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としししのブログー

仕事関連の情報も載せてみたり。

オレにとっての父親

2009-07-07 00:11:27 | オトン
オレにとって父親とは、いろいろ考えさせられる、頭痛の種のような存在だった。

とにかくお金の問題では周りを悩ませ続けた。
それ自体はとても迷惑な事だった。
けど、得るものもあった。
どうすれば良いか、最後まで他人任せにする事無く考え抜く力を得る機会になったと思う。


小さい頃から、父親はほんの些細な事で母をどなりつけていた。
例えば、晩ごはんに自分が好きな献立が無かったら一方的にどなりつけていた。
そんな父親がキライだった。
けど、小学生の時、オレは靴下がタンスに無くて母にキレた。原因は自分がそこら中に脱ぎ散らかしてるからだ。
自分が父親と同じようになったみたいでとても凹んだ。
その時辺りから、父親を反面教師として、同じようにならないように頑張った。

いつも穏やかで、
誰に対しても公平で、
誠実な人になろうとした。この時、こう思えた事は良かったと思っている。


中学になって登校拒否になった。
休むと父親が派手に怒る。
母にも怒鳴る。
とても嫌だった。
けど、今思えば、父親からしてみれば何もできない事が歯がゆかったのだろう。

高校になって、登校拒否のせいで一年で留年が決まってしまった。
父親に派手に怒られると思ったが、予想に反して大泣きされた。

ショックを受けた。

父親が自分の事を心配してくれていた事を、この時に心から理解した。
そして、頑張って勉強しようと心に誓った。

一年生を二回やったのと、周りがそこまで本気で勉強してなかったのも手伝って、高校3年間はクラストップの結果を出せた。

父親に対しての申し訳なさが頑張りの後押しをしていたのは間違いないと考えている。

社会人になって自分の部下ができた頃、人間関係をうまく発展させれずに悩んでいた。
ふと、父親の周りにはいつも誰かが居て、人脈が大事だとか、劉備玄徳のようになれとか言ってたのを思い出した。

その時、すでに父親は離婚していたが、離婚後数年ぶりに、父親に会いに行った。
そして、人間関係を上手く作る方法と、父親が良く焼いてくれていたお好み焼きの作り方を教えてもらった。

お好み焼きの作り方は感覚的過ぎてわからなかったし、父親の周りに人が集まる理由も話からはわからなかったけど、その時をきっかけにどっちも研究した。

お好み焼きは満足いくものを作れるようになった。

人間関係についてはいまだに答えは出てないけど、
隙を見せない人より、隙がある人のほうが愛されてる事がなんとなくわかった。
それと、気遣いを凄くしていた。
誰かのために何かをする。
これを自然にやっていた。
自分自身の事をきっちりやろうとすると、どうしても他人の事には関わらなくなりがちだった。

しかし、自分自身の事しかしない奴に他人が興味を持つはずがない。

自ら進んで首を突っ込んで行く父親と、自分自身の領域だけを必死に守るオレ。そりゃ周りからみたら差は歴然だろう。

人脈に関して、父親が他界した時点では到底かなわないほど歴然とした差があった。


オレは父親を恨んでいる。
もっとまともな父親が良かった。

それと、がっかりしている。
死ぬ前に、せめて自分が迷惑をかけた人たちに謝って欲しかった。
最後まで自分自身の責任は果たさなかった点はとてもがっかりした。
これのためにオレは父親の葬式参列を拒否した。


けど、同時に感謝している。
父親という唯一無二の存在のが、あまりにもいい加減だったお陰で、より真剣に人生に取り組めたと思ってる。


あと、人としては憎めない人だった。
客観的にネタとしてみたら、相当楽しい人生やったと思う。
父親も自分自身の事なのに妙に客観的で、二人で良く笑ってた。


父親に対して、後悔もいろいろある。

単純に、もっと親孝行してやりたかった気持ちもある。

どっかで更正してやろうとも思ってた。

お酒も一緒に飲みに行けなかった。

借金なんか全部ぶっ飛ばす位稼いで楽させてやりたかった。







ごめんな、オトン、力及ばずやったわ。

それと、ありがとう。
オトンがおったから張り合いのある人生やったで。

そっちに行ったら酒でも飲みながらゆっくり話しよな。

父が他界しました。

2009-06-25 23:41:43 | オトン
2009年6月25日、午前1時

私の父が他界しました。


やっとくたばったか、
ってずっと言ってやろうと思ってました。

けど、余命1ヶ月の宣言を受けてから、
ちょっと自分の心境が変わっていました。

なんとかしてやりたい。

けど、もう何にもできない。

しかし、なんとかしてやりたいと考えた自分にも疑問を抱きました。

自分を、母を、妹達を、こんなに辛い目にあわせた張本人に、
責任も果たさず、謝罪もしなかった父に、

もう命が尽きるからって理由だけで、なんとかしてやるのか?、と。

答えは、ノー。何もするべきでは無い。だって、頑張った回りの人達の方にこそその力を向けるべきだから。

なのに、父が入院した病院を聞くと足が向いていました。

シャイな性格で、蒼大の写真を欲しいなんて言った事なかった父が、
最近の蒼大の写真を欲しいって素直に言われたとき、すぐに持って行きました。
もう、最後かもしれないって思い、蒼大を会わせに行きました。

もう、9年も前に想定していた状況。
しかし、全然、割りきれてない、衝動的に行動している自分。

人の死は卑怯なほど大きく心を揺るがしますよね。
わかってたのに、揺るがされちゃいました(^_^;)

けど、葬式や通夜には行きません。
死ぬからって、父の罪を帳消しにしてやるほど、周りの人が負った痛みは軽く無いんですから。



でもな、オトン、最後に謝りたい事が一つあるねん。


最後の父の日、なんもしてやれんでごめんな。

再起への希望

2006-08-18 00:15:27 | オトン
再会後、月一回のペースで会っていた。
そのうち、父が名刺をくれた。

いま雇ってもらっているところで、
「所長」という肩書きをもらったらしい。
給料もそれなりにもらっていると言う事だった。

父が住んでいた家は、
会社の事務所の隣にあったのだが、
そこに新たにマンションを建てるとの事で、
引越しの必要がでた。

で、父から依頼がきた。
アパートを借りるのに保証人になってほしい、と。
父の兄弟には断れたそうだ。

さすがにすぐに返事は出来なかった。
しかし、それまでの父の頑張り、
仕事で巧くやってる話から考えて、
嫁とも相談し、ここは協力すべきと判断した。

それが2005年12月の事。
このまま上手くいくと、
なんの疑いももっていなかった。


再会

2006-07-04 00:14:00 | オトン
父を捨てる事件の後、結婚した。
父に対しての思いは複雑なものがあった。
お金の面ではなんとも出来なかったが、
精神的な面でなんとか出来ないものか、と考えていた。

ある時、よく世話になっていた従兄弟の兄ちゃんから連絡があった。
父の体調が良くないと言う。
父とは音信不通だった。
従兄弟の兄ちゃんは、音信不通の父の状態を知るには、
俺から情報を得るしかないだろう?、と言った。

そして父を捨てた私の事を責めた。
母に離婚を勧めた私を責めた。
父は悪いところばかりではないと言った。
母にも悪いところがあると言った。

私が信心を頑張っていたらこんな事にはならなかったと。
そしてこの状況を打破するには信心しかないと従兄弟は俺に言った。

この兄ちゃんには人生で上から数えて5本の指に必ず入るほど世話になった。
できれば解り合う所まで話をしたかった。
けど全く納得がいかなかったし、わかってもらえる雰囲気ではなかった。

この後何度か連絡があったが、意図的に連絡を取らないようにした。
この兄ちゃんには悪いけれども、もっと先に守るべき人たちがいたから。

と、この従兄弟とのやりとりがあったのが結婚してすぐの頃だった。
この時、「父と音信不通」というのが付け入られる隙を与えたと痛感した。

父を完全に切り捨ててしまえば楽だったのかもしれない。
けど、それは違うと考えた。
じゃぁ自分で父と連絡を取ればよい、そういう結論は自然に出てきた。

とりあえず理由を探した。

ちょっと前に自分で作ったお好み焼き。これが非常に不味かった。
父は料理はこだわり派だったので、お好み焼きも非常に上手だった。

それと、父は創価学会の中で大きな人脈を作っていた。
当時、営業や部下との人間とのやりとりで少し悩んでいた。

この2つを父に教えてもらうと思った。

会いに行く当日、親戚が待ち伏せしている可能性を非常に恐れた。
またお金の話になれば、何も生まず撤収するしかない。
なんと言っても自分もつらい。

到着すると、玄関の前で父が立って待っていた。
・・・会いたかったんだな、そう思った。
電話で既に伝えてあったためか、
既にお好み焼きの生地を作っていて渡してくれた。
人間関係の話も相談に乗ってくれた。

体調の事を聞いたら、悪いとは言っていたが、
見た目ではそこまで悪そうではなかった。
白髪はだいぶ増えていた。
ちょっと元気がなさそうに見えた。

この時、父は私に会えると嬉しいのだと思った。
そして、妹たちにも会いたいのだと思った。

妹2人に話をして、父の様子と会いたがっている事を伝えた。
2人とも最初は戸惑っていたが、一度会うと不安はなくなった。

このやりとりから私と妹2人は父と話をするようになった。
数ヶ月に1回くらい皆で会うようになっていた。

中途半端かもしれないけど、足りないかもしれないけど、
俺なりの親孝行のつもりだった。






父を捨てた人

2006-07-03 00:13:04 | オトン
ちょっと重たい話ですが、
私と父の関係を書いていこうと思います。

下の記事は2000年に書いた記事です。
とりあえず、ここから行こうかと。

=========■父親を捨てた人(2000/08/15)=========

俺は父親を捨てた。正確には母親に離婚するように薦め、説得した。根拠は簡単。父が借金をしたから。

父が借金をしたのがこれが初めてなら許せたかもしれない。けど、これで何度目かわからない。毎回、反省し頑張ってるな、と思ってたらまた繰り返す。これじゃこの先もまたやりそうだもの。

俺も始めは父が更正すると信じていた。借金を二度としない。それを試す為に父と約束した。大好きなお酒と煙草をマッタク辞める事。借金とは直接関係ないけど、俺とか家族との約束を果たせるかどうか。だったけど、3日で破った。その時「もうしない」と言ったがまた破った。それが何回か続いた。信じるところが無くなった。

約束したとき「この約束が守れなかったら、お父さんとバイバイやから。」と言っていた。何度と無く約束を破る父を許しつづける気にならなかった。「家族と一緒に居る事より、酒と煙草を選んだ」と言うのが許せない。本人にはそんな自覚はないだろうけど。多分「家族は大事。酒は好き煙草も好き」以上、って思考だったんだろうな。けど俺は約束ってそう言うもんじゃ無いと思ったから。

母に離婚を勧めたのは父を怨んでいたからではない。また借金をするのが恐かったからだ。また借金をしたら、その返済をしなければならない。返済は母や俺や妹達がしなければならない。その理不尽さに耐えられない。父の道楽で、俺や妹達の未来を食いつぶされるかもしれないのはゴメンだから。

母は当初離婚する気はなかった。母は信仰をしていて、「この逆境を乗り越えてこその信仰」と思っていた。けど、さすがに疲れていた。母はとてもとても素直でマジメで明るい人だ。ただ、手の抜き加減を知らないのが恐いけど。で、俺や妹に対しても真っ直ぐな姿勢で教育してくれたと思う。夫婦としても父に対して真っ直ぐに接していたと思う。けど、父はそれに応えなかった。母がまっすぐな事を利用した。信じやすい性格を利用して騙しつづけた。そんな母を信仰が支えていた。「いつかきっと幸せになれる」と。

俺も母の信仰に助けられたと思う。実際、22歳になるまで、マッタク父の悪行を知らなかった。母がそんな状態にありながら、いつも明るくしていた。が、今回ばかりは話がおかしい。父が悪行を重ねて、何故家族が迷惑被らなきゃならんのか?その一点のみで母を説得した。そんな話をしていた2ヶ月間位、いつも元気だった母は、なんとなく弱っているように見えた。

俺は父がキライか?マッタクキライじゃない。ムシロ好きな位。俺が高校1年の時留年が決まった。父はそれを聞いた時、泣いた。いつも怒りまくっていた父が泣いたのを見て俺は勉強をガンバロウと思った。そして俺の願いを、「学校を続けたい」という意志を、父は聞き入れてくれた。今ここに、この俺がいるのは、紛れもなく父と母のおかげだ。

父は悪逆非道ではない。人の世話が大好きで、っつーか、おせっかい焼くのが好き。頼んでも無いのに人の為にいろいろやる。子供の事はとても好き。誕生日プレゼントとか貰うと、友達に嬉しそうに語り歩いていたそうだ。母の事はあんまし大事にしてるように見えなかったけど、そんでも病気をした時とか病院に連れていってあげたりとか、休みの日に買い物したりとか、食事を作ってくれたりとか。そういう点で良い父だ。

俺は父を捨てた人間だ。俺は親の面倒を見るより自分の未来を選択した。父が病気とかだったらもっと考える余地があったかもしれない。けど、バクチや道楽でできた借金の面倒を見る事で親孝行している、なんて耐えられないと思った。俺は一生「父を捨てた」という事実を背負って生きるんだ、と思った時、悲しかった。受け止めて行こうと思っているけど、今の自分には余りにも大きすぎて、受け止めきれない。その事を思う度に胸が重くなる。

自分で自分が許せないのだな。それを許してしまう自分も許せないのだ、少なくとも今は。困ったな、こりゃ・・・