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FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

思考を停止させる「近道判断」の心理的行動  「投資の行動ファイナンス」(4)運用ポートフォリオ

2023-04-02 12:47:28 | シニア&ライフプラン・資産設計
ヒューリスティクス



●ブランドや権威で思考停止?
ここでは、投資運用のポートフォリオについて考えてみます。例えば金融機関や運用会社等で提示されるポートフォリオは、どこまで個人の資産運用にマッチしているか。「あなた用」のモデルポートフォリオ(年齢・収入等、個人の一般的な条件によって定型的に構築されるパターン化されたポートフォリオ)は、いくらでもあるとも言えるし、そんなものはないとも言えます。そこで惑わされるのは、行動経済学で「ヒューリスティクス」(Heuristic)と言われるバイアスによるものです。

退職金を一括でもらった退職者は、「一流」ファンドマネジャー、「トップ」成績のアナリストやファンドマネジャー、「最高」のリターン商品、「最新」理論とAIテクノロジー等々、これらブランドや権威に眩まされて「あなた用」に提示された運用商品に身を委ねてしまいがちです。この心理的行動が、「ヒューリスティクス」です。

権威っぽいものなら深く考えず、あるいは思考を停止して納得し、浅い自己の経験則から短絡的に判断し任せてしまいがちです。それが最短最良の判断(近道)であるとする心理によって起こる行動です。金融機関等のものが最初からダメということではなく、金融機関等だからすべて安心という思考停止の回路のことを言っています。

●将来予測は確実ではない ?
ヒューリスティクスは「近道判断」とも言えるもので、権威や実績、経験値などから優良商品として代表されそうなもの(代表性)、高リターンが可能となりそうなもの(利用可能性)が選択判断の基準となってしまいます。そこでは判断は停止され、手間も時間も省け、一般投資家にとっては便利な手段となります。しかし、「あなたのため」に出されたポートフォリオは、権威とブランドと過去の実績のきらめきほどには将来の結果に反映しないものかもしれません。

ポートフォリオ自体に意味がないのではありません。運用における将来予測には確実な方法はなく、また個人にとってもあいまいな将来予測はそれほど重要ではないと知るべきです。

過去の平均を元にいくら精緻な設計通りにつくられたポートフォリオでも、それに迷わされることに意味はありません。それよりも個々のライフプランから個別のリスクを取り出して、個人の生き方や希望を反映した「自分なり」のポートフォリオを作った方が良いということがわかるでしょう。

意識に掛かる「心の錨」(いかり)にとらわれる心理的行動 「投資の行動ファイナンス」(3)賃金格差 

2023-02-23 11:01:18 | シニア&ライフプラン・資産設計
アンカリング(意識の錨掛け)



賃金格差

●大企業との賃金格差は3000~4000万円?
人は定年までにどれだけのお金を稼ぐのでしょうか。そこで統計資料に基づいて調べてみると、大企業と中企業との生涯賃金差はざっと3000万円超、大企業と小企業との差は約4200万円です(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」平成29年度資料をもとに作成)。これらの賃金差がどこまで実感できるかは人それぞれです。平均というのは、単に個別をならしたものだからです。

しかし実際には、人の金銭的価値観は統計的な指標にしばしば捉われがちです。上に挙げた大企業、中企業、小企業の「平均」賃金レベルが、意識のどこかで錨(いかり)のように引っ掛かってしまうからです。これは行動経済学でいう「アンカリング」(Anchoring)です。アンカリングというのは「錨を掛ける(係留する)」という意味で、意識の中でその錨を掛けた所で他人と比較してしまうわけです。

大企業・中小企業にかかわらず、会社の社員は、自分と他人との賃金差は個人の持つ「能力・技能差」によるものだという錯覚があります。じつは、「賃金差の50%は、個別の労働者の技能水準によるものではなく、働いている企業次第である」ということを、行動経済学者も述べています。勤労者が転職したときの賃金は、たとえ技能水準が同じ人でも転職先の企業によって異なってくるというのは転職経験者ならおわかりでしょう。

●「心の錨」を取り払うには
これが現実であって、大企業に入れなかった者は生涯どの時点においても企業規模による賃金差は挽回できないことになります。では、個別的なライフプランを考えるにあたって、「平均」という錨を取り払うにはどうしたらいいでしょうか。

1つは、平均的数字は単なる目安として割り切ったうえで、個人のライフプランの現実を正しく認識することです。収入の多い人もいれば少ない人もいる、支出も多い人と少ない人と多様です。そういった現実からスタートするのです。

もう1つは、「逆アンカリング」という考え方です。人の意識に引っ掛かる(係留される)心理は逆にも応用できます。老後設計においては、まず自分の老後に必要な金額をはじき出し、次にその金額を自分自身の意識に自分から錨を掛けることで、常にその目安に向かって行動するようになります。それが自然に心の錨となって、次第に無意識に定着します。


目の前の現金を衝動的に使いたくなる心理的行動  「投資の行動ファイナンス」(2)退職金

2023-02-11 13:18:13 | シニア&ライフプラン・資産設計


メンタルアカウンティング

●ギャンブルで儲けたお金は残らない?
人は、目の前に思いのほかの大金を一度に置かれると、平常心ではいられなくなります。現金でなくても、銀行通帳に「30,000,000」という入金額を見たら、一時的にせよ舞い上がってしまうでしょう。言うなれば、この大金は尋常ではない、どこからか来た「僥倖」の褒美に思えます。

このように、僥倖的に手に入った金銭を「特別な勘定」と意識して行動することを行動経済学では、「メンタルアカウンティング(心の会計)」(Mental Accounting)と呼びます。心の中で、それ用の勘定科目を設定して帳簿記入するわけです。

例えばギャンブルで一儲けしたお金は、毎月の給与とは別収入として心の帳簿に勘定書きされます。ギャンブルでお金を手にした人は、一夜で使い果たして1円も残らないこともありえます。なぜなら、普段手に入らない特別なお金だから使い切ってもいいのだと心情的に錯覚するからです。

高額の退職金を受け取った人は、何かに使わなければもったいない、まだお金を使いきれていない、という強迫観念に迫られるのです。退職金をどう使うか途方に暮れた挙句、振り込まれた銀行の窓口に出向いて勧められるままに全額投資に回してしまいがちです。大金を減らしたくない思いと、どう使っていいかわからない思いからです。

●退職金は「特別な勘定」ではない?
退職金(一時金にせよ年金払いにせよ)は、老後に計画的に支出すべきお金です。計画的な支出ができないのは、心の中にある「特別な勘定」に支配されるからです。もらった分の残高がなくなるまで使い込んでしまいたいという強迫観念を生むお金になっていくわけです。

退職金は、「僥倖的な」お金ではありません。それは勤労の一部の対価が後からまとめて支払われたにすぎません。ローン返済、リフォーム、退職旅行など、一時的な支出に回すほかは、「通常生活費」として計画的に回るべき勘定としておくことが大事になってきます。

年金を今もらうと得するという心理的行動 「投資の行動ファイナンス」(1)年金

2023-02-01 00:12:38 | シニア&ライフプラン・資産設計


■現在バイアス

●年金は早くもらうと得?
代表的な行動経済学の理論の中に「現在(志向)バイアス」(Present Bias)があります。現在バイアスとは、人は将来得られる利得より、現在得られる利得をすぐに欲したがる、というものです。

これに関連して、公的年金の繰上げ・繰下げについて考えたいと思います。現行制度での公的年金は、本来受給が65歳です。65歳より早く受給したい人は、60歳まで前倒しで早くもらうことができます(年金は減額)。これが「繰上げ受給」です。一方、65歳以降75歳まで後ろに倒して遅くもらうこともできます(年金は増額)。これが「繰下げ受給」です。

繰上げの場合、「早く受給する方が得」と思うのは、利得が目前にあればあるほどその効用は大きくなるからです。つまり、60歳でもらえる年金額は65歳でもらうより、本人にとってはるかに満足度が高い(経済的効用が大きい)ものなのです。

●遅くもらうとどうなる?                               
繰下げの場合、最大の問題は、当たり前ですが受給の開始時期まで年金がもらえないことです。65歳でもらえる年金を例えば70歳まで繰下げたら、その期間は無年金になります。そのうえ、繰下げしたときの受給総額が65歳から受給したときの受給総額を上回る(82歳)まで生きられるかというと、自身の寿命の保証は誰もありません。

将来の方が多くもらえるとわかっていても先のことは分からない、だから今もらえるものは今もらう。繰上受給者(受給者全体の34.1%)に比べ繰下げ受給者(同1.4%)の方がはるかに少ないのも、実際の損得や生活の逼迫性は別にしても、現在バイアスと同じ心理からでしょう。

逼迫した生活者にとっては、減額されても目前で手にできるお金の効用は大きい。単に生活費として必要というだけでなく、減額の大きさよりも本人の効用の大きさの方が確実に上回るからです。逆に、将来の増額分が本人の効用(心理的満足度)より下回れば、繰下受給する人はいないでしょう。                                       

現実問題としては、この増額率・減額率の大きさと効用の大きさを冷静に分析して選択することが重要になるかと思います。

人は人生航路のリスクをどう生きればいいか

2015-12-05 16:45:49 | シニア&ライフプラン・資産設計

 ●人生航路のリスクを意識する時

人は「リスク」をどういう時に最も強く意識するか? 危機や災害が目前に迫った時、あるいはまさに現実に起こっている時か。しかし、現実に危機が起こってからでは遅すぎる。

テロ、災害、事故、病気、ケガ、失業、破産、老い、そして死―。 

もしあなたが今幸せなら、その人生は順風満帆で波風立たない平和な航海であると言っていいだろう。そこには難破、漂流する原因となるものは何もない。しかし、それはないのではなく、当面見当たらないだけなのかもしれない。目前に暗礁があってもそれを感知することができないだけなのかもしれない。何の障害もなければ、なぜ人は保険に入るのか。 

今、漂流していると思ってみるといい。人生を漂流と思うのは(陳腐な譬えではあるが)今順風な人にとっては難しいかもしれない。であれば、航海と思っていただければいい。たとえ豪華客船だろうがいつ難破するかわからない。あなたはこれまでの人生でいいこともあれば悪いこともあっただろう。ずっといいことばかりの人生だって、これからは悪いことが起こるかもしれない。 

さて、幸い小さなボートがある。ボートには30日分の食糧と水が積まれている。つまり、これから嵐や鯨の大群の体当たりに遭遇しない限り、何とか30日は生きられそうだ。日除けテントもあり強い日差しでやられてしまうこともない。30日の時が流れるまでに救助の船が通りかかれば、助かる見込みはある。 

こう考えると、漂流直後にパニック状態であったのが冷静になってくる。最初は孤独であるが怖れはなくなる。しかし、孤独であることは不安でもある。不安は先が見えないから起こる。事態が見えだしてくると、不安は怖れとなり、おののきとなる。漂流とは外界との隔絶である。 

●危機を前に座して待つか?

さて、この大海原の小ボートの上で、あなたのリスクとは何か。明らかに30日経過すると飢えて死ぬことである。30日経たなくても暴風雨に遭い、ボートは破損するかもしれない。あるいはその前に孤独に苛まれて気がふれてしまうかもしれない。いや、もっと簡単に絶命できる方法はある。この絶海で、微塵でも生きる望みを諦めれば、そこで息絶えることはできるのだ。誰の助けもないのだから。いずれにしても、この30日間の状況そのものがリスクなのだ。 

さあ、どうする? ひたすら座して待つか? 何を? 救いが来るのを。海では、声を上げども声は届かず、潮で涸れて声も出ない。それでも神や仏を祈り、信仰的境地となって命涸れるまで目を閉じて瞑想状態でいられるか。 

ところで、ボートの中をもう一度見てみよう。簡易調理用のナイフがある。これで生き物を殺すことができる。海は、魚の宝庫ではないか。少しは食いつなぐことができる。さすがに海水は飲めない。だが、器に雨水を溜めることができる。そうするうち、小さな島に漂着するかもしれない。貯蔵食も切り詰めれば日を持たせることができる。つまり死は、30日後ではない。とはいえ、不慮があれば一日で死に至る。リスクを目の前にとらえられないということは、限りなく確実に死、破滅に向かっていくことなのだ。 

●リスクを目の前に現実化する

人は、この30日が10年、20年、いや30年先だとリスクとしてとらえることはできない。というより、そんな先にリスクなどないのだと思う。リスクのない人生を生きられればこんな楽で幸せなことはない。 

まず、リスクを現実化することである。漂流して30日分の食糧と水しかない。それと同じような状況をイメージ化する必要がある。何も自分が広い海の中で小舟に乗って流されているのを思い浮かべることはない。目の前に危機があるかないか、あればそれを具体的に現前化(眼前に現実として現す)ことである。 

老後の破滅はどうか。65歳からの年金が15万円であれば、月いくらで働ければいいか。働いて月15万円稼げて合わせて30万円でやっていけるなら、無理な運用など考えなくてもいい。70歳以上でも働ける会社は増えている。退職してまで人に仕えて働くのは嫌だというなら、退職後も月15万円が入る技量を身に付けておくことだ。 

―― プロでもないのに、そんなことができるだろうか。

と、思うだろうか。

あなたが40代、50代なら十分に仕事で知識と技術と経験を身に付けているはずだ。30代でも、この先それが可能である。20年も30年もやってきたことが「プロではない」で通じるであろうか。病気や事故は、それとは別に今から保険と貯蓄(と無理からぬ運用)で備えればいいことだ。 

問題は、漂流中の30日のリスクをどう生きるかだ。


老後資金づくりでハマる心理的な罠

2015-08-23 19:29:41 | シニア&ライフプラン・資産設計

■一括受け取りと年金受け取り、どっちが得か
「2000万円を年平均5%で運用しながら毎月取り崩していくと、20年間、毎月13万円以上取り崩せますよ。公的年金と合わせれば、老後の生活費はまったく心配ありません」

あなたがまだ30~40代にしろ、まもなく定年退職するにしろ、このようにアドバイスされたら、どう考えますか?

30代や40代の人にとっては、
「だから定年までの間に運用して2000万円の資産をつくりましょう」
と言われている気がしてくるでしょう。
定年間近や退職したばかりの人にとっては、
「そのまとまった退職金で運用しながら生活余裕費にあてましょう」
と聞こえてくるでしょう。

仮に夫婦の公的年金が25万円で何とかやっていけるとして、あと13万円ほど毎月収入の上乗せがあれば、確かに老後生活は余裕があるでしょう。上のアドバイスはそこをついています。このアドバイスに従うためには、退職金は全額一括で受け取る必要があります。

「就労条件総合調査」(厚生労働省)によると、退職金の受け取り方は一時金が約7割で、年金での分割受け取りに比べて増加しています。退職所得控除など所得税課税の面で有利であることと、一時金から住宅ローン残高を一括で繰上げ返済することが多くなっていることにもよります。年金でもらうと、予定利回りが下がっている近年では、一括受け取りより総受取額が少なくなることも挙げられています。このように受け取る額に絞って比較するならば、一時金派が増えているのも頷けます。

目の前の現金は衝動的に使いたくなる
人は、目の前に思いのほかの大金を一度に置かれると、平常心ではいられなくなります。想像してみてください。現金でなくても、銀行通帳に「20,000,000」という入金額を見たら、誰でも一時的にせよ舞い上がってしまうでしょう。ましてや、長年この日を待ち続けてきたサラリーマンにとってはなおさらです。

目の前の現金というものは、1週間後、1ヵ月後、1年後の現金に比べれば、はるかに価値があるものです。今日中にどうしてもお金が必要な状況にある人にとっては、1週間後に100万円入るよりも、10万円割り引かれてもいいから、今、90万円欲しい。それが人間の経済的心理です。借金の返済に迫られている場合がそうでしょう。

逆に言えば、明日の現金よりも今日の現金はすぐにでも使いたい衝動に駆られます。仮に、そのお金が2000万円だとしたら、この人はどういう行動を起こすでしょうか。必要な支出(住宅ローン一括返済など)を済ませた後は、日を送るにしたがって落ち着かなくなるでしょう。通帳残高の金額が目の前にちらついて、この人の心理を乱します。

大金を持つことは、心の中に「特別な勘定」を持つこと
「さあ、お使いなさい」
と、お金が囁くのです。いうなれば、このお金は通常ではない、どこからか来た「僥倖」(ぎょうこう)のご褒美に思えます。日本の退職金制度では、退職金は労働賃金の後払い説が有力ですから、数十年もの労働に対する正当な賃金のはずですが、心情的には、このお金は黄金の羽根を付けた特別なお金に見えるから不思議です。

このように、僥倖的に手に入った金銭を「特別な勘定」とし区別して意識することは、「メンタル・アカウンティング」(心の会計)と言われています。心の中でそれ用の勘定科目を設定して帳簿記入するわけです。たとえばギャンブルで一儲けしたお金は、毎月の給与とは別収入として心の中で勘定書きされます。このお金を手にした人は、一夜で飲み食いに使ったりして1円も残らないことがあります。なぜなら、普段手に入らない特別なお金だから使い切ってもいいのだと。

一括受け取りの罠
高額の退職金を手にした人も同様な錯覚に陥るでしょう。まずあってはならないのが、ギャンブルと浪費です。今どきギャンブルに1000万円も2000万円も使う人がいるのかと思われるかもしれません。でも、同じようなことをしている人たちはいます。1000万円、2000万円もの退職金全額を、振り込まれた銀行窓口に行って投資に回してしまうのです。

この人は、大金を減らしたくない思いと、どう使っていいかわからない思いで窓口に相談に行きます。担当者は、冒頭の言葉のように親切にアドバイスしてくれます。

「この2000万円を年平均5%で運用しながら・・・」
「・・・老後の生活費はまったく心配ありません」

こう言われると本人は安心して、では、そのようにしてください、とお願いするでしょう。こうして退職金全額がこの銀行の投資商品に回ります。金融機関ではこれが当たり前のビジネス行為ですが、本人にとっては「ギャンブル」行為とあまり変わりません。

不確定な運用利回りで、使うお金を固定しない
まず、「何%で運用していけば、いくらずつ取り崩せる」というのはアドバイス側の理屈です。「毎月13万円取り崩したい」という当人が確定したい希望を、「20年間、年5%で運用する」という将来の不確定へと論理のすり替えがあります。そのために、「最初に全額一括で投資」することが条件となります。そもそも「年5%の運用が20年間可能か」ということでも1つの大きな命題なのに、どうしてそれをスルーして全額投資の運用まで結びつけてしまうのか。

これにより、投資額、投資商品、手数料など自身の選択の自由をすべて相手に委ねてしまうことになります。金融機関はそれがビジネスだし、当人にとっても「相手は専門家だから安心」と思うのかもしれません。投資が悪いと言っているのではなく、第三者のアドバイスを聞けば、資産運用含め老後設計全体から見た退職金の有効な活かし方がもっと見えてくるのに、ということです。

全額使い切ってしまいたい、という強迫観念
投資だけではありません。退職金を一括で受け取った人は、次から次へと買わなくてもいいものに浪費しないではいられなくなるかもしれません。まだお金を使いきれていない、そういう感覚が常に残っていたら要注意です。何しろ退職金は「特別な勘定」だからと、いつまでも思ってはいないでしょうか。

退職金は、老後長期にわたって計画的に取り崩していくべき必要なお金であることを忘れてはいけません。それができなければ、このお金は心の中にある「特別な勘定」に支配されてしまうものとなり、残高がなくなるまで使い込んでしまう強迫観念を生むお金になってしまいます。そのような誘惑的な意識に負けないだけの自信が持てないなら、退職金の受け取り方は、次のようにした方が無難です。

「退職時に一時的に必要な支出分を一時金としてもらい、残りは年金で毎月分割してもらう」

たとえ毎月継続的に入ってくるお金でも、それが生活費あるいは生活余裕費以外に頻繁に支出されているなら、あなたは「特別な勘定」を消費し尽くすという意識の病に侵されているかもしれません。

 


贈与しまくりで破滅 バルザックの「ゴリオ」的人生は現代も起こりうるか 

2015-03-26 00:55:47 | シニア&ライフプラン・資産設計

■ピケティ氏の文学的視点
トマ・ピケティ氏は『21世紀の資本』でバルザックの『ゴリオ爺さん』を数ページにわたって解説しています。この作品はバルザックの代表作であるばかりか、19世紀文学の傑作です。バルザックの全作品は「人間喜劇」と言われ、壮大な人間ドラマの体系となっています。当時のパリの生活もつぶさに描かれていて、今でいう経済小説といってもいいでしょう(もっともバルザック作品は経済がテーマなのではなく、あくまで人間がテーマです)。ピケティ氏は、経済というものを最もよく現しているものの1つが文学だと言っています。

私はピケティ氏の著作はまだ読んでいませんが、Eテレで6週連続放映されたピケティ氏の「パリ白熱教室」の講義は全部見ていました。したがって、ピケティ氏についての言及は「白熱教室」の講義によるものですが、『ゴリオ爺さん』については自分なりに考えたことを書いてみたいと思います。

ピケティ氏は『ゴリオ爺さん』の中から、野心的青年ラスティニャックが「労働所得よりも資産所得による方がはるかに裕福に一生暮らせる、弁護士になるより富裕な家の娘と結婚しろ」とそそのかされる場面を引用しています。これは莫大な相続財産を念頭に書かれている場面です。私はといえば、この作品から贈与について取り上げてみようと思います。その方が、ゴリオという人物について語りやすいのです。

■贈与しまくりで破滅もあった時代
親が子に財産を与えたい、遺したいと思う感情は世紀を超えて変わることはありません。ゴリオは全財産を、娘2人が上流貴族に嫁ぐために使い果たしました。娘たちに財産を与え尽くして自分は無一文になり、今は安下宿の最下等の部屋に寝泊まりしています。そして、ついに臨終の間際となっても娘たちは舞踏会に明け暮れ、父の最期に立ち会うこともなかったのです。

それでもゴリオは満足なのです。自分の全財産を我が子たちに与えるのが自分の本望であり生きがいだったからです。ゴリオは無一文となったので相続は発生しません。しかし、彼の生前の贈与たるや、その額はいかばかりか、相当のものであることは作品から推察できます。19世紀のパリ、相続税はありましたが税率は1%ほど、贈与したところでほとんど税金はかからなかったも同じです。

もっとも、贈与税がかかったとしても、『ゴリオ爺さん』を読むかぎり、何かにつけて嫁いだ娘たちがお金をせびりに来て(それがゴリオにとっては幸せなのだ)、それをいちいち帳面に付けて申告などしていなかったでしょう。今の日本円で100万、200万のお金を頻繁に娘たちは貰っていたのです。もともとゴリオは実業家で、資産家でもありました。それが無一文になるまで娘たちに搾り取られるわけですから、その額たるや・・・、というわけです。

娘を上流貴族に嫁がせるためには、教育やしつけに習い事、衣装代やら舞踏会・茶会、遊興・交際費、贈答などどれだけかかったでしょうか。嫁いでからも貴族社会での付き合いや祝い事など、何かにつけて出費したに違いありません。

ピケティ氏が言うように、これは借金まみれのバルザックがやっかみで描いた世界ではありません。当時のありきたりの世相だったのです。特に資産を持つ者は自分の一族に金を与えるということに歯止めがなかったのでしょう。貰う方にとってもそれが当たり前のことだったのです。相続の場合は財産を遺す側が死亡するので破滅という概念は出てきません。贈与の場合は財産を与える本人はまだ生きているのですから、当時はゴリオのように贈与しまくって破滅することはありえたのです。

■日本の贈与税非課税はどこまで必要か
話は21世紀、日本では贈与税の非課税がいくつかあります。今年(平成27年)以降を見てもご覧のとおりです。

・住宅取得資金に係る贈与非課税の拡大・延長(最大1500万円)
・教育資金の一括贈与非課税の延長(最大1人1500万円)
・結婚・子育て資金の一括贈与の非課税制度の新設(最大1人1000万円)

親が子や孫に財産を遺したり、資金を援助したいという気持ちは否定しがたいものです。手元にお金があればなおさらの人間感情です。しかし、それも限度の問題でしょう。資産を次世代、次々世代に譲り渡して有効に使ってもらいたい、運用してもらいたいという政策も間違いではないでしょう。しかし、そこに何か違和感を覚えるのです。

「そんなのは、贈与できるだけのお金がない者のやっかみではないか」と言われてしまえばそれまでです。資産を持つ者から子に資産が渡る。確かに結婚、子育て、教育、住宅、と人生の大イベントに使うわけだから、そこで使いきってしまえば貰ったお金など残るわけがないということでしょう。しかし受贈者は、自分の懐が痛みません。一方、一般所得者はイベントごとに生活のためのお金を充てていくので、もともとの懐勘定が減っていくのです。

さらに、資産を持つ者が死亡すれば相続が発生し、結局はその資産が子や孫の代に渡ります。資産は保有する者から保有されるべき者(配偶者、子・孫)へと移っていくのです。

これを、資産を「持つ者」と「持たざる者」の格差と言ってしまえば簡単です。その格差を小さくするために相続税や贈与税があるわけです。贈与税というのは相続税の補完税ですから、それについて非課税を増やしていくというのはどうなのか。まさか今の時代、ゴリオのように自分が破滅するまでお金を与えまくる人間はいないでしょう。貰う方も貰う方で、贈与税の重みが1つの歯止めにはなっているのです。それが、非課税で贈与したあげくに自分の老後設計が廻らなくなる、というのは杞憂でしょうか。

■「資産保有税」は、あってもいいではないか
ここまで話を進めると、次のようになります。

― 資産を持っている者に、持っているというだけで毎年、税を掛けたらいいのではないか。

どうやら、ピケティ氏の言うことはそういうことらしい。固定資産税のように一定額以上の金融資産を持っていれば、持っているということで「資産保有税」(金融資産税)のようなものがかかってもいいと思います。しかも一時期の固定税ではなく累進税率で毎年課税する。それは、金融資産の価値というのが時間とともに上がりもすれば下がりもするからです。

そういう税ができれば、贈与税の非課税制度など作らなくてもよくなります。資産を自分で持っていようが、子にくれてやろうが、どっちにしても税金がかかるとなると、その税金が巡り巡って次世代の一般所得者にも移転していくのです。

― じゃあ、親の心情はどうなるのだ? 子にはお金をやりたいのだ。ゴリオのようにね。

そういう人は、どうぞあげてやってください。どっちにしても、税金がかかろうがかかるまいが、ゴリオのように親は子や孫にお金をやることをやめないものです。貰った側は、そこから税金を払うだけです。どうしても非課税にこだわるなら、今の暦年贈与のような非課税枠(年110万円)をもう少し広げればいいでしょう。その範囲で子や孫に与えることで十分なはずです。

資産が少しでも富める者たちの中だけでとどまらないように、相続税・贈与税は今より税率をゆるやかに下げるかして、その上でこの2つの税の補完税として資産保有税を累進課税することが必要ではないか。毎年とは言わず、せめて一定の保有期間でも。資産を受けた者だけが得するような非課税制度が本当に必要なのでしょうか。

持たざる者が持たざるがゆえに「負」からのスタートを生きる時代に、持てる者はそれなりに富み、持たざる者はますます富まざる者になる時代になればいいなどとは、誰も思ってはいないはずです。 


目先の損得にとらわれない これからの年金、早くもらう方法と多くもらう方法

2014-11-23 00:45:00 | シニア&ライフプラン・資産設計

年金もらい時の損得は金額だけでは測れない
年金がもらえる世代になると、年金を繰上げるかどうかで迷う人がいるかと思います。繰上げが損か得かで考えると、実際に繰上げる年からの受給総額と、65歳からの通常の受給総額を比較すればわかりやすいでしょう。例えば5年の繰上げで60歳から受給した場合の受給総額は、76歳中に65歳からの受給総額に追いつかれ、その後は受給総額が逆転し時間の経過とともにその差額は開いていきます。

5年繰上げで単純に金額で比較すれば、76歳までの受給総額では繰上げした方が多くなり得ですが、それ以降も長生きすると総額でもらえる金額が少なくなり損になります。平成25年の60歳の平均余命は男性23.14歳、女性28.47歳ですから、平均的には生涯を通じてみれば、繰上げは得ではないということになります。しかしこれだけでは、年金をもらう本人にとって、本当はどちらが得か損なのかわかりにくいから迷うのでしょう。

金額の満足度なのか、今使える満足度なのか
この年金受給については、金額的な効用のほかに時間的な効用があるから迷うのです。効用とは満足度のことです。お金については、一般に金額的には高い方を、時間的には早くもらう方を人は選好します。その方が満足度が高く得だと思うからです。自分の満足度を最大化することを人は選択するわけですが、繰上げるかどうかを選択しにくいのは、どちらの満足度が高いか測るのが難しいためです。

生活資金の不足が切迫している、あるいは逆に余裕があるならば、迷うことはないかもしれません。例えば、定年退職後の生活で年金に頼る部分が大きい人にとって、本来の受給額が減ってしまおうがさほど迷うことなく1ヵ月でも早くもらうことで、その人の満足度すなわち効用は最大化するでしょう。確かに金額でみれば損することになるでしょうが、早くもらって「今が使い時」という時間的な効用により替えがたい満足度がもたらされるのです。

一方で、年金に頼らなくても生活にそれほど困らない人は、もらえるものは早くもらって「今が与え時」となる可愛い孫の小遣いに使うとか、元気なうちに夫婦で快適な生活のためにさっさと使ってしまうということが最大の効用となります。こういう人たちにとっては、損の勘定(感情)とはならないでしょう。

効用を見極められない3つの要因
実際に繰上げるかどうかで迷う人は、損得の分岐点が微妙なバランスのところにあり、金額と時間の効用をどういう基準で判断したらいいかわからないからです。これについて受給者の立場で整理すると、次の要因が挙げられます。

1.年金の「減額率」の意味がよくわからない。
2.繰上げた時の「受給額」が正確にわからない。
3.目先の「効用」(満足度)にとらわれている。

■5年で30%の減額率の意味がわからない
1つ目には、「減額」の意味がよくわかっていないということがいえます。繰上受給では、1ヵ月当たり0.5%の年金が減額されます。1年で6%、5年では30%もの減額になります。仮に65歳からの年金受給が100万円あるとします。5年の繰上げでは、60歳の年でもらえる年金額は70万円(100万円×0.7)になってしまいます。これは、1年の減額率が6%で、その分が5年分続くから合計30%の減額率になるということではありません。金額でいうと、60歳での年金額94万円(減額率6%)がその後も5年間続くということではなく、実際には30%分減らされた70万円が毎年支給されることになるのです。簡単に書くと、「マイナス6%×5年」ではなく、「マイナス30%×5年」となります。

減額は65歳までではない、一生続く
2つ目には、年金はいったん繰上げると、減額された金額が一生(生きている限り)続くということです。誤解されやすいのは、年金が減らされるのは「繰上げた年だけ」、あるいは「繰上げた年から65歳まで」と思われがちなことです。つまり5年の繰上げでは、60歳でもらえる年金額は上記では70万円なので、94万円と思っていた額と24万円もの開きがあるわけで、これが5年間でみたら470万円(94万円×5)もらえると思っていたのに、350万円(70万円×5)しかもらえず、これが生涯続くわけですから、この乖離は総額となるとかなりのものになります。

「将来のことより今がだいじ」というバイアス
3つ目には、人間の心理として、目先の利益を最大限優先したくなることが挙げられます。これを、行動経済学では「現在性バイアス」といいます。バイアスというのは、「認知的な偏り」という意味です。将来得られるはずの利得が減ってもいいから、現在に早めて受け取りたいという心理的欲求は誰でも経験するところです。そのくせ、人は少し先の将来のこととなると、自分のことなのに急速に関心がなくなってしまいます。「将来のことなんてわからないから、今がだいじ」というわけです。このようなバイアスにとらわれていると、今の生活が少しでも苦しいと、つい1年くらいなら、と年金を早くもらいたくなってしまいます。

このように、そもそももらえる金額や仕組みが正確に把握できていなかったりバイアスにとらわれていたりすると、効用の比較などできるはずもなく、それゆえ選択に迷うわけです。なんとなく「お金が早めにもらえるなら」と思ってしまいがちですが、こういう考えこそ将来に大きな「損」を招きます。繰上げの損得を知るには、繰上げたときの受給減額分に見合った効用が「今」だけなのか、将来のどの時点まで及ぶのか、それを見極めるためにも上の3つのことに注意してもらいたいと思います。

繰下げも同時に見据えて考えてみる
もし目先のことにとらわれずにすむなら、繰下げという方法もあります。もらうのを早めるのではなく、もらうのを遅くすることで1ヵ月当たり0.7%、1年で8.4%、3年でも25.4%、5年の繰上げでは40%もの年金増額となり、これが生涯、毎年受給できるわけです。資産運用でこれほどのリターンを出すのは相当至難です。65歳過ぎても働けるうちは働けるなら、それまで繰下げて受給することで、それなりの効用は大きいわけです。ちなみに70歳まで5年繰下げた場合、80歳中に65歳からの受給総額に追いつきます。このように、年金の繰上げは繰下げも同時に見据えて今から考えるべきです。

減額による効用をイメージする
目先1年やそこらでお金が不足するためにわざわざ繰上げるのか、5年、10年、その先まで収入を補うためなのか。よくよく考えてみる必要があります。当面、目先のことだけが問題であるなら、年金を繰上げる前に、まだほかに見直せるライフプラン上の対策があると思います。まずは迷う前に、繰上げた場合にもらえる金額を出してみるといいでしょう。ちなみに年金100万円を1年早めると、今後毎年6万円、1ヵ月で5,000円ずつの減額となります。これを基準にして、あなたにどの程度の「効用」をもたらすか(プラスもマイナスも)イメージしてみてください。


定年年齢に掛かるアンカリング効果 ~ 「碇(いかり)付け」の意識 

2014-10-05 08:27:15 | シニア&ライフプラン・資産設計

 ■  年齢にかかる「碇」

 行動経済学で「アンカリング効果」というものがあります。人は、ある数字や言葉が意識に刷り込まれていると、それが碇(いかり)が沈むように意識に引っ掛かって、その数字なり言葉を新たな基準として行動を決めるものです。こういうことは日常でよくあります。 

 30歳になったら結婚しなければもう結婚できない、35歳までには子どもを生まなければ初産がたいへんだ、40歳までに家を買わないとローンが払えなくなる、45歳までに部長職についていないとその先の出世はない、60歳までに○○千万円貯めないと老後人生は破滅だ、遅くても○○までに○○しないと・・・・などなど。 

 確かに、そのとおりにできれば豊かな人生が送れるかもしれない、でも・・・・。アンカリングは自分の環境や制度に左右されてしまうことがあります。「なんとなく」その歳までにそうしなければならないと「手遅れ」になる、と世間でも見られているように思い込んでしまっています。これを「年齢のアンカリング」とでも呼びましょうか。 

 さて、60歳には何の「碇」(アンカー)が掛かるのでしょうか。まさしくそれは「定年」です。これは社会的制度でもあり会社の制度でもあります。本人が意識せざるをえない「碇」です。60歳というのは、例えば「年齢不問」で求人カードを見て「定年年齢」を見ると、「60歳」とあります。年齢不問なのに定年が60歳であれば、その時点で60歳前後は最初から採用予定がないことがわかります。求人上、年齢に定めをおいてはならないので「年齢不問」としてあるだけです。年齢不問とするくらいなら、定年も不問(定年なし)とでもしてくれれば気が利いていますが、先方に採用する意思があるとは限りません。 

 60歳というのは、高年法(高年者雇用安定法)が施行され65歳まで雇用延長されても、やはり現役と引退の区切りとして「碇」が掛かっているのです。これは実際に会社側の制度として定着してきたので、それに会社員も完全に意識を固着させています。再雇用となる会社でも、世間の会社で再就職する場合でも60歳は「引退」として「碇付け」(アンカリング)されています。

 ■  「碇」をはずすために

 60歳以降は正社員では雇わない、正社員でも月給は現役時代の半分、というのが一般的です。例えば、月給40万円もらっていた人は20万円もらえば万々歳、賞与はなくてもこれだけもらえればありがたいほうです。「だって、退職金も年金ももらえるんだから、それでもいいじゃん」と思われているのかも知れません。体力も気力も向上心もなく、先もない、そんなふうに「60歳」は思われ、本人たちもそういうものと意識づけられています。

 でも、そうでない人が多いのも実態です。正規職に就けなくて所得も平均以下、退職金なし、したがって年金も少ない、再雇用もない。再就職するにも60歳を基準に年齢が増えていくにしたがって、就職条件が悪くなっていくのを意識せざるを得ません。「60歳」・・・、この数字は重く碇を下ろしていきます。 

 国のデータでは完全雇用に近いといっても非正規労働者がほとんで、失業率改善といっても60歳以上の人は今までの経験を活かせない労働にしか就けていません。例えば、「中高齢者歓迎」の求人にしても、パート、アルバイト、若者が就きたがらない介護や調理補助、ビル管理、清掃の仕事などです。しかも、こういうものでも「経験者優遇」ですから、サラリーマンをしていた人は経験のない仕事ばかりです。残るは、非正規の肉体的作業です。肉体的作業といっても、若者ほど体力を使えるものではありません。 

 政府がいくら高齢者が働ける社会と言っても、現実がそうなっていないからどうしようもないのです。「60歳」というのは、本人の気持ち以外に、社会全体が制度として碇を下ろしているので厄介です。結局、「自分はもう60歳だから」といって、自分で自分の心に碇を下ろさざるを得なくなってしまうのです。 

 碇を上げて行動するには、現役の時以上にエネルギーが必要となります。社会全体に碇が下ろされているなら、それを個人で引き上げるのは相当な労苦です。では、どうすればいいでしょう。社会の「碇」を外すのが難しければ、まず個人レベルで、自分の「碇」をずらしていくことです。「碇」が60歳に掛かっているなら、それを前や後ろにずらす。「自分の定年は55歳」と決めたなら、その「碇」に合わせて早めに準備する。「65歳までが現役」なら、その歳まで現役並みに働けるよう知力・体力を蓄えておく。

 定年前に何をしておかなければならないか、それに向かって動くことがたいせつです。貯蓄や資産設計、働き方の準備、健康、人脈などいろいろあります。「碇」の意識を変えなければ、「定年は突然に」やってきます。


行動経済学と「シジフォスの神話」 ~ 採用結果を通知しない会社は求人する資格がない  

2014-09-28 01:29:00 | シニア&ライフプラン・資産設計

■ 「シジフォスの神話」にみる行動経済学 

 新卒ならずとも中高年、定年退職の再就職者にとって、結果が見えない活動が続くのはつらいものです。 

 学生時代、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を読んだ時、とてつもない絶望感と虚脱感を抱いたのを覚えています。ギリシャの神の怒りを買ったシジフォス(シーシュポス)は、冥界に堕とされて大岩を山頂へと押し上げていく作業を命じられます。頂上近くまでやっとの思いで行くと、頂きの一歩手前で大岩は転げ落ちていきます。大岩もろとも落ちたシジフォスは再び大岩を押し転がしていきます。苦労して頂上手前まで来るとまたも岩は落ちていきます。この作業を毎日毎日、幾月も幾年もただ果てしなく繰り返していくのです。 

 社会に出るということは、こういうことなのかと暗澹としました。仮に会社に就職できたとしても、延々と同じ繰り返しの日々が続いていく。ましてや、職にさえ就けないでいる人はなおさらだと思います。それでも新卒の人のように若くて将来があれば、まだ希望があります。しかし60歳前後ともなれば、再就職はかなり厳しいものです。何十通履歴書を送っても、面接までたどりつけない。書類選考なしに面接させてもらえば、自分の経歴や意欲や面接官との相性で何とか採用にこぎつけられた時代もありましたが、今はそうもいきません。これはなにも中高年だけでなく、30~40代の再就職にも言えるかもしれません。 

 行動経済学者、ダン・アリエリーは、その著書で「シジフォスの神話」にも触れていましたが、人は眼の前で自分の行った仕事を破棄されていくと、途端に労働意欲を失うという心理学実験を行っています(詳しくは『不合理だからうまくいく』)。同じ単純な作業でも、一人に付き添って作業した成果物を本人の眼の前に陳列していくのと、作ったそばから本人の眼の前で成果物を壊していくのとではその直後のモチベーションが格段に違うという実験結果を報告しています。また、破壊しないまでも、本人の成果物を無視して、1つ出来上がるごとに評価もせず本人の見えないところに仕舞ってしまうのも、目の前で破壊するのと同様にモチべーションの低下を招くという結果が出ています。 

 せっかく作ったものを眼の前で破壊されたり無視されたりしたら、心理学実験するまでもなく誰でもやる気をなくしてしまいます。しかし、これと同じようなことが日々、社会や会社の仕事でも起こっていないでしょうか。駄目なものは駄目だと結論付けてくれれば、確かにその時はショックですが、本人は納得できて、前に進めるものなのです。 

■ 不採用通知より結果が来ないほうが徒労感は大きい

 私も最近まで再就職活動をしていて、応募結果が来ないのは珍しくありませんでした。小さな会社だからということでもありません。従業員が数百人の会社でもそういうことがあります。応募して不採用通知を受け取るだけでも自己の人格を否定されたように思え、人間性に欠陥があるのかと一時的に卑下して落ち込むものです(書類だけで人間性の審査などできるはずはないと思いつつ)。それが会社から何の反応もないと、次第に腹立たしさと不信感を感じるようになります。不採用になるのは自分に何かが不足していたからと諦めもしますが、何の通知もないというのはどういうことでしょう。

  何週間もほったらかされると、「これは落ちたな」と割り切り、早く気持ちを切り替えて次の募集を探した方が賢明です。かつて、不採用を覚悟で応募先に電話で問い合わせてみたことがあります。こういうやりとりは、かなり心理的な負担があり、双方に気分の良いものではありません。案の定、先方もいろいろと取ってつけた理由(今回は応募が多数で・・・、とか)で不採用を告げました。 

 現在は個人情報保護の扱いから、不採用者の応募書類は求人側で責任破棄することをあらかじめ募集に記載できます。それは納得いきますが、だからといって合否の結果を通知しなくていいというわけではありません。現に、合否にかかわらず「面接後何日以内に結果通知」と記載があるのです。応募する側も不採用通知は受け取りたくないのは当然ですが、結果が来ない行動はそれより徒労感が残り、急速にモチベーションが落ちていきます。こういうことが続くと、つくづく「ああ、シジフォスだな」と思ってしまいます。 

 募集要項では、結果を通知してこない会社に限って「人を大切にする会社」などとあります。自分の会社に縁のないと決まった人は無視して放っておく、そのような会社が社員を大切に扱うとは思えません。「明るい職場です」とか、業務以外のことをアピールするより、応募者一人ひとりにきちんと対応することを考えるべきです。 

 今まさに求職活動中の人にとっては、つらい時期が果てもなく続くような気がするかもしれません。シジフォスは、永遠に岩を運び上げて行きます。頂上から何度も転げ落とされても。でも、あれは神話の世界です。人間の世界ではいつかは結末があります。よい結末を信じて、いまは耐えて行動するしかないのです。