目が良ければ遠目に人が動いてるくらいは判ったんじゃないかと思います。

それと、当時は三十三観音参りという信仰の道が箱館山の尾根を巡るように設けて有ったので、箱館戦争時にこの辺りの警備担当の新選組が利用する以前から、住民には慣れ親しんだ道だったんだろうと思うし。
祠とか東屋とか設けて在ったかも(という希望的観測v)。

函館山の三十三観音巡りの道は今でもハイキングコース的に残っているんですが、当時と同じ道筋かは判りません。
もし、今に残る三十三観音巡りと当時の道筋が同じだとすると、残念ながらコース的にみて幸の居る所から人の動きはは見えないかもですー。

必敗の戦い。

2021-04-25 17:09:28 | 朔の月
負けると判り切ってる戦をやめずに続ける意味とモチベーション、理解しづらいのは私だけじゃないはず。

創作物に良く有る、最後まで諦めない姿勢がカッコイイという主張も判るけど(自分もそうだったし)。
私みたいな年齢になると具体的な反撃材料とか状況好転の可能性が見えなけりゃただのキレイ事(=カラ元気)にしか聞こえないんで。
耳障りの良い掛け声だけじゃ酔えないんだよな。
むしろ自己陶酔具合が痛々しくて冷める。若いお嬢さん方とか男どもと違って。

もちろん武士の意気地とか矜持とか、そういうものを理解できない訳じゃない。
「もう後は無いから華々しく散ってやれー!」とか、そういう心境も。
周りは迷惑だけどね。
付き合わされる方はね。
だってさー、死にたくない兵卒だって居るわけじゃん?
巻き込まれて戦火に焼け出される民間人だっていい迷惑だし。
そこまでして続ける意味あんの?って思うでしょ?どーせ負けるのに(辛)。
自分の意地のためだけにさ。
頭オカシイでしょ(コラ)。

なので「死に場所を求めて」みたいな解釈されてる土方像が好きじゃないんです。
だって情け無くね?
てかカッコ悪くね?
勝つ見込みが無いからせめてカッコ良く死にたい、みたいな感じって。
ダッサ。
(↑本当にそうだったら物凄い失礼なんだけど・汗)。

本物の土方歳三さんはもっと現実的なオトコだったと思いたい。
適切な状況把握が出来てて先が読めてて。
生来の武士では無かった強み?で、戦況だけじゃなく経済的な状況もね。
兵站運営してれば物流の滞り具合も把握できてただろうしね。
(兵站がいかに大事かってことは彼だけじゃなく、榎本さんは西洋兵学の基本のキとして、大鳥センセイは鳥羽伏見以降実戦をもって身に染みて判っていたと思うので、そういう価値観を共有できた土方は箱館では戦いやすかっただろうと思ってます)。

でも、そう考えるとやっぱり疑問に思う「負けると判り切ってる戦をやめずに続ける意味とモチベーション」。

職務遂行という明快な理由もあるけれども、それだけじゃなー。
と、思っていた時にふと思い出したのがタイトルに書いた「必敗の戦い」という言葉。
どっかで聞いたことあるでしょ?
数年前にヒットした某医療ドラマ(ていうかもともと小説)に出て来た言葉です!
ぶっちゃけ小説もドラマも読んでも見ても無いですが(え)。
たまたまチラ見したTVで流れてた場面で誰かが(うろ覚えですみません)言ってたのが耳にとまった(奇跡!)。
で、ビビッと来たというわけ。

「人」は必ず死ぬ。その「人」を病から救うために医者は七転八倒するんだ、みたいな意味だった(気がする)。
必ず負ける戦いなんだと。それでも死力を尽くすんだと。
まあ、簡単に言って「寿命を伸ばすため」にね。天寿を全うさせるために。
医者はそれが使命だ、みたいな内容だった(私が言うと全然説得力も無いしカッコ良くも無くなるが(^^;)。

それって箱館戦争にも当てはまるんじゃね?ってふと気が付いて。
でもそのまま「必敗の戦い」って言葉を出しちゃったらパクリなんで、言葉そのものじゃなく中身を拝借。
凌雲先生が言った事にしちゃいました。スイマセン。


目の前の戦を職務遂行的に何も考えずひたすら戦い続けてたわけではなく、周りのことも先のことも見えていて、(新選組の解散含め)敗戦後のことも考えつつ、その上でこのまま消耗戦に持ち込み時間を稼ぐ努力をすれば、新政府側の事情も変わって(箱館戦争にいつまでも人とお金かけてられないだろうし)いくらかでも終戦工作の時間を作れるし、和平交渉を有利に進めることが出来るかもしれない、と考えている土方さん。
だから今はまだ、少なくとも榎本政権幹部が降伏を決定するまでは戦をやめるわけにはいかない。

と。
そういう土方歳三像の方が私にはしっくり来る。


幸もそこら辺の彼の思いに気付いて理解しようとしてくれているんですけどね。
小夜はどうかなぁ・・・。

こっから先、気が重いわ。

ていうか頭が痛いわー(^^;

佐野専左エ門さんの家 2。

2020-07-28 15:13:11 | 朔の月
本編書いた後、箱館戦争関連の本を読んでいて見つけたんですけど。
佐野さんち、大町通を挟んで山側に在ったのかもしれない(え)。

いや、海岸沿いに土地は持ってたとは思うんですけど。
今回みつけた明治初年と思われる古地図(住宅地図みたいなヤツ)の抜粋には、小さい店=貸店舗らしき店が沢山並んでる感じで書いてあって、「丁サ」の蔵印の描いてあるのは、大町通りを挟んで斜向かいの別の敷地なんですわ。

でも今現在、市井の研究者の方が割り出した(つまりネットで言われている)土方さんの宿舎であったとされる場所は、大町通りの海岸側の土地なのね。
土地の所有者を書いた古地図にもその通りの場所に佐野専左エ門って書いてあったし。

どっちの地図も描かれたのが箱館戦争の戦火(焼けた範囲もはっきりとは判ってない)の前なのか後なのかも判らないし。
今んとこ判断付かない(私には)。
うーん、どっちが正しいんだ!
判らんので取り敢えずこのままにしてはおきますが。

場合によっては土方さんの寝泊まりした部屋がマウンテンビューからオーシャンビューに変わる可能性がある(笑)。
いや、オーシャンビューじゃなくて蔵ビューかもしれんけど(笑)。


陸軍奉行並箱館市中取締兼陸海軍裁判局頭取。

2020-07-20 10:21:32 | 朔の月
当時ホントにこんな肩書じゃなかったとは思うんですけどね。
肩書としてはせいぜい「陸軍奉行並箱館市中取締」までで陸海軍裁判局頭取を兼務するという内々の約束だったのかもしれないし。

これって陸軍奉行並と箱館市中取締と陸海軍裁判局頭取と3つの肩書に分けることが出来るわけですが。

まず、陸軍奉行並って身分ですよね?と私は思うんですけど。
「並」って世間では「副」の意味(=副司令官)と考えてる人が多いみたいなんですけど、私は陸軍奉行と並列って思うんだけどどうでしょうか?陸軍奉行扱い、みたいな感じ。
つまり今で言ったら「○○代理」的な。
あれって別に「副○○」という意味ではないよね?

陸軍奉行としての本来の仕事をトップで指揮するのは大鳥さんだけど、手当とか衣食住(装備とか住まいのランクとか)は土方さんも同等、な感じで。
なので本編中で幸が、馬に乗れる身分が必要だったので「奉行並」なのか?!と疑問に思ってる。
当時馬に乗るには身分が必要ですからね。

それとも「並」は「ならびに」で、本当に大鳥さんと同じ役職だったのかもしれない。
江戸町奉行みたいなもんで、月番制でひと月毎に交代制で務めるとか。
それでもトップは1人じゃないと、軍隊ですし戦時には不都合だと思うので、その時は「並」が付いた方が下になるかと。

本来のつまりメインの仕事は箱館市中取締ではなかったかと思いますね。
市中取締は新選組の十八番だしv
この役職は副数人居た、とどっかで読んだ記憶は有るんですけどね。どっかでね(うろ覚え)。

陸海軍裁判局頭取って、榎本軍事政権の中では最強じゃね?(笑)。
でもま、ホントに裁判時だけの役職だったかもしれないけど。
これも副数人居たみたいだし。
なにしろ旧幕府脱走陸軍、脱籍幕臣を中心に佐幕派諸隊の集まりですから。
諸隊士同士のイザコザを調停することも多かったんじゃないでしょうかね。
ていうか榎本軍の軍人が箱館の街で悪さした日にゃ、土方一人で量刑して執行できるっていうね(怖)。

いづれにしろ、忙しくて時間が無い程の役職じゃないような。
割と自由に時間の融通が出来る役職ではあります。
なので、蝦夷地平定後の冬場、箱館の街で彼は(脱走)諸藩の用人と頻繁に会合を持ってますね。


ちなみに江戸時代の奉行職って、近代国家の原理である三権分立の三権(立法権、司法権、行政権)を全部掌握してるんですよね。
分立してない故に前近代=近世な訳ですけど(日本の場合、その代わりに権威、権力、財力が天皇家、将軍家、大商人に分立している)。

で、この土方さんの肩書って、なんか奉行の持ってる三権をわざわざ3つにばらして文字に書き起こして並べたような見た目で面白いよね。



土方さんの最終目標。

2020-07-17 22:51:40 | 朔の月
いつ頃からだったろう。
『燃えよ・・』の呪縛からようやく解放されて、「死に場所を求める土方歳三」を否定することが出来て、「戦い続ける土方歳三」に希望を見出して・・・。

でもやっぱり、あの人は蝦夷地で何を考えていたんだろうって思って。
ずうっと考え続けて。

結局、戦うこと以外は何も考えてなかったんだろうと、自分の持てる力を全力投入してただけなんだなと気付いて、同時に納得も出来て。
それが15年ぐらい前から。
それでも、ホントのところはどうだったんだろうとはずっと考え続けていたけど。

で、その頃から薄々感じてはいたけど、頭の中ではっきりとは像を結んでなかったことが、この話を書いてる中で見えて来た。


会津でもそうだったけど、終戦(降伏)交渉には外人部隊(抗戦集団)は邪魔なんですよね。
土方はそこんとこも考えて会津を出たんだとも思うし。
奥羽越列藩同盟に対してもそういうスタンスで手は組まなかったし。
なので箱館でも、降伏するなら自分は邪魔だ、とは思ったでしょう。

加えて、箱館戦争は新政府にとっては反乱軍の鎮圧なので、首謀者の首を取らなければ終戦は有り得ないだろうとも判ってると思うんですよ。
負けることは、開陽丸が沈没した時に既に覚悟したと思うし。

そうであれば、終戦まで生き残ったら自分は首を刎ねられるだろうとは確実に思ってますよね。
新選組の副長だし、城を二つも攻め落とした大罪人だし。

だからその前にカッコよく戦死したんだろう、と・・・いろんな創作物では描かれているわけだけど。

私はあれは、土方さん的には不本意な死に方だったんじゃないかと・・・気が付いたんです。


会津以降の土方さんの心の傷になったであろう近藤さんの斬首。
結果的に彼は敬愛してやまなかった盟友をあろうことか土壇場に送り出してしまったわけなので。
負い目になってたと思う。
なので、会津での土方さんの心の中も、どんなだったかなぁと思ってたんだけど・・・。

近藤さんが斬首になったなら、・・・自分はそれ以下でしゃーない!

って思ったんじゃ?と気が付いたんですよ!この話書いてるうちに!(笑)。

だって切腹とか戦死とか望んでちゃ「地下の近藤さんに申し訳が立たない」んですよ!彼的には!

と考え付いたらいろいろ腑に落ちたね。

近藤さんの斬首の報を聞いた後、どうやってメンタル的に復活したかとか、蝦夷地で負けると判っている戦いにどんな思いで臨んでたのかとか、いまいちピンと来てなかったんですけど。

蝦夷地に渡るにあたって、新選組を・・・もう質的に変化してしまった新選組を今更名乗る意味も判らなかったんですけどね。
古参の隊士が執着した、もしくは「新選組」の看板が有名になって新入隊員に望まれたから仕方無くまた新選組を編成したのかな?とか思ってましたが。
近藤さんが亡くなった後は、新選組には興味が無くなってたんじゃないかと思ってたんで。

違ったな。
全てが「地下の近藤さんに申し訳が立たない」から、なんだ。

最後まで戦い続けるのも、最終的に(近藤さんの代理で)責任を取って首を刎ねられるのも本望なのね?
そうしないと「地下の近藤さんに申し訳が立たない」から。

そんなに近藤さんが好きかー!と思ったら・・・涙出た。

『燃えよ・・』で描かれたみたいに、近藤さんはお神輿で自分の思う通りに動かしていた・・・ってわけじゃなく、近藤さんを本当の本物の武士として尊敬して、彼のために働きたかったんだなと、そんな土方歳三像がありありと目に浮かんで。

ただ、「地下の近藤さんに申し訳が立たない(もしくは 合わせる顔が無い)」という言葉は、死に場所を求めての発言と思われてて残念だけどね。

なんなら蝦夷地で大暴れしてやるから、負けたら盛大に市中引き回しの上、打首獄門でもどうにでもしてくれよと思ってたんじゃないかと・・・今は思う。
大納得。
って自分で出した結論なんだから当然だけど(^^;

どんな大罪人に仕立てられても、どうせ自分には女房子供も居ないし。
迷惑がかかりそうな日野の佐藤家には用意出来るだけの金子を(市村君に持たせて)送って。
首謀者の首として最低限自分の首が有れば、何とか五稜郭のインテリさんたちの命も救えるかもしれないし。
新選組の代表として打首になるなら隊員の命も救えるし。
自分の刑の執行前に五稜郭幹部や新選組の量刑をある程度は知ることが出来るかもしれないし。
地下の近藤さんに対して面目も立つ。


戦死は、きっと想定外だったよね。
余りにもタイミング良く戦死するし、シチュエーションもカッコイイから誤解されるんだな。

カッコ良く誤解されて未だにモテモテなのが貴方らしいけどね。



禿山。

2020-07-17 14:05:15 | 朔の月
当時の箱館山って・・・禿山?

確かに、碧血碑建立当時の古写真とか見ると、その裏山には見事に何にも無いんだよね(^^;
今はあんなに鬱蒼としてるのにね。

明治5年の「豊川町から見た函館山
山の右下の色の濃い部分は良く見ると林になっていて、たぶん植林されたもの。
木々の幹が見えているので、周りは草(もしくは背の低い灌木程度)しか生えてないのが判る。

これは箱館の人々が薪にするのにどんどん伐採してしまってこうなった、と言われてます。

まあ、江戸時代って結構そういうとこあるもんね。
幕府とか藩とかが管理している山林や個人の持ち山でなければどこでも勝手に切って薪にしてしまう的なとこが。
防風林用に植林した松の木を住民が全部焚きつけにしちゃった話とか、聞いたこと有るし(仙台領での話。嘘かホントかは判らないけど・笑)。

箱館は火事の多いところなので、建築用に木々を伐採した可能性は無いのかな?って私も一瞬思ったんですけどね。
あと、造船用にね。

蝦夷地には杉の木って無いんだよねぇー(ケヤキ、クヌギ辺りも無かったらしい)。
津軽海峡(ブラキストン線)に阻まれていたので。
在るのは植林されたものばかりです。
箱館山の杉も、寺社仏閣もしくは幕府や各藩の陣屋修繕用に植林されたものと思われます。
あと、箱館の豪商が植林したパターンね。

杉以外の蝦夷地産の木材(エゾマツ、トドマツ、カラマツ等)を建築用にあてた可能性も無くは無いけど、仮に箱館山に有ったとしても、火事が多いし、大火もしばしばで木々の成長も追っつかない。1回使っちゃったら終わり(=禿山・笑)。
箱館の建築用造船用の木材は、下北、津軽、桧山、石狩方面から船で運んで来たんだと思うな。
(桧山地方は幕末には既に松前藩によって木材の伐採は止められてたかもしれないです。詳しく調べてないです。スミマセン)。
古地図で見ると、地蔵町の築島に材木置き場が在るしv

なのでやっぱ箱館山が禿山なのは、薪にして燃やしちゃったから!なんだな。


箱館周辺の旧地名。

2020-07-17 12:56:47 | 朔の月
そもそも「箱館」が旧地名なんですけどね。
この字を使う箱館は、旧市街=狭い意味での箱館を指します。
「函館」になる前の市街地。
なので、五稜郭が在るのは箱館ではなく亀田。
亀田の箱館湾側の海岸が七重浜。

ついでに言うと、七重浜と七飯村は別物(笑)。
同じ「ななえ」だけど場所的には全然別です。
七重浜は北斗市。七飯町は亀田郡。位置的にもちょっと離れてる。
このちょっとが紛らわしいんですけどね。
土地勘の無い者(=私みたいな)は七飯村に七重浜が在るもんだと思っちゃう(^^;。
まあ、字が違うってことで。お間違え無きよう。

あとー、本編に出てくるのはー。
旅籠町と地蔵町と山背泊と尻沢辺かな?

旅籠町は本編で幸さんが説明してくれてるので省略(え)。

地蔵町は現在の地図で言うと、大三坂下から海岸沿いに豊川町辺りまでなのかなと思います。
豊川町に地蔵堂が在ったのでこの名前になったらしい。
ちなみに、おおよそ電車通りが当時で言うメインストリートで、その一本海岸よりの道路はもう海岸線=岸壁な感じです。
ベイエリアの倉庫群とか国際ホテルなんかは当時の新築島と呼ばれたところ。
で、ちなみのちなみに、函館湾と大森浜の間の一番狭いところは現在でも1キロ程しか無いんですけど、江戸時代には500メートル程しか無かったとか。
明治から現在まで、海岸線を埋め立てた結果、倍になったんですね。

「山背泊」は函館山の西側、今の入船町の崖下?南側半分位?を山背泊町と言った。
山背というのは、北海道青森岩手宮城の太平洋側に住んでる人は判ると思うけど、春から夏にかけて東=海(=親潮=寒流)から吹いて来る冷たい風のことです。
山背による時化(濃霧もあるかも)で風待ちをするのに船が入るから「山背停まり」→「山背泊」らしい。
山背が箱館山に当たって止まるから「山背止まり」・・・説も有って欲しい(一瞬そう思っちゃったので(^^;)。
恵山の近くに山背泊漁港って在るんだけど、あれも語源は同じだと思います。

「尻沢辺」は谷地頭の海側、今の住吉町の北半分ぐらい?海岸線の窪んだ辺りに集落があって、その辺りのことを言ったらしい。
立待岬には台場が在った。
本編では幸が「尻沢辺にも台場があります」と言ってます。