キンモクセイ
数日前のある朝、自転車で走り出すと、あちこちでキンモクセイの匂いが漂っている。
どうやら一斉にキンモクセイの花が開花したようだ。この匂いをかぐと秋の深まりを感じてしまう。
しばらくは匂いが続いているが、雨でも降ると一斉に匂いが消えてしまうようで、まるで春の桜のように、自然のうつろいを味わいながらも、人生の儚さを感じてしまう。
古い写真
先日、非常勤講師をしている大学の研究室に出かけたときの話だ。
医局でまったりとコーヒーを飲んでいると、秘書さんが、写真の束を持ってきた。
「古いものを整理していたら、こんな写真が出てきたんですけど、知らない人ばっかり写っているんです。どうすればいいですか?」と聞いてきた。
どれどれ、と写真をながめてみると、20年くらい前に教室が主催した学会でのスナップ写真である。
まず、亡くなられた先生の懐かしい顔が写っているのに気がつく。秘書の子は、勤務しはじめてから3年くらいなので、知らない人ばかりなのは、当たり前だ。
さらに、詳しく見ていくと、自分や部下の女医さん、検査部の技師さんなどの若き日の顔が見えてくる。
秘書さんに、「これは、◯◯さん、これは◯◯先生」と教えてあげて、やおら、自分や部下の昔の姿を見せると、「ヱーー!全然分からなかった」と叫んでいた。
40歳くらいの自分は、今と違って若々しくてイキイキしている。
キョロキョロしている自分
自分の様子を客観的に見てみると、まともな研究者という雰囲気で写っている。だが、なぜかチラッとカメラの方を横目で見ている写真が何枚かあった。
冷静に考えてみると、写真を撮られている、その瞬間を何となく覚えていた。
カメラを持っていた人は、ちょっと離れて、自分と誰かが話している所を撮ろうとしていた。だけど、すぐに自分が気がついて、チラッとみてしまっているのだ。
一緒にいる人はカメラの存在に気がつかないまま横顔を撮られているが、自分は横目でカメラを意識している。
その頃の自分は、「キョロキョロ」回りを気にして生きていた。そんな自分の心をカメラが写しとっていたようだ。
いったい、なぜ、そうだったのだろうか。しばらく考えて出した結論について説明していく。
最近、読んだ雑誌から、それに関した話題を紹介する。
仕事にやる気が出ない、という人生相談
悩み:「どれだけ働いても、会社や上司から評価されません。やる気もでません・・・」
解答:「会社や上司に認めてもらうために仕事をしてしているのですか?誰かの期待を満たすという依存した生き方をしたいのですか?
解説:「承認欲求」(相手に認めてもらいたいという気持ち」は誰しもあるが、「認めてもらいたい」と思い、相手を気にして行動するようになると、相手に依存した生き方になる。
これは「他者の人生」をあゆんでいるのと同じで、自分の生き方を自由に生きているとは言えない。
まずは「認めてもらいたい」という気持ちを捨てよう。
その上で、「他人に認められようが、認められまいが関係ない。自分が何かに貢献していると思えばいい」という考え方に変える。
すると、承認欲求は自然となくなる。
引用元: 日経アソシエ 2014年10月号 55頁
あの頃の自分を振り返ってみる。40歳になり、まったく未知の新しい世界に飛び込んだ時期である。きっと、回りをキョロキョロ見まわしながら自分の居場所を探していたのだろう。
きっと、この承認欲求が形になって現れていたのだ。それについて調べてみた。
承認欲求(Wikipediaより引用)
承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、他人から認められたいとする感情の総称である。
概念と分類
人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。
承認欲求は、主に子供や何らかのハンデキャップを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。
その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない。
以上の理由から、承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対人関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。
引用終わり
解答は間違い
前述のQ and Aでは他者に認めてもらいたいという気持ちを捨てよう、と書いてある。
しかし、これはそんなに簡単にスッパリと捨てられる欲求ではないと思う。
実際、自分の回りでも、年よりが「あの人は自分をバカにして・・・」とか「あの人は絶対に自分を認めてくれない・・・」などと言う人はいくらでもいる。
一方で、身近な人をホメて何も反応がなかった人を見たことが無い。
承認欲求がない人は自閉症の人くらいだそうなので、承認欲求を克服して何も感じない人なんてそんなにいるはずがないと思っている。
だから、解答にあるように、「まずは認めてもらいたいという気持ちを捨てて、・・・・」、というくだりは全く現実的ではなく間違っているとしか思えない。
この捨て去るという考え方は、承認欲求の存在自体を否定しようとしているわけで、生理的ではないのだろう。
どうすればいいのか?
誰に認められるか、という部分を変えてみてはどうだろう。
聖書には「誰にも相手にされなくても、神はいつもあなたの事を認めてくださっている」というような言葉は簡単に見つかる。
また、神が信じられないなら、亡くなった人を神の代わりに考える場合も結構多いと思う。
身近な人で既に亡くなった人、例えば、いつも可愛がってくれていたおばあちゃん、とか、自分が幼い頃に亡くなった母親がいつも自分を見守ってくれている、と思って・・・・・というのは有名人が半生を振り返ったときによく出てくるフレーズである。
結局、上司とか親など生身の生きている人間が対象だとこちらの思いが裏切られてしまう場合があり、想像力が働かないのが問題だ。
承認欲求は変化していく
自分の場合、この20年で承認欲求自体が大きく変貌してしまった。
20年前は、それこそ、身分や待遇、他人の自分に対する態度など、ありとあらゆるものが対象だったように思う。
あれから、大学での身分が上になり責任ある立場になった事が幸いしたのかもしれないが、対象がどんどん小さく狭くなってきて、そのうち普段は何も感じなくなってしまっていた。
だから承認欲求はどんどん変化していくのだ。
ところが、忘れ去っていたようであっても自分の場合そうではなかった。
今の勤務先に来てから、何も責任ある仕事をしてない事に対してすごく負い目を感じていたのも、結局、それも自分の心の底に隠れていた承認欲求の一つであった事に気がついた。
従って、このブログを読んでいる40歳前後の方に対して一言書いておきます。
自分の経験から言えることは、年を重ねるに連れて、どんどん失うものが増えていくけど、逆にどんどん生きるのが楽になってくる。
ただし、心の中にいつも何かわだかまりを持ったままで年を重ねていくと、我々の年代になったとき、ある日、突然、病気になったりするリスクが増えていくようだ。
そのような場合、心の底に隠れている承認欲求を見出して、それに対する考え方を工夫していく必要があるのだと思う。