FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『嵐が丘』 ― 小説と映画

2009-12-31 01:47:06 | 芸能・映画・文化・スポーツ
サムセット・モームの『世界の十大小説』にあげられている中で、読んだことがある作品は2つです。『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー作)と『戦争と平和』(トルストイ作)。この2つだけでも、相当の長さです(2作合わせて分厚い文庫本10冊分くらい)。ほかの作品も「大小説」というくらいですから、けっこう長いものばかりです。いずれ、これら作品を全部読んでみたいと思っていますが、なかなか時間がありません。

『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ作)も、『十大小説』のうちのひとつで、読んでみたい作品なのですが、ビデオ屋さんでブラブラしているうち、思わず同じタイトルのDVDを手にとって借りてきてしまいました。物語は、小説で読むともっと錯綜としていて、登場人物の心理もさらに深く、恐ろしく描かれているのかなと想像されますが、映画では、そこはあまり複雑にせず、映像と音楽と俳優の演技に託されています。

もうずいぶん前(1939年)のモノクロ映画ですが、この頃の名作といわれる映画は、本当に丁寧に作られています。手を抜いているところがありません。俳優の演技にしても、その存在感で演技を現実的以上のものにしています。一人の役者とて、実感のない演技はない。当時の俳優たちは、“眼”で演技ができる。と言っても、歌舞伎俳優のように、目をぎょろりとひん剥いたりはしませんけど。

登場人物の眼を見ると、その心理が語りつくされ、せりふ以上に、せりふが語られる。顔の表情は、今日のタレントのように大げさに、泣いたりわめいたり動いたりするわけではなく、深い感情が精巧な演技により静謐に映し出されています。文学作品特有の舞台向きのせりふや動作も、まったく違和感がないのです。むしろ、一場面一場面が、舞台上の劇にも見えます。

この映画の背景描写は、雰囲気として『風と共に去りぬ』と似た感じがします。キャサリン(マール・オベロン)とヒースクリフ(ローレンス・オリヴィエ)をめぐる愛憎は、スカーレット(ヴィヴィアン・リー)とバトラー(クラーク・ゲーブル)との関係を思い出します。出奔した孤児の下僕ヒースクリフが、じつは富豪の貴族の息子で、巨額の遺産を相続し戻って来て、かつての主人や恋人に“復讐”するというのは、ちょっと作りすぎている感じがしますが(小説ではもっと複雑そうです)、そのあたりは、2~3年で大富豪になるためには、当時は遺産相続くらいしかないのですから、仕方ないでしょう。

今の時代では、遺産相続を除けば、数年で巨額の財産家になるためには、事業を起こして成功するか、ハイリスクの投資をするか、あとはせいぜい宝くじに当る(といっても、当選して数千万円ですから、これだけでは富豪とはいえません)くらいしかないでしょう。

じつはこの映画を見ていて、虐げられて復讐を誓う主人公が、どのようにして富豪となって戻ってくるか、そこのところに関心があったのですが、どうも、こういう見方は、今の世相を厳しく感じているせいなのでしょうか。自分も数年のうちで財産家になれるようなヒントがあればそれにあやかりたいという、名作鑑賞そっちのけで、あさましく考えていたりしたのでした。






中年クライシス ― 男親はつらいよ

2009-12-23 17:55:21 | シニア&ライフプラン・資産設計
一時期、ユング派の臨床心理学者、河合隼雄氏の本をよく読んだことがあります。フロイトからの精神分析学のつながりと、日本学としての著作に興味があったからでした。そのエッセイ風の著作の中に、『中年クライシス』があります。

青年から中年、中年から高年へと移っていく中で、男にはさまざまな試練が襲ってきます。仕事での壁、トラブルや責任にともなうストレス。親の病気や死、介護の問題。子どもの自立と反抗。妻との感情の行き違いなど―。

まじめに生きていても、中年時期にはさまざまな波が押し寄せてきて、このまま大波に呑み込まれてしまうのでは・・・、いや、いっそう呑み込まれてしまったほうが楽かもしれない、と思うことがあるでしょう。これが、中年を襲う「クライシス」(危機)です。(何も、それは男だけの話ではないのですが。)

こうした「クライシス」を、どう乗り越えるか。私は男親として、ある程度年齢がいった我が子に対して、どう接していいかわからなくなったことがあります。何をしてやればいいか、何を話してやればいいのか。親子での会話が途絶えてしまったのです。

今まで、可愛い、可愛いと、育てているということ以上に、自分自身が我が子を通して癒されていたのです。外でつらいことがあっても、子の顔を見ると癒されるという、あれです。幼いうちは、子ども可愛さで、その笑顔を見るだけですべて解決したようなものでした。

しかし、子自身も自我を持ち始めてくると、その存在そのものが主張を持ってきます。それは一種、他人としての大人の存在です。特に、不器用な男親は、そこでうまく対応できなくなって、どう接したらいいかわからなくなる。すっかり自信をなくし、精神的に孤立してしまいます。子はすでに単なる癒しの対象ではなくなっていることに気づかされるのです。こんな関係となって、親と子、一対一の存在同士が一つ屋根の下で同居していくようになります。

うまくいく家庭もあるでしょうが、そうでない家庭もある。もちろん、こういう状況を親も子も望んでいるはずがありません。単にどうしたらいいかわからず、黙々ともがいているのです。そう、親も子も。打開策はないのでしょうか。

そうした状況を変える時機が突然やってきます。「クライシス」が最大限に大きくなって、眼の前に迫ってきた時です。夫自身の失業、妻の病気、子どもの怪我や挫折など―。河合氏によると、こういう「外敵」が襲ってきた時こそ、家族が一致団結して戦わなければ乗り越えられないのです。家族どうしが孤立してる場合ではありません。

本来、家族にはいろいろな「クライシス」があって、それでも一緒になって乗り越えていくべきものでしょう。むしろ、家族が孤立していること自体が「クライシス」なのに、本当は男親だけが気づいていなかったりします。それを知らしめるのが、ある日襲ってくる「外敵」なのです。

この「外敵」をうまく乗り越えられればいいのですが、そうでないと本当に「クライシス」に呑み込まれてしまいます。男親は大変だなと思います。しかし、そう思っているのは自分だけで、実際には、こんな男親がいて、周りの家族がいちばん大変な思いをしているのかもしれません。


『罪と罰』 の頃 ― ドストエフスキー

2009-12-08 00:33:08 | 文学・絵画・芸術
『罪と罰』(光文社文庫・亀山郁夫)を再読しました。訳者の亀山氏は、同文庫の『カラマーゾフの兄弟』の新訳をすでに出しており、今でもこの手の翻訳文庫ではベストセラーになっているようで、本屋でも平積みになっています。

『罪と罰』を今度読んでみて、学生時代に読んだ感覚と何か違うな、という思いが続いています。読んだ時代の環境によるのでしょう。当時の私は、主人公ラスコーリニコフと同じように、屋根裏部屋みたいな所に住んでいました。日経新聞の奨学生として、新聞販売店に住み込み、新聞配達をしながら、大学に通っていたのです。学費は奨学金で全額出してもらえたし、食と住については賄い付きで心配なく、配達・集金手当てをそれなりにもらっていたので、贅沢ではないけれど生活に貧窮することはありませんでした。

友人たちからは、「いいなあ、オレなんか、小遣い、親からいくらももらってないよ」と言われたものです。それに対して何とも答えようがありませんでした。「え? 仕送りしてもらっているんだろ? どちらが裕福なんだろ」と心中、反論したものでした。私は毎朝4時に起きて2~3時間の朝刊配達、そのあと眠い頭で大学に行き、講義が終われば、みんなが喫茶店や麻雀、デートや飲み会に行くのを尻目に、急いで夕刊の配達に間に合うように帰らなければならない。お目当ての彼女を誘って、付き合いのきっかけもつくりたいのに・・・。夜は、翌朝配達のチラシ折込の作業、月の下旬には日曜の集金。そうした環境で3畳間に本棚とコタツだけがある屋根裏のような部屋(イエス・キリストの死体を納める棺桶の意味があると亀山氏は指摘している)で、ドストエフスキーに読みふけっていたのです。

社会正義の実現のためには、眼の前の害ある虫けらのような人間は殺しても罪にならない――。大雑把に言えば、これが主人公ラスコーリニコフの思想です。そして、その行為が許されるのは天才である自分。これがナポレオン思想なのです。私は、若い頃、少なからずこの主人公の思想に共鳴しました。といっても、そうそう、人を殺したりはしませんけど。観念的な部分で感銘を受けたのです。閉塞状況の中、若者は自分を打開するために、自我と社会正義を強引に結びつけるものです。

今回、読み直してみて、以前ほど主人公と同期化出来なかったのは、当時に比べて、今は仕事も家族もあって、それなりにゆとりがあるからなのか? いや、相変わらず、おかね的に裕福に遠いし、こころ的にもストレスが多くて、ゆとりがあるとは思えない。もしかしたら、漠然と将来への不安はあったけれど、自分の主義で生きていこうと「野心」を持っていた当時の自分のほうが、ストレスもなく、幸せだったのかもしれない、と思えてきます。

『罪と罰』は、確かに面白い。一歩間違うと、通俗に陥りそうな面白さがある(これは、ほかの代表作にもいえる)。そこを、ドストエフスキーは、あと一歩のところで踏みとどまらせている。踏みとどまって、一段も二段も高いところへ超えていくのが、「神」の問題につながるところです。ただ、学生時代に、そんな「神」の領域につながる部分まで読みきれるものではありません。
――ああ、ラスコーリニコフか、オレと似ているなあ。今に、自分の主義、思想で生きられる時が、きっと来る。
そんな思いが、若い頃、『罪と罰』を読み進めさせた力なのです。

前より夢中になれなかったのは、「神」の問題はさておき、今では、自分が手を抜いて楽して生きようとしているせいなのだろうか、いろんな意味で。また、もしかしたら、ドスト氏の文章は、あの古臭い、古典調の、ちょっと、おどろおどろした米川正夫訳のほうがぴったり来るのかも、と思ったりもしました。

それにしても、ドストエフスキーの作品によく出てくる「どんちゃん騒ぎ」(飲み食いして大騒ぎする場面で、カーニバルと言われている)、こういう場面を書かせたらドストエフスキーは天下一品ですね。彼自身、酒好き、賭博好き、女好きのうえ、病気持ちでしたから、「どんちゃん騒ぎ」の場面になると、筆が急にヒートアップし、スピードを増し、生き生きしてきます。酒・賭け・女に狂う血が大いに騒ぐのでしょう。