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差別発言は、「ダッコちゃん」現象の根と同じ 

2016-11-12 17:45:55 | 政治・社会・歴史

 

 意味も分からず口にしていた「土人」
沖縄のヘリパッド移設の反対デモ警備で、大阪府警の機動隊員が「土人」という言葉を吐きました。当の本人はあとで「差別的な意味があるとは知らなかった」と言っています。あの時に「コラ、ボケ」などと見下した言葉も発しており、それ自体が差別意識の現れであることを本人自身が自覚できていないようです。この差別感覚は、50年も前に大流行した「ダッコちゃん」現象と根は同じだし、むしろより根は深くなっているようです。


「土人」というのは、私が小学校の頃、意味も分からずに使っていた言葉です。低学年の私たちがその言葉の意味や由来を知る由もなく、少年漫画などで仕入れたちっぽけな知識で、漫画に出てくるアフリカ土着民の黒人を指して無邪気に言っていた気がします。

その頃の漫画に出てくる黒人は、ほんとうに顔、手足、胴体も真っ黒に塗りつぶされており、私たちは見たままで「土人」とか「黒んぼ」などと言っていたのです。今から思えばまったくの差別用語ですが、十歳に満たない子どもたちは、色の黒い日本人の子にもその名で呼んでいました。

「ダッコちゃん」は黒人蔑視だった
「ダッコちゃん」が登場したのもその頃でした。初代「ダッコちゃん」(1960年発売)は、目も口もまん丸で、耳もドーナッツのように丸い穴があいた真っ黒の人形でした。これが人の腕にコアラのように両腕、両足を巻き付けてダッコするのです。全身裸で、相撲取りのまわしに付けるさがりのような蓑だけが腰に巻き付いていました。

これが子ども心にも可愛くて、大人までも腕にダッコさせて、爆発的に売れたのです。今省みると、人形をダッコさせていた人たちは皆、無意識的な差別行為をしていたことになります。実際、販売されて二十数年後には、アメリカの団体から黒人蔑視の人種差別であると抗議を受け、製造販売の中止に追い込まれました。

その後の復刻版は、黒人というデフォルメを廃し、形や色を変えて単にダッコできるキャラクター人形としたものです。復刻版は初代ほど売れませんでしたが、「ダッコしたい」「ダッコされたい」というのは、人間の(特に女性や子どもの)本能的快感をくすぐるもので、今も根強く生き延びているのでしょう(アトムやドラえもんの「だっこちゃん人形」など)。

無意識的感覚が差別行為を生む
当時の「ダッコちゃん」現象から見えるのは、造る側、売る側、そして買う側が無意識的に持っていた感覚自体が、アメリカから抗議のあった人種差別感覚とは違っていたということです。製造・販売業者は、人種差別につながるなんて思いもよらなかったでしょうし、購入者も、ただ無邪気な感覚で「可愛い」と思って自分の腕にダッコさせていたにすぎなかったのです。

ただ、単に可愛いからと腕にダッコしていたのは、黒人の子どもをペットのように巻き付けて飾りつけていたのと変わりありません。「土人」という言葉は、それと全く同じ感覚と意識構造により生まれたものです。少しでも黒人人種についての知識が付けば、それが差別行為だということは容易に理解できたはずです。

幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルの人たち
差別というのは、無邪気な感覚から起きるのだからといって許されるものではありません。そこには成熟した大人の意識が欠けています。許されるとしたら、本当に無垢無知な幼児だけです。幼児には、正常な世間知的な意識が芽生えていないからです。しかし、幼児的な感覚を持ったままの大人がいることも事実です。

少しでも知恵を付けた子どもですら、何が人を差別するかを教えられます。まして知恵を持ったはずの大人が差別する言葉や行為は、許されるものではありません。「ダッコちゃん」現象は、当時の日本人全体が幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルにあったと言うことでしょう。

「おチビちゃん」「おデブちゃん」―。職場などにおける女性へのこういった言葉は、愛称のつもりで言われていることもあるでしょう。しかし、身長が低い、あるいは太っているという本人の立場に思いやれば、言う側がいくら愛称のつもりであっても口にはできないはずです。外見だけで他人を選別し、美醜でランクづけすることになるからです。それは障害者を身体的レベルで差別することにもつながります。

抑圧がなければ抗議行動は生まれない
冒頭の話題に戻ると、「土人」発言(というより罵詈雑言)について大阪府知事は、当の機動隊員の表現を不適切としながらも「一生懸命職務を遂行しているのが分かりました、出張ご苦労様」とツイッターで擁護する投稿をしたとのことです。権力側についている者が、権力の下について動いている者を励ますのは勝手です。しかし、それはそれ、差別用語を発したことを直視せずに、むしろわきによけて慰労にすり替えていること自体が問題です。この知事が、意識して言ったのなら政治家として全く不向きであるし、意識せずに言ったのなら機動隊員と同じ程度の感覚と意識レベルにあるということです。

この騒動については、反対派も暴言を浴びせたり、横暴な行為をしたから仕方ないと権力側を擁護している声があります。反対派が、法に触れるほどの行為をしたり、近隣の生活に迷惑となることをしているのなら取締りもしかたありません。しかし、誰でも抑圧されなければ抗議行動に及ばないものです。権力側の行為が不条理であり、自分たちの利害が侵されるから抵抗するのだということを考えなければなりません。

権力ある側と権力なき側との力の差
権力ある側と権力なき側とでは、その力の差は「100対1」あるいはそれ以上であることを知ってほしいのです。逆に言えば、権力を持つ1人の者は、百人、千人、1万人、それ以上の権力なき者を押しつぶすことだってできるでしょう。権力者が反権力者をつぶすには、たった1つの言葉で足りることもあります。

差別というものが力のある側から生じるとなると、政治の世界だけでなく学校や職場でも起こるのは不思議ではありません。「ダッコちゃん」現象のように、幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルから生じる単純な差別から始まって、自己の利益を守るために生じる他者への差別へとエスカレートしていきます。この段階になると、より複雑で陰湿となり、ハラスメントや格差、過重労働となって深刻化します。

そういう場合、自分より身体、力、地位、経済的に下位に属する者を貶め、いたぶり、排除することで、自己の利益や快感をわがものにしようとする欲求が起こります。ハラスメントをする側は、えてして本人に差別意識がないものです。これは差別される側、ハラスメントを受ける側の人間の心に対する想像力が欠如しているからです。

差別を受ける者は、抵抗の意思を持ち続けている
職場では、経営的にも法的にも差別行為やハラスメント対策についての指導が行われているはずです。大阪府警という職場ではこれが全く機能していなかったことが露呈しました。というより、権力主体が大きくなればなるほど本能的に、幼児的感覚、世間知的無知の意識、自己利益による他者排除という心理的欲求が膨張してきて、それが集団化すると、弱者、下位者へのいたわりや想像力がまったく働かなくなるのかもしれません。

差別を受けている者は、常に心の中で抵抗の意思を持ち続けているものです。このことを権力側の人間には忘れてほしくありません。不幸にして自らの死をもたらすことになるかもしれない行為でさえも、抵抗の意思によるものでありうるのです。

 

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『死の島』は若き頃の自分だ

2016-08-31 00:54:17 | 文学・絵画・芸術

若き日の小説

僕が今よりずっと若い頃、つまり20代に読んでいたら、かなり夢中になった小説だろうと思う。この頃は、野間宏『青年の環』や埴谷雄高『死霊』などにかなり夢中になっていたし、前衛的な小説作法にも敏感だったから。それにベックリンの名画「死の島」のイメージがどうしようもなくついて回っていたからだろう。 

なにしろ、あの頃は『死の島』(福永武彦)は文庫でもなかったし、単行本も古本屋では見かけなかったと思う。全集か作品集は出ていたかもしれないが、とんとお目にかかっていなかった。というより、当時自分の関心が文学どころでなくなったからだろう。きちんと収入を得なければ自分も家族も大変なことになる頃だったので。 

今では、福永武彦の名は一部の文学好きに読まれるくらいだろうか。まして『死の島』ともなると、どれだけの人が読むだろうか。とはいえ、一部の熱狂的なファンはいるのかもしれない。僕は一度、どこでも手に入らなかったこの小説を図書館で見つけて上巻だけ読んだ記憶がある。その時は内容が青臭い文学、小説好きの学生が書きそうな小説を読んでいるようで(それはつまり、かつての自分であったが)、なんとなく下巻まで読む気がしなくなったのを覚えている。 

■ふたりの女

主人公の相馬鼎という男(編集者)が、どうにも作家を目指していた自分に似すぎていて、小説の創作ノートをいつも持ち歩いたり、女性をすぐに好きになるわりには、なかなか先まで進展しない(進展できない)たちで、自分でもそうだが、はたから見たらかなりじれったくて青臭い若者なのだ。そんなところが、自分でも鼻に付いたのかもしれない。 

ところで数ヵ月前、よく通りかかる古本屋で初版本上下2巻合わせてなんと105円だったので買ってしまった(現在、この作品を買うには講談社文芸文庫で新本上下合わせて4千円以上もするのだ)。それで読み返してみると、やっぱり上巻だけ読み通すとあの頃の感想と同じだった。

改めて感じたのは、相馬が同時に愛する(恋する?)2人の女性は、若い頃の自分であったら、やっぱり夢中になってしまうタイプである。相馬のように、たいして親密に付き合ったわけでもないのに(つまり3人一緒に食事したり、芸術論ごっこしたりする程度の仲なのにという意味で)、2人の女が服毒自殺を図ったという電報を受け取ると、東京から広島まで仕事をうっちゃってまで駆け付ける。この小説の年代背景では、特急を飛ばしても一昼夜かかる距離でもだ。 

文学臭いこの青年のように、若い時の僕もきっとそうしたに違いない、身内の女たちでもないのに。一人目の女性画家は、被爆者で絶望を引きずっている。その陰りには美人であるから余計、同情っぽい、安い愛情を抱いてしまう。そういう女に会うと、すべて見透かされているようでありながら、その女のために死んでもいいから何かしてやれればいいと思ったりする。ところが、実際には現実にできることは何もないのだ。軽くて重みのない男の自分を感じ、恥じ入っているしかない。 

そしてもう一人、品の良いお嬢さんタイプで可愛らしい清廉な女性、実は突拍子もないことをやってしまう彼女にも魅かれる。普通の可愛いだけの女性ならそこまで思わないが、家出をしたり、風来の男につかまって同棲し捨てられ(捨てた?)たり、しまいには同居する女性画家に誘われて自殺まで図ってしてしまう。 

■小説の技法はどこへ行くのか

上下巻通して話自体は複雑ではないが、時制を前後させたり、現実と虚構(創作)を織り交ぜたり、内的独白を絡ませたり、方法的にかなり凝っているので、そういうことに興味があった若い時分の僕だったら、かなり夢中になっていたかもしれない、等身大の自分の反映としても。ストーリーだけを素直に時系列順に読んでいっても、十分楽しめる作品ではあるが、今となっては、そういう技巧的なところが鬱陶しく思えるところもある。時制を細かく前後させる意味や基準があろうとは思うが、それを探るまでの労力を取ってまで、今では読もうとは思わない。 

小説の方法も読んで楽しめるのは、せいぜいプルースト(『失われた時を求めて』)あたりまでかなと思う。フォークナーやマルケスあたりになると、すごいとは思うけれどちょっと疲れるところがあるし、これからの小説の方法というのはどうなるのだろうか。

 

 

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『黒死館殺人事件』 ~ 日本の「三大奇書」を読んでみて

2016-08-29 05:29:19 | 文学・絵画・芸術

日本の「三大ミステリー」とか「三大奇書」と言われる作品を、これで一応全部読んでみたことになる。どれも推理小説とかいう枠内に入れて読むと、読み切るのが困難だと思う。僕の場合は、文章(文体)が読むに耐えられるかが大きな要素だ。いくら推理小説として面白そうな展開でも、文章が読むに堪えないと続きを読むのが苦痛になる。

■『虚無への供物』

『虚無への供物』(中井英夫)は、3作のうちでは最も惹かれる文章だった。ストーリーにもぐいぐい引かれるが、1つ1つの文章は魅惑的で、この作者の他の作品にもつい手が出てしまった。もうずいぶん前に読んだので、内容は全く覚えていないが、この3作のうちでは一番楽しく一気に読んだのを覚えている。なにしろ、これはミステリーとか奇書という以前に面白い文学、面白い小説と読めた。 

■『ドグラ・マグラ』

『ドグラ・マグラ』(夢野久作)は、当初これを読むと「精神に異常をきたす」とか「頭が狂う」とかここかしこで書かれていたので、まさかそれを本気にしていたわけではないが、遠ざけていたのも事実だ。というのも、しばらく仕事でストレスを抱えていた時期があって、気晴らしにミステリーでも読もうかという気になってこの本にぶつかったのだが、ストレスで落ち込んでいるときに、このうえ気がおかしくなったらたまったものじゃない、と思ったからだ。というより、元気になりたいのに、「精神がおかしくなるぞ」と言われたら、そんなものは遠ざけるのが普通だろう。 

その後、普通並みくらいに活力が戻り読んでみた。読んでみれば、精神病理や異常心理などをテーマとしているとはいえ、すごくまっとうな小説で、途中読むのに疲れるところがあったが、作者の文学的思惟(思想とまではいかないが)に支えられた文体も、めくるめく堂々巡り(「ドグラ・マグラ」というのはそういう意味らしい)で、結構読みごたえがあった。精神社会への、1つの内的告発と言えるかもしれない。 

■『黒死館殺人事件』

3作目が、この『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)である。正直言って、なんだかよくわからないで読み終わった小説である。やたらペダンチックで、いろんな分野の引用や注釈が出てきて、読むのを断念させるとよく書かれているが、僕にとっては、それはほとんど問題にならなかった。というのも、その文体がきちんと知識と学に裏付けされたものなので、むしろその文章そのものを楽しむことさえできたからだ。ただ、それゆえに文に装飾がありすぎて話の進行がちっともわからないところがあった。

そもそも誰が殺されていて、誰が疑われ、どういう手口であったのか、何が謎になっているのか、読んでいるうちに忘れ去られてしまうほどなのだ。こういうことだから、結局誰が真犯人だったか、殺害動機は何か、どういうトリックがあったのかなどどうでもよくなってしまう。つまり、作者が殺人事件をネタにどれだけの小説という伽藍を築きたかったのか、そこに落ち着いてしまう。だからと言って、駄作とは言わない。その伽藍が、どういう仕組みでどういう風に築かれているのか、それを楽しみたくてもう一度読んで確かめてみたいと思うのである。 

結論を言うと、3つの作品とも、1回読んだだけではよくわからない。できれば1回目はさわりとして大方のあらすじをつかんで、2回目にじっくり確認しながら読むと面白いのだろう。そうすると、どれも結構夢中になれる作品なんだと思う。

● 夢野久作 『ドグラ・マグラ』 ~ 潜在意識の遺伝と死美女の犯し

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『不連続殺人事件』と『事件』~ 純文学者のミステリー

2016-07-16 11:38:35 | 文学・絵画・芸術

 ■『事件』の実在感と知的興奮

『不連続殺人事件』(坂口安吾)と『事件』(大岡昇平)は、ともに純文学作家が書いた推理小説で、両作品とも日本推理作家協会賞を受賞している。読みたいミステリー作品の上位に入る常連ということで、続けて読んでみた。 

先に読んだ『事件』は、かなり前に弁護士役が北大路欣也主演のテレビドラマを見た記憶があるが、細部も結末もほとんど忘れていた。しかし、これが面白くて一気に読んでしまった。この推理小説は、ストーリーを知っていても、結末を知っていても、十分再読に耐えられるものである。それは知的興奮をもたらすからだ。ほとんど全編、法廷が主舞台となっており、法廷での弁護人、検察官、裁判官、そして証人のやり取りに、どんどん吸い込まれていく。このような場面は、今となってはテレビドラマの事件ものではありきたりとなってしまったが、やはり、法廷での応酬は、1つの弁証法なのか、詭弁なのか、単なるほらの吹き合いなのか、とにかく引き込まれる。 

前に『カラマーゾフの兄弟』を読み返した時、最終に近い場面で主人公ドミートリ―の殺人罪の裁判がかなり長く書いてあったが、その部分が面白くて一気に読んだことがある。学生時代に読んだ時は、おそらく退屈で読み飛ばしていたところだと思う。再読の時は単なる推理ゲームではなく、人間の根源に迫るところにひかれたのだと思う。『事件』にしても、やはり純文学作家としての深堀があったからこそ、面白かったのだ。 

だいたいミステリーに純文学臭さを持ち込む必要があるかと言いたい人はいるだろう。推理ゲームとして面白ければいい、と。僕自身は、推理小説はほとんど読まない。これまで読んだのは、かなり前、十代にE・A・ポーの作品と、だいぶ大人になって『砂の器』(松本清張)、『虚無への供物』(中井英夫)、『緋色の研究』(C・ドイル)、最近になって『ドグラ・マグラ』(夢野久作)くらいで、驚くほど少ない。少ないなりに、どれも堪能した。『ドグラ・マグラ』などは、日本の三大奇書などと言われているが、これは純文学書、思想書の傑作と言ってもいいと思う。 

読み応えのある小説は、純文学とかミステリーとかの枠を超えている。それは、大げさかもしれないが、人間の根源に迫るからだ。人間が罪を犯すときは、必ず動機がある。動機が犯罪を生むのだ。その動機の重さによって、罪の実在感が出てくる。そこに、人間というものが現れる。 

■殺人動機に血の実在感がない

その点、『不連続殺人事件』は正直、がっかりした。坂口安吾の純文学作品はあまり読んだことがないが、純文学作家ということで『事件』のように、それなりの期待を持たされたのだ。作者自身、純文学の臭いを切り捨てて、推理小説の犯人当てに徹したというから、いわば謎解き推理ゲーム的なんものとして、本人も楽しんで書いたのかもしれない。実際、犯人当て懸賞を出して、発売後すぐベストセラーになったというほどだから、面白くは読める。 

しかし、それはゲーム的なストーリーの面白さであって、正直、僕にとって再読に耐えられない。殺人動機をはぐらかす方法にしても、その方法を断行するだけの人間の実在感が描けていない。作者自身がそのことを捨てたわけだからだ。犯行を犯す人物に血も肉も感じられないから、動機に重みがない。将棋盤の上で、この駒はこういう役が付いているからこう動く、というのと同じ感覚でもって次々と殺人が起こるから、本当の殺人動機にならない。だから、誰でも犯人になりうるし、逆に誰が犯人になるか、いくらでもはぐらかすことができる。今でいえばスマホアプリの画面上で、まさに推理ゲームの中で人間を動かすようなものだから、種明かしがわかっても、何ら面白みも知的快感もない。 

江戸川乱歩までが絶賛、ほかの名だたる推理作家も激賞しているが、残念ながら僕は落胆した。推理小説は、読んで面白ければいいわけで、人間の存在感などという面倒くさいことをいう方がおかしいと言われるかもしれない。面白いか、面白くないか。安吾は楽しみながら書いたというから、まあ、あまりムキになるほどではない。が、やはり人間がきちんと描けていないとなると、単なる2次元(小説原稿、将棋盤、ゲーム画面)上のものでしかなく、本当の動機にもならない。動機が本当らしくなければ、そもそも犯人が当てられるわけもない。そこのところが、作者の思うつぼかもしれないが。

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40年目のアリ・猪木戦 ~ 刃物のごとき拳に立ち向かう真剣蹴り

2016-07-08 01:17:22 | 芸能・映画・文化・スポーツ

モハメド・アリ氏が亡くなって1ヵ月ほどになる。僕は今でも、アリ氏死亡の特集番組「アリ・猪木戦」を思い出す。

僕自身は、「アリ・猪木戦」をリアルタイムで見た世代だ。当時、どんな決着になるか興奮して見ていたものだが、試合結果は「世紀の茶番」とか「世紀の凡戦」とか酷評されたように、僕ら自身も正直、落胆させられた。いくらプロレス技封じのがんじがらめのルールにしても、アントニオ猪木なら派手な決着を見せてくれるだろうと、みんなが期待していたのである。

「猪木はチキン(臆病者)だ」というのも、そうなのかとさえ思った。なにしろ、15ラウンド、ほとんど寝てばかりいたのだから。試合後、アリは猪木の何十発ものキックを脚に受けた影響で入院、ヘビー級世界タイトルマッチも延期せざるをえなかった。猪木もつま先の骨にヒビが入っていたということで、その真剣勝負らしさは知ったけど、あれから40年間、もどかしさが残っていた。

そして、1ヵ月前の録画試合である。録画を見だしているうち、僕は背筋が凍る思いがした。確かにルールの縛りがあったのは再確認できた。しかし、アリのグローブを見て仰天した。グローブが、拳より少し大きいだけだったのである。これは、リアルタイムの試合では気づかなかったことだ。

プロボクシングのグローブというのは、どの階級の選手も風船のように大きく膨らんだものをはめている。オンス(重量)が大きいほど、風船のように大きく、したがってそれだけグローブの中がクッションとなって、当たってもダメージが小さくなる。しかしアリはこの時、通常、ヘビー級の選手がはめる10オンスのグローブではなく、4オンスのものをはめていたのだ。

これもアリ側のゴリ押しのルールだったのだろう。あんなに小さなグローブでは、ほとんど生の拳並みの威力があるだろうし、さらに両拳をぎゅうぎゅうにバンテージで固めていたという。まさに鉄の塊の拳というより、真剣の刃だ。ヘビー級のボクサーがこんな拳で振り回したら、かすっただけでも一太刀で斬殺されるほどのダメージだろう。

実際、猪木自身の解説によると、額をかすっただけで、試合後大きなコブになっていたという。僕は、これを知って、この試合がとんでもない真剣勝負だと悟った。猪木はあの寝技戦法しかなかったろう。アリにしても、猪木の技を警戒したからこそ、深入りしなかった。まさに一触即発、アリのパンチか猪木の技か、勝負は瞬間に決まるはずだった。

そういう状況で見ると、ハラハラ、ドキドキの迫力は並大抵ではなかった。誰が「茶番」だ、「凡戦」だと言ったのか。まったく勝負のすごさをわからない大人たちだった。僕はまだ少年だったから、ドンパチ、バタンキューの派手なプロレスこそ真剣勝負だと疑わなかったのだが、40年後の時間を経て、真剣の勝負に酔っているところだ。本当の勝負というのは、決して派手なものではない。

総合格闘技が日本でも興り始めたころ、あまりの地味さに最初は見る気もしなかったが、真剣勝負であることがわかってくると、その迫力にハマってしまった。「アリ・猪木戦」も格闘技を見る目が肥えていないと、地味でつまらない「茶番」「凡戦」でしかない。しかし、40年前のあの勝負は、一流の格闘家であれば誰でも、試合のすごさを思い知ったのではないだろうか。

今では、この試合の「名誉回復」がすでになされていることだけが救いだが、今初めて録画を見た人が、表面的な動きだけを見て、やはり「茶番」「凡戦」だなどと思わないでほしいと思うばかりである。

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「若冲展」に思う ― 車椅子の人には至高作品を鑑賞できない日本の美術館

2016-05-24 00:59:14 | 文学・絵画・芸術

 「若冲展」は、前回開催(2009年・東京国立博物館)の時に見てきました。あの時も入館まで1時間以上待ちましたが、今回(東京都美術館)は平日でも3時間、4時間は当たり前ということで、開催は今日(24日)までだったのに諦めました。なにしろ前回、入館してからも満員電車並みで、前に進めないのです。係の女性が「止まらずに進んでください」と言っても、一番前が人で埋まっているので動きようがありません。仕方なく僕は、2層3層後ろのゾーンに下がって遠目で見て回りました。 

なんといっても、’白い正装の貴婦人’というべき純白の鳳凰「老松白鳳図」(ろうしょうはくおうず)のエロティシズムの極致に、くらくらとめまいがしたのを覚えています。女体でありながら鳥、鳥でありながら女体、その艶めかしさ・・・。 

当時の感想はその時のブログを読んでもらうとして、すごく気になったことがあります。前のブログにも書きましたが、観客の中に、車椅子で来られている人が何人かいたのです。健常の僕らでさえ、人の頭越しでしか見えないのに、車椅子の人の視線の高さでは、人々の丸腰の行列しか見えなかったでしょう。ここは日本を代表する博物館です。これでは、車椅子の人は作品を鑑賞することはできません。実際、その方々は展示作品の後方で諦めたように、ただ呆然として車椅子に座っていただけでした。 

若冲の作品だけではありません。この博物館では毎回、世界・日本中の最高レベルの芸術品を公開しています。なのに、いつも車椅子の人は、じっくり鑑賞できないのです。何か申し訳なく思いました。僕はよく美術館に行きますが、バリアフリーは当然として、せめて混雑時期には、障害のある方優先の一定の鑑賞時間帯(開場直後または閉場間際のわずか30分でも)をつくるなり、最前列に車椅子用の通行路(スロープなど)を設置するなりすればいいといつも思います。これは、ほかの美術館の人気開催展でも同じです。これで本当に日本の誇る美術館といえるのか・・・。 

ここしばらく上野の森に行ってないので、今はどうなのか? 変わっていないのだろうか? 世界でも最高峰の芸術を車椅子でも鑑賞できるようにしてもらいたいものです。

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誰の心の中にも、マーニーはいる ~深層心理にみる『思い出のマーニー』の世界~

2016-01-31 19:44:30 | 芸能・映画・文化・スポーツ

『思い出のマーニー』が今年度のアカデミー賞「長編アニメ賞」にノミネートされました。本稿はアニメ作品を昨年見て、いつか書こうと思っていたことをこの機会に書いたものです。文中には、結末を示唆するいわゆる「ネタバレ」があります。映画未鑑賞の場合はご了承ください。 

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●不思議な意識の物語 

『思い出のマーニー』は、不思議な物語である。 

この映画を見た時、これは心の物語だと思った。深層心理が現実へと現れたイメージの世界だと。こういうものを見ると人は、これは架空のものだから起こりえないと言うだろう(原作は児童小説)。あるいは、通常の意識では説明できないから、精神の一種の病からくる幻想だろうと思う。 

例えば、ドッペルゲンガ―というものがある。自分(私)とまったく同じなりをした人間が眼の前に現れ、自分と同じように歩き、友人と語り、飲み食いしたりする。相手はこちらに気が付かず、いかにも自分と同じことをしているのだ。 

―― あいつは、俺か?

その者は、ツケで飲んだり食ったり、賭け事をし、借金を重ねていく。そいつの後をつけて行くのだが、いつも姿を見失ってしまう。いつか正体をつかんでやろうと思えど、その自分の分身と目が合った瞬間から数日後に、本人(私)は死んでしまうという。これは、ドストエフスキーの作品『分身』にも出てくる。今では一種の精神現象としても扱われるが、「マーニー」の物語は最初、それを思わせる。 

マーニーと杏奈(アンナ)は同じ年頃の少女だが、外見は違う。顔も違うが、互いを大好きな友として必要とし、互いを生き写しの自分のように見ている。それは少女期に同性を愛し、自己と同一化(分身)する気持ちに通じる。でもマーニーは、現実の存在ではない。少なくとも、杏奈とともに過ごした金髪の美少女マーニーはその時、現実には存在していなかった。しかし、現実の物や建物、風景はそこにあった。 

現代の脳科学では、長い時間のうちに、人は自分の思い望むように意識や記憶をつくり変えていく機能があるそうだ。(「記憶にございません」と答弁する政治家は、それほど時間がたたないうちにその機能が都合よく働いているのかもしれない。) 

この作品で、杏奈が少女期に一緒に過ごしたマーニーは、幼少期(人の顔も覚えられないほどの幼児の頃)に自分を育ててくれた祖母であり、祖母のこころの語りが、杏奈の深層意識にマーニーという少女を育ませた、というのが順当の解釈であろう。簡単に言えば、杏奈は、自分の祖母(マーニー)が少女だった頃のイメージとひと夏の幻想世界を生きたのだ。 

ただ、こういう解釈だからといって、杏奈とマーニーの不思議な世界が解明されたわけではない。なぜ、杏奈はマーニーと現実世界のように生きることができたか。単なる幻想や想像の世界に、杏奈の意識が遊んでいたのか。 

●少年少女期に誰にも存在する「私」という友だち

ここで、深層心理や脳科学による解釈をこれ以上するつもりはない。先ほどの「分身」のような病理的な現象に近いことは、少年少女期にはたまにあることなのだ。しかも、それが成長して記憶となっていく過程において、脳は事実と幻想を溶解して、その人の成長に必要なものとして醸成していく。 

思い起こせば、僕の心の中にもある。そして、きっとあなたの心の中にもあるだろう。少年の頃、僕のそばにはいつも「白い少女」がいた。その少女は、どこから来たのか、どうやって去って行ったか分からない。けれど、気が付くと時々僕のそばにいた。きっと、風のように現れてきて、そして去って行ったのだ。それは、校庭だったり、路地だったり、公園だったりする。

―― なあーんだ、あんたここにいたの?

少女は道端で、僕を追いかけてきたのか、白い服とスカート、そして子供用の白いヒールを履いて、行き止まりの道でさっそうと細くて長い脚を開いてそう言った。 

さーっ、とひと吹きの風が巻いて、少女の肩の髪を揺らした。ふん、と笑みを浮かべて、彼女は消えて行った。時々、そんなふうに僕の前に現れては、消えた。 

これは、一部は現実だったし、一部はもしかしたら僕の記憶の中の出来事だったかもしれない。しかし、その鮮明さは今でも残っている。歩いていると、坐っていると、ふと気が付くと、そこに彼女がいつの間にそばにいた。そうして僕の少年時代は、その白い少女と過ごしたのだった。 

マーニーもまた、かつては存在していた。しかし、今は存在しない。しないのに、杏奈はマーニーと生き、そこにいた。 

ユング心理学を持ち出すまでもなく、これを深層意識としての映像として語るのは易しい。無意識は、現実と常に深くつながっているわけだ。かつては存在したが、今は存在しない少女(祖母)とどうして心の交流ができたのか。意識というものを、単に事実のみを認識するものと捉えるとわからなくなる。脳が、事実の順序(歴史)を超えて認識するものだと思うしかない。 

杏奈がひと夏を過ごして知ったマーニーとは、杏奈の意識が心の中に実在性をもってつくったものだということである。マーニーと生きた時間は、杏奈がマーニーという少女を求めていたからあるもので、その時の心の空洞を成長していく杏奈の意識が埋めていったのである。 

森、湖、湿地帯、屋敷、霧、雲、風、そして美しい少女――。幻想世界の背景はそろった。こうして、大人は、少年少女期の深層心理の中に、再び入っていく。

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 かぐや姫の物語 ~ 『竹取物語』に見る仏教思想

 

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人は人生航路のリスクをどう生きればいいか

2015-12-05 16:45:49 | シニア&ライフプラン・資産設計

 ●人生航路のリスクを意識する時

人は「リスク」をどういう時に最も強く意識するか? 危機や災害が目前に迫った時、あるいはまさに現実に起こっている時か。しかし、現実に危機が起こってからでは遅すぎる。

テロ、災害、事故、病気、ケガ、失業、破産、老い、そして死―。 

もしあなたが今幸せなら、その人生は順風満帆で波風立たない平和な航海であると言っていいだろう。そこには難破、漂流する原因となるものは何もない。しかし、それはないのではなく、当面見当たらないだけなのかもしれない。目前に暗礁があってもそれを感知することができないだけなのかもしれない。何の障害もなければ、なぜ人は保険に入るのか。 

今、漂流していると思ってみるといい。人生を漂流と思うのは(陳腐な譬えではあるが)今順風な人にとっては難しいかもしれない。であれば、航海と思っていただければいい。たとえ豪華客船だろうがいつ難破するかわからない。あなたはこれまでの人生でいいこともあれば悪いこともあっただろう。ずっといいことばかりの人生だって、これからは悪いことが起こるかもしれない。 

さて、幸い小さなボートがある。ボートには30日分の食糧と水が積まれている。つまり、これから嵐や鯨の大群の体当たりに遭遇しない限り、何とか30日は生きられそうだ。日除けテントもあり強い日差しでやられてしまうこともない。30日の時が流れるまでに救助の船が通りかかれば、助かる見込みはある。 

こう考えると、漂流直後にパニック状態であったのが冷静になってくる。最初は孤独であるが怖れはなくなる。しかし、孤独であることは不安でもある。不安は先が見えないから起こる。事態が見えだしてくると、不安は怖れとなり、おののきとなる。漂流とは外界との隔絶である。 

●危機を前に座して待つか?

さて、この大海原の小ボートの上で、あなたのリスクとは何か。明らかに30日経過すると飢えて死ぬことである。30日経たなくても暴風雨に遭い、ボートは破損するかもしれない。あるいはその前に孤独に苛まれて気がふれてしまうかもしれない。いや、もっと簡単に絶命できる方法はある。この絶海で、微塵でも生きる望みを諦めれば、そこで息絶えることはできるのだ。誰の助けもないのだから。いずれにしても、この30日間の状況そのものがリスクなのだ。 

さあ、どうする? ひたすら座して待つか? 何を? 救いが来るのを。海では、声を上げども声は届かず、潮で涸れて声も出ない。それでも神や仏を祈り、信仰的境地となって命涸れるまで目を閉じて瞑想状態でいられるか。 

ところで、ボートの中をもう一度見てみよう。簡易調理用のナイフがある。これで生き物を殺すことができる。海は、魚の宝庫ではないか。少しは食いつなぐことができる。さすがに海水は飲めない。だが、器に雨水を溜めることができる。そうするうち、小さな島に漂着するかもしれない。貯蔵食も切り詰めれば日を持たせることができる。つまり死は、30日後ではない。とはいえ、不慮があれば一日で死に至る。リスクを目の前にとらえられないということは、限りなく確実に死、破滅に向かっていくことなのだ。 

●リスクを目の前に現実化する

人は、この30日が10年、20年、いや30年先だとリスクとしてとらえることはできない。というより、そんな先にリスクなどないのだと思う。リスクのない人生を生きられればこんな楽で幸せなことはない。 

まず、リスクを現実化することである。漂流して30日分の食糧と水しかない。それと同じような状況をイメージ化する必要がある。何も自分が広い海の中で小舟に乗って流されているのを思い浮かべることはない。目の前に危機があるかないか、あればそれを具体的に現前化(眼前に現実として現す)ことである。 

老後の破滅はどうか。65歳からの年金が15万円であれば、月いくらで働ければいいか。働いて月15万円稼げて合わせて30万円でやっていけるなら、無理な運用など考えなくてもいい。70歳以上でも働ける会社は増えている。退職してまで人に仕えて働くのは嫌だというなら、退職後も月15万円が入る技量を身に付けておくことだ。 

―― プロでもないのに、そんなことができるだろうか。

と、思うだろうか。

あなたが40代、50代なら十分に仕事で知識と技術と経験を身に付けているはずだ。30代でも、この先それが可能である。20年も30年もやってきたことが「プロではない」で通じるであろうか。病気や事故は、それとは別に今から保険と貯蓄(と無理からぬ運用)で備えればいいことだ。 

問題は、漂流中の30日のリスクをどう生きるかだ。

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老後資金づくりでハマる心理的な罠

2015-08-23 19:29:41 | シニア&ライフプラン・資産設計

■一括受け取りと年金受け取り、どっちが得か
「2000万円を年平均5%で運用しながら毎月取り崩していくと、20年間、毎月13万円以上取り崩せますよ。公的年金と合わせれば、老後の生活費はまったく心配ありません」

あなたがまだ30~40代にしろ、まもなく定年退職するにしろ、このようにアドバイスされたら、どう考えますか?

30代や40代の人にとっては、
「だから定年までの間に運用して2000万円の資産をつくりましょう」
と言われている気がしてくるでしょう。
定年間近や退職したばかりの人にとっては、
「そのまとまった退職金で運用しながら生活余裕費にあてましょう」
と聞こえてくるでしょう。

仮に夫婦の公的年金が25万円で何とかやっていけるとして、あと13万円ほど毎月収入の上乗せがあれば、確かに老後生活は余裕があるでしょう。上のアドバイスはそこをついています。このアドバイスに従うためには、退職金は全額一括で受け取る必要があります。

「就労条件総合調査」(厚生労働省)によると、退職金の受け取り方は一時金が約7割で、年金での分割受け取りに比べて増加しています。退職所得控除など所得税課税の面で有利であることと、一時金から住宅ローン残高を一括で繰上げ返済することが多くなっていることにもよります。年金でもらうと、予定利回りが下がっている近年では、一括受け取りより総受取額が少なくなることも挙げられています。このように受け取る額に絞って比較するならば、一時金派が増えているのも頷けます。

目の前の現金は衝動的に使いたくなる
人は、目の前に思いのほかの大金を一度に置かれると、平常心ではいられなくなります。想像してみてください。現金でなくても、銀行通帳に「20,000,000」という入金額を見たら、誰でも一時的にせよ舞い上がってしまうでしょう。ましてや、長年この日を待ち続けてきたサラリーマンにとってはなおさらです。

目の前の現金というものは、1週間後、1ヵ月後、1年後の現金に比べれば、はるかに価値があるものです。今日中にどうしてもお金が必要な状況にある人にとっては、1週間後に100万円入るよりも、10万円割り引かれてもいいから、今、90万円欲しい。それが人間の経済的心理です。借金の返済に迫られている場合がそうでしょう。

逆に言えば、明日の現金よりも今日の現金はすぐにでも使いたい衝動に駆られます。仮に、そのお金が2000万円だとしたら、この人はどういう行動を起こすでしょうか。必要な支出(住宅ローン一括返済など)を済ませた後は、日を送るにしたがって落ち着かなくなるでしょう。通帳残高の金額が目の前にちらついて、この人の心理を乱します。

大金を持つことは、心の中に「特別な勘定」を持つこと
「さあ、お使いなさい」
と、お金が囁くのです。いうなれば、このお金は通常ではない、どこからか来た「僥倖」(ぎょうこう)のご褒美に思えます。日本の退職金制度では、退職金は労働賃金の後払い説が有力ですから、数十年もの労働に対する正当な賃金のはずですが、心情的には、このお金は黄金の羽根を付けた特別なお金に見えるから不思議です。

このように、僥倖的に手に入った金銭を「特別な勘定」とし区別して意識することは、「メンタル・アカウンティング」(心の会計)と言われています。心の中でそれ用の勘定科目を設定して帳簿記入するわけです。たとえばギャンブルで一儲けしたお金は、毎月の給与とは別収入として心の中で勘定書きされます。このお金を手にした人は、一夜で飲み食いに使ったりして1円も残らないことがあります。なぜなら、普段手に入らない特別なお金だから使い切ってもいいのだと。

一括受け取りの罠
高額の退職金を手にした人も同様な錯覚に陥るでしょう。まずあってはならないのが、ギャンブルと浪費です。今どきギャンブルに1000万円も2000万円も使う人がいるのかと思われるかもしれません。でも、同じようなことをしている人たちはいます。1000万円、2000万円もの退職金全額を、振り込まれた銀行窓口に行って投資に回してしまうのです。

この人は、大金を減らしたくない思いと、どう使っていいかわからない思いで窓口に相談に行きます。担当者は、冒頭の言葉のように親切にアドバイスしてくれます。

「この2000万円を年平均5%で運用しながら・・・」
「・・・老後の生活費はまったく心配ありません」

こう言われると本人は安心して、では、そのようにしてください、とお願いするでしょう。こうして退職金全額がこの銀行の投資商品に回ります。金融機関ではこれが当たり前のビジネス行為ですが、本人にとっては「ギャンブル」行為とあまり変わりません。

不確定な運用利回りで、使うお金を固定しない
まず、「何%で運用していけば、いくらずつ取り崩せる」というのはアドバイス側の理屈です。「毎月13万円取り崩したい」という当人が確定したい希望を、「20年間、年5%で運用する」という将来の不確定へと論理のすり替えがあります。そのために、「最初に全額一括で投資」することが条件となります。そもそも「年5%の運用が20年間可能か」ということでも1つの大きな命題なのに、どうしてそれをスルーして全額投資の運用まで結びつけてしまうのか。

これにより、投資額、投資商品、手数料など自身の選択の自由をすべて相手に委ねてしまうことになります。金融機関はそれがビジネスだし、当人にとっても「相手は専門家だから安心」と思うのかもしれません。投資が悪いと言っているのではなく、第三者のアドバイスを聞けば、資産運用含め老後設計全体から見た退職金の有効な活かし方がもっと見えてくるのに、ということです。

全額使い切ってしまいたい、という強迫観念
投資だけではありません。退職金を一括で受け取った人は、次から次へと買わなくてもいいものに浪費しないではいられなくなるかもしれません。まだお金を使いきれていない、そういう感覚が常に残っていたら要注意です。何しろ退職金は「特別な勘定」だからと、いつまでも思ってはいないでしょうか。

退職金は、老後長期にわたって計画的に取り崩していくべき必要なお金であることを忘れてはいけません。それができなければ、このお金は心の中にある「特別な勘定」に支配されてしまうものとなり、残高がなくなるまで使い込んでしまう強迫観念を生むお金になってしまいます。そのような誘惑的な意識に負けないだけの自信が持てないなら、退職金の受け取り方は、次のようにした方が無難です。

「退職時に一時的に必要な支出分を一時金としてもらい、残りは年金で毎月分割してもらう」

たとえ毎月継続的に入ってくるお金でも、それが生活費あるいは生活余裕費以外に頻繁に支出されているなら、あなたは「特別な勘定」を消費し尽くすという意識の病に侵されているかもしれません。

 

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可愛い「カアチャン様」、僕は戦争に行ってきます

2015-08-02 10:57:23 | 芸能・映画・文化・スポーツ

前の東京オリンピックが開催される年(1964年)、「拝啓 カアチャン様」というドラマがありました。東京オリンピックに記憶がある人は、たいてい覚えていると思います。 

戦争が始まり、軍隊に入営した野暮ったい菊松2等兵は、上官の家で働く女の人を嫁にもらいます。これがとても気立てが良く、きれいで可愛い。「カアチャン様」とは、こんな野暮な夫でも優しくしてくれる嫁さんのことです。世渡りが下手でぶきっちょの菊松はいつもこの嫁さんに助けられています。菊松は、貧しくても一生この嫁さんを大切にしたいと思います。しかし、菊松2等兵もとうとう「カアチャン様」を置いて戦地に送り込まれ、戦闘生活が始まります。「カアチャン様」への想いを抱いて・・・。

 ドラマはわざと戦争をコメディっぽく描いていましたが、小学生の僕にはそれが笑えず、菊松のドジさ、「カアチャン様」の優しさにいつも哀切を感じ、父も涙していました。 

やがて戦争は終わり、日本へ帰った菊松は、荒れた東京の土の上で、あの可愛い「カアチャン様」を探します・・・。 

 

 野暮なあなたが 好きですと

 よくぞ申して 下された

 みんなカアチャン なればこそ

 敵は幾万 ありとても

 ああ 拝啓カアチャン 俺は行く

(主題歌「拝啓カアチャン様」歌・田端義夫) 

 

この歌をネットで何十年ぶりかに聞きました。あの頃は、まだ戦争がそこにありました。

そしてまた、東京オリンピックが決まり、戦争が話題になっています。

 

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