体育館通いの日常。

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80歳になりました。の投稿その後。

2022-05-09 18:47:03 | 乳癌
又、書きますね、から1年余り経ち、81歳になりました。
続きの記事を書きたかったのに、この欄のシステムが変わり、続きを書く方法がわからなく、どう仕様もありませんでした。
苦肉の策で、契約しているNTTサポートセンターに電話しました。
最初は「OCNの事はわかりません。」と言われました。私はNTTもOCNも関連した組織だと思っていました。
全然、違う会社なんですね。困ったのですが、「わかるところでいいので、ブログ更新したいのだけど、システムが変わってわからない旨を
伝えました。
その方はとても親切な方で、目的の個所を、色々書かれているところをよく読んで探すのです。と言われて、一緒に探して下さいました。
しかし、操作の順番が理解できなくて、もう一度戻ってみたいと言ったら、根気よく一つ一つ順序を辿って下さいました。
そして、これからもどんどん改良されていくので、説明文をよく読んで色々試してみるといいよとアドバイスを貰いました。
ここにこうして、やっと、続きが書ける欄に、自分で探せました。NTTサポートセンターの私に応対して下さった担当の方に、このプログで
厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。定かではないけれど多分、令和4年5月6日だったと思います。

扨て、81歳になり、身体が毎日老化していくのがわかります。70代で出来たことが徐々に難しくなっていきます。
しかし、私は諦めないで出来ることは続けようと思いました。
コロナ禍で通っていた健康体操等が人数制限で思うように参加できません。
それでも申し込みを繰り返し、根気よく何でも参加するようにしています。
幸い、体育館は使用制限がないので、週2回、2時間の卓球は無茶苦茶楽しんで続けています。
会員になっている市主催の「健康運動推進協議会」略して「健運推」は続けられています。指導させていただく「健康体操教室」は縮小され人数制限があるものの、指導する側の研修は今迄通り行われているので、毎回出席しています。
公民館も一時使用不可でしたが、今は解除され、「少人数のヨガ教室」を再開しています。これも年なので辞めようと思ったのですが、参加者に励まされて続けています。ボランティアなのですが、教えていて凄く自分のためになっています。

朝、起きるとこむら返りがおきます。太腿の裏側、左のお尻近くが痛くて歩けない時があります。そんな時は歩きます。歩いていると徐々に痛みがなくなってきます。
この頃は、歩く速さでジョギングすると、歩く倍の筋肉が付くと新聞の記事に載っていたので、実行してみました。スピードはゆっくりなので、いつものコースが走れ?ました。何とゆっくりジョギングを始めた途端、太腿の裏がすーうと痛みが瞬間消えたのです。えつと思いましたが直ぐ元に戻りました。しかし1キロ位続けていると、傷みが和らいでいくのがわかりました。このやり方を続けようと思っています。朝は簡単に出来るのですが、夕方は少ししんどいので普通に歩いたりしています。大体2キロ位の散歩です。
又、ラジオ体操が身体に凄くいいと書いてあったので、やっています。
市の広報に載っている、高齢者用の健康運動には駄目な時のありますがいつも見つけたら申し込んでいます。
月2回琴を習っています。80を過ぎると覚えが悪く練習に時間がかかります。でも、認知症予防には良いと思うので続けています。毎日2時間位練習しています。気が進まない時やしんどい時はパスします。稽古日が近づくとそうも言ってられないので、自分に鞭打ってます。
若い時は大きな琴は邪魔でしたが、少しでもやってたお陰で、今は弾けることが楽しいです。やってて良かったなあと思います。
少しでも若い時のやってたことが、老いて役立つことがあり、何でもやっておくといいなと今思います。

コロナが流行り出した3年前、健運推の会合で7人の会が出来ました。何となく気が合い、軽い山登りや公園や街歩きをしている内に、なくてはならない仲間になりました。おしゃべりしながら歩く楽しさは格別で、コロナに関係なく続けられていることが嬉しいです。
同じ時期に私の旦那が大腸がんになり手術しました。自分の葬式を天井から見たとかの妄想があり、命が危なかったのですが、大腸がんで有名な病院だったので助かりました。大腸がんの予後診察で、前立線がんが見つかり、そのがんで評判の病院で手術しました。今のところ、どちらも再発がないようで、一安心ですが、病院通いは続いています。近所に住む次女がいつも付き添ってくれています。ありがたいことです。
だから、私が好きに体操や山登りや公園散策に行けます。若い頃はお金がなくて苦労しましたが、長生き出来て、こんな幸せがあったなんて、生きてみるもんだと思います。
認知症と歩けなくなることが一番怖いです。
認知症にならないよう、いつまでも歩けるよう努力したいと思います。

先日、ネットでDポイントのため方が変わり、何度やっても出来ません。サポートセンターもocnの事なのでわからないと。そこで長女に教えを請いました。何だかんだ散々文句言われてやってくれました。見てても、どうしたら出来るのか全然わかりません。長女が帰る時、今の処理全然わからなかった、認知症になってるかもとわあわあ泣きました。わからないことが情けなくて止めどなく涙が出ます。悲しかったです。
長女はわからなくても死ぬわけじゃないから、と抱き締めてくれました。

拙いブログですが、見ていただきありがとうございました。



乳癌、膝痛その後

2021-03-02 22:46:36 | 乳癌
80歳になりました。もう怖いものがありません。日々ボケないよう、歩けなくならないようをモットーに生きています。
乳癌について。私は右乳房を全摘しました。今なら、乳房を残す手術だったと思います。悲しくて悲しくて耐えられない思いを数年抱えました。
その後、痛かった腕が徐々に上げられるようになり、傷も癒えると、元気いっぱいになりました。
乳癌の手術後、悲しんでばかりでは何の得にもならないと、職を探しました。術後2カ月で高校生の受験塾に採用されました。
スムーズに採用されたわけではありません。一度落とされたのですが、どうしてもその塾で働きたいと手紙を書きました。
幸い、採用された方が妊娠され辞退されたとかで、先ず1カ月だけとの条件付きでした。もう、嬉しくて頑張りました。
仕事は、生徒のテキスト作りを主に、生徒募集からあらゆる雑用を四人のスタッフでこなしました。
実に色々なことがありましたが、楽しかったです。15年位続きました。塾全盛期だったし、有名校の生徒と京大と阪大ばかりの学生講師でした。
塾長の本業は医者で、塾は副業でした。常に塾長が傍にいるわけでなく、夕方から夜にかけて来られ、的確な指導をされました。
私は、昼のスタッフとして採用されたので、最初はテキスト作り専門でした。その内生徒数がみるみる増え、夜のスタッフが一人では足りなくなり、5人位になりました。
募集も大掛かりになり、今なら難しいだろうと思うのですが、校門でビラ配りもしました。
スタッフの採用も任されました。
採用されたスタッフが、普段いない塾長の代わりに塾のボスになり、私達をやめさせようとする事件もありました。
結局、私達の言い分が通り、そのやり手の女性は辞めていきました。夜のスタッフで実によく働く凄い方でした。もう塾を乗っ取りそうでした。
沢山の事を勉強させていただきました。
塾長も二足のわらじで、賢い方でしたが、医者なのに自分の癌が手遅れになるまで気づかず、42歳の若さで逝かれました。その時私は50歳でした。
塾の後は才媛の奥様が病院と塾の両方を継がれました。塾長の息子はまだ医学部の学生でしたので、病院は医者を雇われました。
この時のいざこざは種々ありましたが、熟練したスタッフが多かったので、塾は今まで通りスヌーズにいきました。
私は55歳で辞めました。55歳からは自分の人生を楽しんで過ごそうと決めていたからです。
本当に楽しみました。
中学生と小学生だった二人の娘を育てながらの、塾勤務だったので無茶苦茶忙しかった筈ですが、毎日充実していたと思います。
娘達の学費や諸経費が、私の給料でほぼ賄えたことが一番良かったのではないかと思います。給料は当時としてはとても多かったです。 
それに、乳癌の事をあれこれ考える暇がなかったことがまた良かったのかもしれません。

私は乳癌を全摘して、死ぬほど悲しみましたが、その後、乳房を残した手術された方に数人会いました。
その時、「残すのも善し悪しよ」としみじみ言われました。再発するリスクが高いのです。残された方達は次々再発し、私より若い方なのにお亡くなりになりました。
医学が進み、再発も防げる時代になったと思うけれど、残した為に再発の心配も、治療も大変だから、今も残すのも「善し悪し」かもしれません。

あんなに死にたいと言ってたのに、今は生きていて本当によかったです。

一緒に悲しんでくれた旦那も、まあ元気だし、今の幸せを噛みしめています。また続き書きますね。

乳癌と膝痛のその後と体育館通いのその後

2020-11-28 00:10:30 | 乳癌
長い間更新していません。漸く書いておこうと言う気になりました。
先ず、乳癌ですが、手術したのは37年前の42歳10月です。
当時は泣いて、泣いてどうしようもありませんでした。
娘二人の母なのに、死んでしまいたい思いでした。
後に、長女の中学1年は「お母さんが癌になってしまった」と、校庭で泣いていたそうです。
二女の小学3年はお姉ちゃんやお父さんがいて、時々おばあちゃんや叔母さんが来てくれて、淋しくなく何も覚えてないそうです。

死にたいとは思ったけれど、実際はこんなことで死ぬもんかと思いました。
当時は放射線治療の方は6カ月位入院されていました。私の癌は極々初期で、多分0期やったのだと思います。
手術で癌細胞が飛び散ってしまったかも知れないので、放射線はかけませんが、抗がん剤を飲みましょうと言われました。

乳癌の傷口はいつまでもじくじくして、リンパ節を37個取っているので中々治りません。
乳癌だった右脇は痛くて長い間手が上がりにくかったです。でも、挙げる練習をしないと筋肉が固まってしまうので、毎日毎日
腕を挙げるリハビリをしました。胸に厚い鉄板が入っている感じは、20年くらい続いたでしょうか。腕が抵抗なく挙がるようになる
3年くらいかかりました。

入院生活は楽しかったです。同じ病の方が2人おられて、私が一番若く、半年入院されてる59歳の元郵便局員の方と、私より1週間くらい後で手術された49歳の方と、胃癌で手術された45歳位の方の4人部屋で、色々話をし、よく笑いました。
私はお正月も近いし、子供達も心配なので二カ月で退院し、通院にしました。

2週間毎に通って、処方される抗がん剤は当時の我が家の家計には高価でした。私は初期の癌やしリンパも取っているし薬がなしでもいいのではないかと、勝手に判断しました。傷口はじくじくし、腕も上がりにくかったけれど、3カ月位で通院を辞めました。つまり高価な抗がん剤を医師の許可なく辞めたのです。こうして37年も生きているからラッキーとしか言いようがありません。

そうこうしている内に一緒に入院していた方々も順次退院され、その後20年位時々会って無事を喜びあいました。
乳癌の二人は術後30年近く生きられました。今はお二人ともお亡くなりになりました。

退院してから、ワコールで高価な乳癌用のブラジャーを買い、島根県迄行ってブラに入れるパットを買いました。高価でした。
しかし、高価ながら、所詮は消耗品、長持ちしません。今は、その辺にある端切れを使い自分で作ったパッドを入れています。  

次に、膝痛の件です。
変形性膝関節症と診断され、1年程通院しましたが一向に良くなりません。ヒアルロン酸も打ちましたが、しばらくだけ。 
こういううのは自分で治すしかないと思いました。
色々やってみましたが歩くのが一番です。 最初は毎日2キロ位歩いていましたが、だんだんまどうになり、今は思い付いた時だけになりました。

先日、お腹が重くて重くて、歩くと息切れがします。扨ては何か病気かと、何かの癌かもと病院へ行きました。
MRI、CT、血液検査、心電図、子宮がん検診をしました。結果、どこも異常ありませんと診断されました。
健康体なんだ。これは単なる老化なんだと思います。

今も歩くとお腹が重いです。でも、もっと歩くようにするとマシになるのではと思います。
結局、膝関節症は歩き、健康体操やヨガ、卓球等でなんとかなるのではと思います。 
現在、体育館は週2回卓球だけです。公民館で月2回ヨガを教えています。保健センターで健康体操、福祉センターで健康体操とプールウオークを
地域の公民館で百歳体操に参加しています。なんでも広報に載っているのがあれば参加しています。

60代はまだ70代がある、70代はまだ80代がある、しかし80代になるともう先がありません。もうすぐ80歳になります。

いつまでも歩けて、認知症にならないよう新聞を読み数独をし頭を鍛えるようにしています。

誰もが経験したことがないコロナ禍、いつまで続くかわからない不安、乗り越えていかなくては。近づいてくる死に向かって、穏やかに生きていきたいものです。

今まで生きてきて、ピースボートで北回りと南回り2回でほぼ地球一周出来たことが何よりです。そのお陰で外国に慣れ海外旅行に何回も夫婦で行けたことが大きな財産です。思うに海外は75歳までに行かれた方が良いように思います。齢をとると思わぬ所で転ぶことがあるんです。

子供達も無事素敵な大人になってくれましたし、孫も上は21歳になり幸せです。死ななくて良かったです。

私のつたないブログを毎回読んで頂いた皆さん、どうもありがとうございました。

変形性膝関節症の経緯と乳癌手術

2020-04-07 22:23:22 | 乳癌
4年前、変形性膝関節症と診断されMRIを撮り、ヒアルロン酸注入治療等に通いました。
いくら頑張っても、注射はその時だけ、リハビリも続きません。
変形性膝関節症の本を読み、自分なりに続けられそうな運動で、自分で治すしかないと結論しました。
あれから4年。今では正座はきついけれど、階段の昇降は普通に出来るようになり、ウオークも2万歩以上大丈夫です。
変形性膝関節症は自分で治すものだと思います。

乳癌の手術手記。

乳房。。それは女性の美しいシンボル。42歳。まだ若いんだ。未練はたっぷり余るほどある。
何故、悪性の腫瘍が住み込んだんだろう。
性の目覚めは遅かったけれど、一番敏感に反応したのは乳頭だった。弄りまわした乳頭から黴菌が入ったのだろうか。
5月ころ赤く腫れあがって痛かった。1週間程すると治るので又痛めつける。そんなことが原発巣の原因だろうか。
7月初め乳頭にニキビの親玉のような膿がついていた。何だろう、ニキビを潰す要領で指で押し出すと2ミリ位の膿がポロっと採れた。
チーズの臭いがした。お乳が知らない間に出て腐ったのかなあ、それともあまり弄り過ぎて化膿したのかなあ、病院へ行った方が良いかなと迷った。
まさか、こんな2ミリ位の乳頭の傷で笑われるのじゃないか、ちょっと神経過ぎると思った。
膿がつぶれた後はぽかっと1ミリ位の穴が開いて、乳腺に続いているような気がした。1ミリ位の傷はチクチク痛かった。3日程少量の膿が出た。
オキシュールで消毒しお風呂にも入った。オキシュールで消毒しても治らないし傷口が痛むので赤チンをつけバンドエイドを貼った。
「お母さんどうしたのそんなとこにバンドエイド貼って?」と中2の娘が笑う。
「そんなん、ほっておjていいんか?病院へ行って来いよ。」「だって、こんな位で格好悪いやん。ちょっと化膿してるんですけどって言うんか?
そんなん恥ずかしいわ。こんなちょっとで。」
お母さんな、見せるのん嫌やねんて。俺かて尻がただれた時、尻見せんなんかって、女医やって、2度と行くかと思ったもんな。」
傷は1週間くらいで治り、痛くも痒くもなく、何ともなかった。
乳癌は必ずしこりがあると信じていた。どこを触ってもしこりらしきものはない。乳癌は痛まないと聞いていた。あの傷は痛かったから乳癌では
ないと思った。でも気になっていた。あんな敏感だった乳首が片方と比べると反応が鈍く、はっきりとしない痛みが朧気にあるような気がした。
一時不感症になってしまったのだろうかと一人悩んだ。傷がすっかり治りながらも、膿の出たこと、臭いが悪臭だったこと、感度が鈍ったこと、
乳腺に繋がるような穴が開いたこと、色々考え併せて不安な日々を、忙しさに紛らわせた。
その不安は日ごと大きくなり自分で抱えられなくなった。二人いる姉の下の姉に相談した。検診をしきりに勧めてくれた。
毎年T町でも検診して100人中2~3人、早期乳癌の発見で乳房切除術で元気に暮しいておられるという。
恥ずかしいも何も順番やから、さっさっさやから受けなさいよと言われる。
そうこうして子供たちの夏休みが終わった頃、親類の悲報が入った。小学生の子供のお母さん。38歳で胃癌で亡くなられた。
翌日の告別式で若くして逝くことの悲惨さ、名残惜しみの情景を涙に受診の決心を新たにする。

9月1日。やっとT病院で診察を受けた。何もありませんと言われたら、1年安心して暮らせるじゃないかと。
前に乳癌の検診を受けて来月で丁度1年になる。
受診の恥ずかしさは杞憂だった。かなり丁寧な触診だった。しこりはなかった。
両方の乳頭から分泌物が出たので、小さいガラス板4枚ずつに分けて細胞検査をしてもらった。
普通乳頭から分泌物が出る事がなく、出るということ自体、。乳腺のどこかになんらかの原因がある。それを調べるという。
急に不安が堰を切ったように一瞬私を襲った。結果待ち2週間。急に心配になりだしたので。薬剤師の友に聞いた。
乳頭から膿が出たら、すぐ検診を受けるべき大切なことだったと言われた。2カ月の空白が取り返しがつかないのではと、
図書館で乳癌に関する本を2~3冊借りて読んだ。そこにはしこりのことしか書いてなかったので安心した。
9月20日の結果は私を恐怖のどん底へ突き落とされた気がした。左は何の反応も出なかったが、右は悪性と出ました。と。
もしかして、切ることになるではと思わず涙が流れた。午後から左右の乳房のレントゲンを角度を変えて3枚ずつ。
又涙ぐんでしまった。9月22日。レントゲン検査は異常なしだった。まだMRIのない時代です。
9月26日。造影剤を入れて悪性の分泌物を出している乳腺を探し出す検査をする。レントゲン室の前で座っていると、
ドキドキし心臓がキュッと締まった。初めてなのでドンの事をされるのか不安で大変怖かった。
レントゲン室に仰向けに寝て乳房に麻酔をされた。痛さに思わず涙があふれた。大きなため息が何度も出て胸の動悸を抑える
のに苦労した。1回目の造影剤の入った乳腺の現像はこの腺ではなかった。2回目。次は間違いないから我慢してと言われた。
成功。造影剤の入った乳腺はうずくような痛さだった。造影剤を抜いてもらうとスーッと痛さが消え終了した。
この時点で薬で治る程度だと思っていた。
朝から採用された保母の健康診断を受け、保育所に挨拶に行った程である。

造影剤の結果、悪性の分泌液が出ている乳腺を全部大きめに切除して組織検査をし、結果全部切除するかどうか決めます。
全部切除する確率は五分五分です。と。ショック。脚が震えてどうしょうかと思う。旦那に泣きながら電話して、そんなん大丈夫や
と励まされる。姉にも電話して、「きりなさい、きりなさい。乳癌なんて大勢いてはる。間だ早いから切ったら完全に治るんやから
大丈夫。しっかりしなさい。あんたがクヨクヨしてたら家の中の者も心配して、家庭が暗くなるやろ。」と言われ泣いてしまった。
上の姉にも電話する。「ふーん。良かったやんか。早期発見やから。近所の人なんか胸板の肋骨までバサッと切って、もう見られ
へんほど掘れたという感じで凄いよ。乳癌は皆その位切らはんねんで。」「えっつ。そんなに切らはんの、どうしょう、お玉みたいに
掘れるん。」「そうや。がばっとえぐったみたいに掘れて、そらあ凄いでえ。それでも今バレーボールして貼って元気、大丈夫やわ。」
「そんのんいらんわあ」とまた泣いてしまう。「元気出しなさいよ。乳癌なんて大丈夫やから。」
働く意欲に燃えやっと探した仕事だが涙をのんだ。健康診断の結果は異常なしだったのでびっくりされた。
続きはまた後日。










教えて下さい。

2018-05-07 15:18:03 | 乳癌
パソコンに入っているフリーセルのトランプゲームが好きで、毎日毎日やっていました。
最近セキュリティの更新をするよう明示されたのでクリックしてしまいました。
それ以後、トランプゲームをするたび、ゲームの広告が出ます。
ゲームが終わる度しつこく出ます。
パソコン終了時には必ず再起動して下さいと出ます。
設定でパソコンの状態を確認すると最新の更新で正常ですと出ます。
NTTのサポートセンターに問い合わせると、私がクリックしてしまったから、そんな状態になったので、NTTではそれを戻すことはできないとのことです。
マイクロソフト社か買い上げの電気店で聞いて下さいとのことでした。
元に戻す方法を教えてください。

困っています。よろしくお願いします。