二つ心 管理人ざんげ室

小夜@管理人の駄文『二つ心』制作ノート。へたれ管理人の言い訳部屋とも言う・・・。

奥州諸藩の警備地&陣屋。

2021-05-09 14:56:08 | 朔の月
安政2年の蝦夷地幕領化に伴って、奥州諸藩が蝦夷地警備に任じられます。
更に安政6年からは領地を与えられます。
最終的に戊辰戦争が始まった時点での各藩の領地&警備地は、ザックリ言って以下の通り。

松前藩 藩領+木古内~七重浜まで
南部藩 東蝦夷地のうち 箱館表から噴火湾沿いに室蘭絵鞆まで
仙台藩 東蝦夷地のうち 登別、白老~襟裳岬~根室+北方4島
津軽藩 西蝦夷地のうち 箱館表、乙部村~スッツまで+奥尻島
庄内藩 西蝦夷地のうち スッツ歌棄?~積丹~増毛~サロベツ辺りまで
秋田藩 西蝦夷地のうち 稚内~枝幸辺りまで+増毛辺りに飛び地+礼文島、利尻島
会津藩 西蝦夷地のうち 雄武辺り~知床半島~別海辺りまで

以上、海岸線を目安に書き出してみましたが。
北海道以外の人には絶対伝らない気がする(笑)。
図で見ると判りやすいんですがね。探してみて(え)。

あと内陸は複雑なのでパス・・・というか、当時蝦夷地の内陸部には道らしい道も無く、沿岸部を船で行き来するのが普通でしたので便宜的に守備範囲(笑)を線引きしたぐらいで奥地はほったらかしだったんじゃないかと思う。
把握出来てないっていうか。

でも一応こちらもザックリ言うと、渡島地方を除けば、大雪山を中心に3等分して太平洋側が仙台藩、日本海側は庄内藩、オホーツク海側は北側3分の1が秋田藩、南東側3分の2が会津藩な感じです(爆)。

各藩はそれぞれ警備地に陣屋を置いてまして、南部藩は箱館、津軽藩は千代ヶ台、仙台藩は勇払、庄内藩、秋田藩は増毛、会津藩は標津です。
稚内が警備地の秋田藩の陣屋が増毛の飛び地に在るのは越冬のためかな?と思います。
あと、庄内藩の陣屋はハママシケという所のようです。

蝦夷地警備は箱館奉行の支配ですんで、各藩とも箱館に留守居を置いてます。
現在の函館ロープウェイの下の南部坂にあった南部陣屋の西隣に秋田留守居、仙台留守居、箱館奉行所を挟んで会津留守居、庄内留守居と、留守居屋敷が並んでいたみたいです。
津軽藩は箱館からほど近い千代ヶ台に陣屋が有ったので、箱館奉行所の坂下の留守居屋敷も小規模で、古地図を見る限り松前留守居と一緒の詰め所かも。

こう見ると、当時の箱館の繁栄って北前船の寄港地というだけのものではなく、奥州諸藩や江戸からの人の往来が多かったからなんだろうな、と気が付きますよね。
役人多そう。
船乗りと役人がいっぱいで、つまり男が多くて宿屋とか料理屋とかお茶屋とか繁盛してそうです。
たったこれだけの規模の街なのに公娼街の他に私娼が多かったというのも頷ける。
ていうか蔵と寺と役所と花街で町が埋まってるカンジ(笑)。
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