知名孝ブログ

日々の経験・思ったこと・考えたこと。精神保健福祉、発達障害、(児童思春期の)メンタルヘルスや自転車、ギターのこと。

学校現場と精神保健福祉現場の実践文化のちがい

2013-08-08 18:44:57 | 日記
常々私は学校の先生、特に担任を持っておられる先生にとって、自分の担任学級は一種の「作品」に相当すると思うことがある。あるいは横一列に並んだ畑のようなもので、ひとつひとつの作物が生徒であり、畑が担任学級でありという感じがする。私はそういう感覚を持っていらっしゃる先生方に、敬意を惜しまない。それは教職者にとってのアイデンティティーであるし、誇りであるし、いい仕事のための原動力だろうと思う。特に校長先生方にとっては、学校全体がご自身の「作品」や「畑」になるわけで、それはそれはたいそうなご苦労であろうと思う。しかし「作品」や横一列に並んだ「畑」は、同僚や父兄その他の人の目にさらされていて、自らの「作品」や「畑」をめぐって自意識過剰になることもあるかと思う。特に自分の作品や畑が思い通りに仕上がらない時、なんてことを考えると、教師の仕事の辛さを垣間見る感じがする。

もし担任学級がすごく大変だったら?「LDやらAD/HDやら」「とにかくわからないけど、難しい子ども達」がいて、「クラスがまとまっていなくて、どうにもならない状態」。そのうちトラブルが発生。父兄が不平不満を言い始める。学年主任の先生は「気をつけなさいって言っておいたのに」、教頭先生は「もう少し自信を持ちなさい(という言葉で自信を失う)」。あなたならどうする?なんていわれても、「困る」こと以外に何が思いつきましょう。教師としての作品である学級が「キズモノ」になるのわけで、教師としての誇りとアイデンティティーが、「キズモノ」としてズタズタにされるのではないだろうか。

教職員のメンタルヘルス相談の中には、こういった「学級運営のいきづまり」をめぐって悩んでいる先生方がいらっしゃる。そういう先生方というのは、優秀かつ生真面目で、いろんな意味で、「いい先生」を連想させる方たちが多い。ひとつ前の記事で述べたような、「がんばる」実践文化を自らにも課しているような方たちだったりする。学級がうまくいかなくてたいへんになってくると、更に頑張ることで自らを叱咤激励し問題に向かっていく。「辛いなら少し休んでは?」という言葉は、「辛いから逃げようか」というメッセージに受け取られてしまい、「生徒や仕事をおいて逃げることはできない」ということになってしまう。

ここでのキーワードは「孤独な責任」と「他者のまなざし」である。40数人の子ども達を「自分の作品」として作り上げること、そしてそれに対する周りの評価がされやすいことは、教職員のやりがいにつながるところもあろうかと思う。同時に「担任」という孤独な責任のなかで、同僚や管理者そして父兄のまなざしという別のプレッシャーが加わってくる。現在の学校制度で担任を持つということは、個人の程度の差はあれそんなプレッシャーと向き合うことだろう。これも現在の学校現場の「実践文化」ではなかろうか。

医療(特に精神科医療)では、チームという方法をとる。学校と同じように集団の中で行われる実践であるが、医療では「皆で見る」ことになる。医者、看護士を中心に、ソーシャルワーカー、心理士、作業療法士など、異なった職種の者たちがそれぞれの切り口で患者さんに関わっていく。医師はそれぞれの患者さんに対して、最終的な責任を持った存在になるが、学校現場の担任の先生ほどに孤独な形の責任は一般には存在しない。

10年程前アメリカ、サンフランシスコ市にあるオークス子どもセンター(Oaks Children’s Center)という特殊学校で、カウンセラーとしてパート勤務したことがある。小学校年齢のアスペルガー障害やADHD、そして「Severe Emotional Disorder (SED)」といわれる子どもたちのための特殊学校である。この子たちの発達障害自体はそれ程重度ではないにもかかわらず、集団生活や日常生活での行動化が著しい。かんしゃくを起こしたり、行動のコントロールがきかなくなったり、みんなの課題や授業をかき乱すことを日常的にくりかえす。各クラスには厚さ十センチ以上あるドアのついた「タイムアウト・ルーム」があり、コントロールのきかなくなった子どもを一時的にそこに入れる。わめいてドアを蹴ったり悪態をついたりしている間、職員がついて子どもに付き合う。スタッフは特殊教育の教員とその補助(教職スタッフ)に事務職、精神科医、ソーシャルワーカー、心理士、言語療法士、作業療法士。異なった職種が、それぞれの役割で実践している。教職スタッフと事務職を除いては、すべて週に2日~4日のパート勤務である。

精神科病棟にしてもオークス子どもセンターにしても、日本の学校と同じように人を預かりサービスを施すが、責任をなるべく集中しないようにしている(学校ほどは)。病棟には看護士長や担当医、オークスでは各クラス担任がいる。これらの担当者はそれなりの責任を持つことになるが、しかしそれは限られたものである。逆に考えると一個人のできることにも限界があり、そのぶん「自分の作品」意識は少なくなる。どちらかというと「みんなでつくったみんなの作品」、という感覚の方がより適切だろう。しかも病棟やオークスセンターのように問題行動の多いところでは、「いい作品」と思われるような集団をつくろうとすると、翻弄されてしまって疲れ果てることのほうが多い。そこでは「いい作品」というよりも、どんな「悪い作品」(ってのは言い過ぎだよね、「ほどほどの作品?}をつくるかが勝負になる。そういうところでは、問題がなく、協調性に富み、まとまりのある理想の集団をつくるところではなく、個人かかえるさまざまな問題が訪れる(展開される)場所になる。個人の抱える問題が、みんなの中でくりひろげられるわけで、そうなると、問題を押さえ込むよりも問題対応型の実践文化になる。

「問題がくりひろげられる」ということは、職員にとっては大変な苦労である。ましてやその責任を、限られた担任や担当者に集中してしまう雰囲気は、責任回帰のやり取りを起こさせてしまい、問題が訪れる場にはふさわしくない。責任回帰は、責任回避と問題回避をつくりだす。「問題の中に表現されていることは何なの?」というやりとりよりも、責任を問われないために問題を起こさせない形がつくられる。精神科の現場やオークス子どもセンターのように、問題に対応するなかで何かを試みる問題対応型の実践をするところでは、問題を抑え込むことが、対象となっている患者さんや子どもたち自身を否定してしまうことになりかねない。

学校現場は教育現場であるという点で、これらの機関とは異なる。問題がくりひろげられることを前提に、教育実践を行っていてはどうにもならない。「親の目もあるし、世間や地域の目もあるし、何か事故があったら責任取れない」というのが本音だろう。しかし学校現場で遭遇する子ども達の問題が、質量ともに広がりを見せている。問題につぶされつつある子どもや親、そして現場の教師がいる。日頃の児童臨床を通じて、「問題」に対して無防備な学校現場の在りようをみていると、教職員、子ども達、そして親・家族の辛さを感じてしまう。

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