FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

空海 天空の宗教都市 ~ 高野山に上る

2015-05-21 01:39:01 | 仏像・仏教、寺・神社

●20数年前の高野山

20数年前、高野山に来た。12月の冷たい日だった。

天空の宗教都市 ――。

その響きとイメージに惹かれていた。しかし、それだけで来たわけではない。宗教革命家、真言宗開祖、思想家、哲学者、文学者であり詩人、書家、そして土木建築家にして社会事業家、さらには超能力者である空海に惹かれて来たのだ。空海は人というより、「仏」に近い超人である。確かに真言宗信徒にしてみれば、文字どおり「空海さま、弘法さま、大師さま、大日さま、遍照金剛さま」だから、人を超越した「仏さま」なのである。 

空海は日本史上、いや世界でも万能の天才だと思う(と、わざわざ僕なんかが言わなくても仏教思想界ではそういうことになっている)。空海の著書はいくらか読んだけれど、文学書、思想書として読むには、僕にはちょうど良い(本当は宗教書なんだけど)。わかりにくい翻訳で西洋哲学を読んできたつもりの僕には、空海や道元などの方が、よほどためになると思った。その空海という大天才に憧れ、密教世界をこの目で確かめておきたかった。(ちなみに僕は、真言密教の信徒ではない。) 

高野山は今年、開創1200年。20年も前、僕は寒い時季に行ったので、観光客はほとんどいなかった。世界遺産となった今なら、12月の終わりでも参詣と観光の客でいっぱいなのだろうか。ケーブルカーで高野山駅に降りた時、空から降る冷気が清冽に沁みてきて、頭も眼も膚もすっきり澄み通ってきたのを覚えている。あえて下界という、道路が突き当たった突端の先から見下ろせる下の町々が、この立つ場所を、空中都市と思わせる。見渡せる世界とこの自分との崖線が、世俗と信仰との境界に感じさせる。 

●立体曼荼羅の塔

冷えた小雪が、雨とも紛うかのように斜めに細く切って降り、壇上伽藍のお札受付前に、恋人か夫婦か、ひと組の後ろ姿があった。その寄り添うひと組が、僕をちょっと心強くしてくれた。なにしろ、ほかに誰もいない。ひとりで朱色の根本大塔に入った。 

秘密曼荼羅、色褪せることのない真言密教の世界。僕は自分なりの立体曼荼羅を長いこと考えてきた。それは、如来や菩薩群の1つ1つが、巨大な水晶球体の中にとり込まれ、整然と、宇宙数理の下に空間に配置されるものである。まさに曼荼羅を眼の前に現出できると思い描いていた。原色に輝く千の、万の世界――。(のちに知ったが、その立体曼荼羅に近いイメージを、前田常作の作品に見ることができた。) 

ここは、しかし球体のイメージではなく、実体の円塔が重なる空間である。大日如来を中心に、四仏、そして十六菩薩たちがあたかも透明の水晶柱に入って宙に配置されているように見える。原色鮮やかな仏たちを描いた水晶柱は、天蓋を貫くように伸びている。しばし眩暈(めまい)のまま、ありもしない信仰心を味わって、僕はそこを出た。ひと組の男女は、もはやいなかった。 

●凍える宿坊

宿坊は寒かった。冬の山頂の厳しさを知らずに来て少し後悔した。広い部屋に1人、ストーブがあっても帳消しにできないほどの寒さだった。皮膚を刺し抜けて、筋肉や臓器の内部に冷気が浸み込んできた。若い僧が丁寧に運ぶ精進料理は、この上なく味わったが、とにかく山上の冬は寒い。 

「朝、××時から勤行がありますから、ご参加ください」

高校生らしき僧が、そう言った。 

その頃はインターネットなどあるはずがなく、本だけは持って行ったが、布団にくるまっていても体が震えて文字なんか読めない。そこで、さっさと寝ることにした。自分の体の熱が布団の中で保温されてあったまると思った。しかし一晩中、僕は布団の中でガタガタ震えていた。

 うとうとと朝方になったのか、ばたばた、せわしい足音が行き交った。「あ、勤行だな」と思ったが、僕は布団の上に正座して動けずにいた。修行僧たちの中に、あまっちろい旅気分の若者(つまり僕だ)が中途半端な座禅を組んでいる姿が思い浮かばれて、なんとなく気後れした。結局、勤行が終わるまでそうしていて、やがて朝食を昨日の若い修行僧が運んできた。

 「勤行には、行かれませんでしたか」

僕はてっきり、柔らかい叱責を受けるのかと思った。しかし寺の子息らしい若僧(わかそう)は、剃った可愛いらしい丸みのある頭を真正面に見せて、お辞儀して出て行った。宿坊は安く泊まれる寺ではあるが、勤行に出るのも1個の目的なのに、僕はちょっとした罪悪感を覚えて、そこそこ宿代を精算して出てきた。 

奥の院へ

奥の院へ行く途中、高野山大学の前を歩いて通った。宿坊の若い僧を思い出した。ここの学生だったのかもしれない。同じような丸い形をした頭が、少年たちの学生帽の下にあった。澄み切った空の下で、何人かの学生僧を見ているうち、画然たる宗教都市を感じた。 

奥の院へ行く道は、墓、墓、墓である。やれ大名の何某(なにがし)、やれ何々家ゆかりのという墓の道だ。それと、樹影。光を遮らせ、静謐で、心細くなっていく。燈籠堂の前に着くと、数知れぬ燈籠の連なった明かりだけが見え、中から護摩焚きの声がわーんわーんと、雑音交じりの楽音(がくね)の塊りに感じられた。それは、暗がりから沸き起こる生命の声にも聞こえる。とてつもない、大きなことが起こったあとの、生命の集まりのような音だ。 

どん、どん、どん、と胸や腹の底に、体の壁を押し破ってくる。自分の胸の鼓動と生命の音響が激しく重なり合ってくる。僕は御廟の方を見ながら、ぼんやりそれを聞いていた。 やがて自分に起こる、生命の揺れる音を予感して・・・。(のちに僕は超心理学を学ぶために、会社勤めしながら大学院に入り直した。)