津野町ファンクラブ

津野町の一層の活性化を通して、“高知を元気にする”ブログです。

四万十川源流点への道

2011-12-05 | 津野町内の見所・ウオッチィング

津野町の四万十川源流点へ向かった。

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 国道33号線の名野川の先の信号を左折して橋を渡り国道439号線を走る。
 上図の矢筈トンネルの手前の東口から左折して県道378号線ー狭い山道ーに入る。「不入山林道口」の手前で道が分岐(左は広い道、右は狭い道)するが、右を走る。
 「不入山林道口」を右に見ながら下っていくと、やがて「四万十川源流点林道口」の分岐となる。ここに案内標識がある。                             分岐から2.5㌔走ると「四万十川源流之碑」のあるヘアーピンカーブの手前に着く。ここが源流点への登山口だ。
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カメラのレンズに雨滴がついていたので、少々見づらいが、右側の石段を上がって真っ直ぐに歩く。
 中央の石垣の向こうに自然石の碑が見える。
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 石段を上がった正面の風景。
 この左側に碑がある。
 右奥の箱様のものが案内標識である。
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 この標識に「源流点約25分」と表示がある。
 
 道は全体的に岩石の多い道なので足下には気をつけて!
 道は四万十川渓流を右に見て上がる。途中、渓流を右に渡ってさらに上り、また渓流を左に渡って、岩場の急坂を上ると「あと5分」の標識がある。
 
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 目的地の「源流点」に近づいた。
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 「源流点」である。中央にその標柱が立つ。
 登山口からゆっくり歩いて20分であった。
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 「渡川(四万十川)の源流点」「シ・マムタ(四万十)の流れでる地点」とあった。
 
 この東方向に不入山がある。
 県道378号線を南に走ると、国道197号線の布施ヶ坂に出る。右は檮原方面へ、左は須崎方面へ向かう。
 
 国道439号線経由と国道197号線経由では「源流点之碑」までともに時間は2時間以内。
 県道378号線および源流点林道は舗装されている。
HN:バンダナ

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

2011-01-21 | 津野町内の見所・ウオッチィング

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

 

yosimura-t4.jpg天保8年、芳生野村庄屋吉村太平の長男として生れた。
 文久元年に武市瑞山とともに「土佐勤皇党」を組織して
   勤皇に奔走するようになりました。
 文久二年には防長を歴訪、九州に渡り平野國臣にあい、
   「島津久光の入京を機に挙兵する。」ことを約束して
   帰藩、武市瑞山を説得すれど断られ、坂本龍馬に脱藩
   をすすめつつ、自らは宮地宜蔵と二人で脱藩、平野の
   義挙に加わろうとしたが、寺田屋の変にあい、舟牢で
   高知に送り返され十二月まで獄窓で過ごしました。
 文久3年、明治天皇の叔父中山忠光卿にすすめて
   大和義挙を計画、忠光卿を隊長に自らは総裁となって、
   いわゆる「天誅組」を組織し、天皇の大和行幸に
   先駆けて、大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし、
   奈良県の江戸幕府直轄五条代官を襲撃しました。
 その後朝議が一変し、大和行幸がとりやめになったが、
   初志を貫徹しようと、高取城を焼討をはかりましたが
   負傷し惨敗に終わりました。
 辞世の句『吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の
   血煙とみよ』を残し、二十七歳の若さで散華しました。
 この義挙は、数多い維新の動きの中で、千余の兵力を
   持って堂々たる倒幕第一陣であり、この烽火により
   全国に倒幕の運動はくり広げられることになり大政奉還
   を見、四民平等の維新は成就された。

 

虎太郎の顔は弟の写真と姉の話から、原田画伯が書いた
   肖像画をもとに川島三郎製作者のイメージで造られた。

       除 幕: 昭和43年12月22日
       題 字: 吉村虎太郎先生像
       規 模: 本体4㍍・台座5㍍・総高9㍍
                   事業費: 6,000万円

 

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

吉村 虎太郎 に関する記事

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧 

 

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羽迫さんの世界


吉村虎太郎の銅像

2010-12-16 | 津野町内の見所・ウオッチィング

「土佐の銅像」第9回目は、吉村虎太郎です。

  

101215吉村虎太郎.JPG 

  

*吉村虎太郎(18371863

 

*銅像所在地:高知県高岡郡東津野村新田 忠霊園

*銅像製作:川島三郎 昭和431222日建立

 

土佐国高岡郡芋生野の庄屋の長男として生まれる。

11歳:父の跡を継ぎ、庄屋となる。

22歳:梼原村大庄屋となり、治績をあげる。

24歳:武市半平太の土佐勤王党に加盟する。

25歳:土佐を脱藩する。

26歳:大和挙兵に参加すべく、天誅組を結成する。

享年26歳。

  

津野村.JPG 

  

「吉野山 風に乱るるもみじ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ」

辞世の句には、虎太郎がもつ強い決意と行動力が、よく表現されている気がします。

銅像付近には、もみじが植えてあります。

 

吉村虎太郎もみじ.JPG 

  

2005年に訪ねたときは初秋で少しの紅葉でしたが、感慨深かったのを覚えています。

真っ赤な紅葉のときに訪ねたら...。辛い気持ちになりそうです。

  

  

土佐の銅像 写真集と 津江美和さんの写真に関するページ

 

吉村 虎太郎 に関する記事

津野町ファンクラブ

 


紅葉はがき

2010-11-17 | 津野町内の見所・ウオッチィング
 

紅葉はがき.JPG

「土佐の銅像」をご購入くださった方から

 

 

津野町・堂海公園にある義堂と絶海の銅像を訪ねたそうです。

あの山が紅葉...。本当に美しかったことでしょう。

  

 

土佐の銅像 写真集と 津江美和さんの写真に関するページ 

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高知県高幡ファンクラブ

、見事な銅像写真をいただきました。

四万十川流域のひなまつり2010・・・その8 津野町~高野地域

2010-07-06 | 津野町内の見所・ウオッチィング
「四万十川の原風景を守る会」の代表・羽迫(ハサコ)博巳さんが、四万十川流域のひなまつりの2009年と2010年の変化などを紹介しながら、教訓的な総括をしています。

県下各地で盛んに行われているひなまつりが、年を重ねるごとにややもするとマンネリ化の傾向が出ている中で、地域の生活に根ざした取り組みが、その地域に新しい風を呼んで、流域を代表する観光資源となりつつある事を報告しています。

教訓的な総括はこちらに!

「四万十街道ひなまつり2010」の作品展が終わって

四万十川流域のひなまつり2010・・・その1 作品展が終わって


これからシリーズで、四万十川流域のひなまつり2010

ひなまつり会場風景(2010年2月20日~3月22日)の一端を紹介していきますので、楽しみながら共に考えていきませんか。



津野町~高野地域~「明治の家」編





津野町~高野地域~高野の廻り舞台



四万十川流域のひなまつり2010・・・その8 津野町~高野地域

昨年の展示は、こちら

羽迫博己さんの世界・・・お雛様の企画展示の中から 津野町~永野・高野の茶堂~




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ひな人形・・・四万十川流域

ひな人形・・・うんちく・言われ

四万十川ファンクラブ

津野氏の塔婆

2010-01-10 | 津野町内の見所・ウオッチィング
津野町姫野々の鳴川地区(新荘川をはさんで、老人ホームの南側)には、津野氏18代供養の碑があります。津野氏は、元親の三男親忠が最後の領主として入ったこともあり、深いつながりがありますね。

 歴代領主の墓は、江戸時代半ばには荒れ果ててしまったようで、津野氏の追慕のため、民衆の協力のもと明和年間に建立されたそうです。

 18代領主の通称、没年などが記されているこの碑は、長宗我部ともつながりの深かった津野氏がいかに領民に慕われていたかを物語っているというふうに感じずにはいられません。

 老人ホーム前の橋を渡ってすぐの右手の山にあります。




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津野町内の見所・ウオッチング

長宗我部ファンクラブ

津野町内の見所・ウオッチング

2010-01-02 | 津野町内の見所・ウオッチィング
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宮谷地区の堂の口あけ祭り(魔除けの大わらじ) に関する記事

2010-01-02 | 津野町内の見所・ウオッチィング
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津野町観光情報:堂の口あけ祭り(魔除けの大わらじ)

津野町宮谷地区にある、明王寺薬師堂の開帳日に行う「堂の口あけ祭り」です。
この祭りでは、地元地区民が藁を持ちより、「魔除けの大わらじ」や「大しめ縄」を作り奉納します。この大わらじ(地区民は昔から金剛バッコと言った)やしめ縄を宮谷地区の入り口につるし、地区民の無病息災を祈願するのです。

さて、この金剛バッコ(大わらじ)、半分までしか作りません。これは・・・
「この地区には、この金剛バッコを履く金剛力の大男がいるぞ!やっと半分ほど出来たがまだどれだけ大きくなるかわからんぞ。悪病神が入ってきたら踏み潰すぞ。」
という悪病神を追い払おうとする先人の奇抜な発想から始まり、今日まで続いているのです。

金剛バッコの下に吊るされている藁(わら)すぼには、お米や煮しめが入っており、これを皆で分けて食べると、無病息災に過ごせると言い伝えられています。また、贈り物に可愛いミニ開運厄除わらじも用意されています。もちろん、半分までのわらじになっています。



出典:堂の口あけ祭り (大わらじ)
大わらじの里 宮谷
    「 宮谷のホームページ 」 はこちら




堂の口あけ祭り(魔除けの大わらじ)


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