ビジネス書『ザ・ゴール』は、世界で1000万人が読んだそうです。初版は、2001年ですから、もう7年たっています。最近、同じ著者(エリヤフ・ゴールドラット)の『ザ・チョイス』が翻訳出版され、書店に並んでいます。
私も、まだ読んでいなかった『ザ・ゴール』を読んでみました。「小説として読んでも面白い」とうたっていますが、もし小説としてだけで評価するならそれほど読まれなかったでしょう。著者のTOC理論(制約条件の理論)というものが、企業(工場)再建の物語に沿って(夫婦の危機の問題も絡めて)展開していくから読みやすく、そして分かりやすく理解されたのだと思います。ただ、私個人としては、小説にするより理論書としてまとめてもらったほうが逆に分かりやすい気もしたのですが、それではこれだけ売れなかったのでしょうね。
この本を読みながら、私はずっとライフプランのことを考えていました。この本の事例は工場の生産ラインの中でいかに問題を発見し、解決していくかという思考プロセスにあります。どこかに不採算のボトルネック(問題点)があり、それが工場閉鎖に追い込まれる原因となるのです。ラインのひとつひとつを全体に照らし合わせて有機的に分析し、問題を把握し、改善する。それによって劇的な効果が上がる。そのためには、従来の思考に捉われていてはだめなのです。
ライフプランのプロセスも同じではないか。人生をひとつの生産ラインとして捉える。その人生設計のどこに問題があるか。いくら裕福な家庭でも、それなりにどこか解決すべき問題があるはずです。しかし、普通は、一部を見てここが悪い、ここを直せば元に戻ると思いがちです。一時的には、それで修正されるでしょう。しかし、また行き詰まる。これは、根本的な修正ができていないからです。全体を見ていないからです。個人のライフプランでは、工場閉鎖に当るのが失業や自己破産に当ります。なんとしても、こんなことは避けたいものです。
「どうしたら貯蓄が貯まりますか」「損しないで、儲かる投資商品はありますか」「どんな住宅ローンを選べばいいですか」「相続税はどれくらいかかりますか」―。こうした質問が出るのは、ご当人が部分の知識もさることながら、人生設計の全体の知識を持ち合わせていないから仕方ないことかもしれません。だから、細かい工場の部品のような相談になってしまいます。人生を1本の生産ラインとしてみると、意外と違うところに問題があったりします。しかも、そのネックを取り除くほうが、無理な投資や返済計画を立てるよりもたやすかったりします。
工場はボトルネックを改善することで生産性を高めることができます。人生も家計のネックとなっているところを改善することで収入や貯蓄を高めることができるのです。その改善すべきところを当人に代わってアドバイスをする、それが本当のプランナーのプロのようなが気がします。ちなみに企業のゴール(目標)に対して、あなた個人の人生のゴールは何でしょうか?
処分されるペット
少年時代にペットの犬が保険所で殺されたことを恨みに、元厚生労働省の事務方トップとその妻を殺傷する事件がありました。ペットを愛する気持ちは大切ですが、だからといって人を殺していいわけがありません。
この逮捕された被告を弁護するなんて毛頭ありませんが、逆に、ペットを平気で始末するために動物管理センターへ来る人があとを絶たないそうです。この間もテレビで、飼うのに飽きてなのか面倒だからか(?)、主人に捨てられた犬や猫が、年に何十万匹も殺処分されるという特集がありました。動物管理センターに、最初から捨てる(殺してもらう)つもりで、ペットを持ち込んで来るようです。センターでは、こうした動物(ほとんどが犬)で溢れ、収容できるスペースも資金的余裕もなく「泣く泣く」(本当に職員さんは泣いているようでした)、殺処分に出すそうです。
「殺されるんですけど、それでもいいんですか・・・」と職員さんが聞くと、ペットを持ち込んだ主は「いいんです」と、粗大ゴミを持ち込むようにあっけらかんと答えていました。逆に職員さんが考え直すように促すと「なぜ、だめなんですか」と平然として反論するようでした。「ほんとにいいんですか」と、職員のほうが哀願しているようで、どちらがペットの主かわからないくらいです。
ペットはライフプランそのもの
ペットのいる暮らしは、ライフプランそのものです。ペットが買い取られ、死ぬまでの一生にかかるお金は、犬なら10年生きたとして生涯で100万も200万円もかかることがあります。買い取り費用、えさ代、ペットグッズにペット美容、ペット保険にペットホテル代、いまやペット産業は人間並み以上です。
病気したら動物病院へ連れて行き、治療してもらったり、そして、死ねば埋葬もします。動物のお墓(動物霊園)に行くと、お盆でもないのに人間のお墓がある寺よりも人や家族が来ており、供養があり、花が盛られ、拝んでいます。
動物を飼うには、ペットと暮らすには、すべてにお金がかかります。しかし、買い入れる時こそ多少予算を考えたりしますが、飼ってしまえばお金のことを考えてえさを買ったり、病院へ連れて行ったりしません。それは、人間の子どもを育てるのと同じです。生きていればお金はどこかでかかります。でも、ここでペットのいる生活がライフプランであるという意味は、お金のことだけではありません。
家族同様に暮らす、癒してくれる家族としてのペットがいるという意味でのライフプランです。飼う時は誰だってかわいいと思って買うのでしょう。なぜ、処分してもいいほど邪魔になってしまうのでしょうか。病気にかかっていたら、病人のように治療してやる、主(あるじ)になつかなくても、親が決して子を見捨てたりしないようにペットを見捨てたりはしないでしょう・・・(と書きつつ、親が子を殺したり、子が親を殺したりという、いやな世間が見えてきてしまいました)。
ペットを喪う時の病
我が家でも、つい3ヵ月ほど前に5年生きていたウサギが亡くなりました。賃貸住まいなので、なかなか犬や猫が飼えなくて、ウサギをペットとして3代も飼っていました。犬や猫ほどおリコウではありませんが、とにかくおとなしくて動くぬいぐるみというより、いるだけで「癒し係」の役をしてくれていました。馬は自分ひとり(1頭)で小屋にいると落ち着かないそうです。そこで、ウサギを一緒に入れておくと、癒されて安心するのだそうです。我が家のペットも、最大の「癒し係」でした。時には、家族の遊びおもちゃになりましたが(うちは馬小屋?・・・)。
「ペットロス」症というのは、欧米ではよく知られていますが、愛するペットが死んだとき、心に大きな穴が開き、一時期は通常の精神状態で生活できないことを言います。重症の人は、まともに社会生活ができなくなります。うつ状態になり会社に行く気がしなくなったり、実際に会社を休んだり。たいていは時期がくれば直りますが、深刻なものです。
これが人間の死であれば、周囲に十分理解されます。身内の人間が亡くなったと言えば、誰もがお悔やみを言ってくれ、香典まで包んで葬儀にも出てくれます。急ぎの仕事も代わってくれるでしょう。しかし、「うちのウサギが死んだから、葬儀をやるのでしばらく会社を休ませてください」と言ったら、頭がおかしくなったかと思われるのが現状です。私はそこまで重症ではなかったのですが、やはり、昨日までそこにいた存在が「そこに、もういない」ということを、なかなか受け入れられませんでした。
ペットというのは、家族として受け入れるものです。それは死ぬまで看取るということです。多くのペットの主にとっては、それが当たり前でしょう。動物がいる生活もライフプランと考えるべきです。それはかかる費用も含めて、それ以上にライフスタイルの重要な要素なのだと思います。
動物管理センターは、本来何らかの事情で飼い主から離れてしまい、病気やけがをした動物を引き取る所です。今は、飼い主自らがペットを捨てたり、処分してくれとそこに持ち込んできたりする。ここで処分を待つペットは、飼い主から見捨てられたとたんに名前の消えたただの動物、そして処分される死体は、焼却するためのただの「物」になってしまうのです。
少年時代にペットの犬が保険所で殺されたことを恨みに、元厚生労働省の事務方トップとその妻を殺傷する事件がありました。ペットを愛する気持ちは大切ですが、だからといって人を殺していいわけがありません。
この逮捕された被告を弁護するなんて毛頭ありませんが、逆に、ペットを平気で始末するために動物管理センターへ来る人があとを絶たないそうです。この間もテレビで、飼うのに飽きてなのか面倒だからか(?)、主人に捨てられた犬や猫が、年に何十万匹も殺処分されるという特集がありました。動物管理センターに、最初から捨てる(殺してもらう)つもりで、ペットを持ち込んで来るようです。センターでは、こうした動物(ほとんどが犬)で溢れ、収容できるスペースも資金的余裕もなく「泣く泣く」(本当に職員さんは泣いているようでした)、殺処分に出すそうです。
「殺されるんですけど、それでもいいんですか・・・」と職員さんが聞くと、ペットを持ち込んだ主は「いいんです」と、粗大ゴミを持ち込むようにあっけらかんと答えていました。逆に職員さんが考え直すように促すと「なぜ、だめなんですか」と平然として反論するようでした。「ほんとにいいんですか」と、職員のほうが哀願しているようで、どちらがペットの主かわからないくらいです。
ペットはライフプランそのもの
ペットのいる暮らしは、ライフプランそのものです。ペットが買い取られ、死ぬまでの一生にかかるお金は、犬なら10年生きたとして生涯で100万も200万円もかかることがあります。買い取り費用、えさ代、ペットグッズにペット美容、ペット保険にペットホテル代、いまやペット産業は人間並み以上です。
病気したら動物病院へ連れて行き、治療してもらったり、そして、死ねば埋葬もします。動物のお墓(動物霊園)に行くと、お盆でもないのに人間のお墓がある寺よりも人や家族が来ており、供養があり、花が盛られ、拝んでいます。
動物を飼うには、ペットと暮らすには、すべてにお金がかかります。しかし、買い入れる時こそ多少予算を考えたりしますが、飼ってしまえばお金のことを考えてえさを買ったり、病院へ連れて行ったりしません。それは、人間の子どもを育てるのと同じです。生きていればお金はどこかでかかります。でも、ここでペットのいる生活がライフプランであるという意味は、お金のことだけではありません。
家族同様に暮らす、癒してくれる家族としてのペットがいるという意味でのライフプランです。飼う時は誰だってかわいいと思って買うのでしょう。なぜ、処分してもいいほど邪魔になってしまうのでしょうか。病気にかかっていたら、病人のように治療してやる、主(あるじ)になつかなくても、親が決して子を見捨てたりしないようにペットを見捨てたりはしないでしょう・・・(と書きつつ、親が子を殺したり、子が親を殺したりという、いやな世間が見えてきてしまいました)。
ペットを喪う時の病
我が家でも、つい3ヵ月ほど前に5年生きていたウサギが亡くなりました。賃貸住まいなので、なかなか犬や猫が飼えなくて、ウサギをペットとして3代も飼っていました。犬や猫ほどおリコウではありませんが、とにかくおとなしくて動くぬいぐるみというより、いるだけで「癒し係」の役をしてくれていました。馬は自分ひとり(1頭)で小屋にいると落ち着かないそうです。そこで、ウサギを一緒に入れておくと、癒されて安心するのだそうです。我が家のペットも、最大の「癒し係」でした。時には、家族の遊びおもちゃになりましたが(うちは馬小屋?・・・)。
「ペットロス」症というのは、欧米ではよく知られていますが、愛するペットが死んだとき、心に大きな穴が開き、一時期は通常の精神状態で生活できないことを言います。重症の人は、まともに社会生活ができなくなります。うつ状態になり会社に行く気がしなくなったり、実際に会社を休んだり。たいていは時期がくれば直りますが、深刻なものです。
これが人間の死であれば、周囲に十分理解されます。身内の人間が亡くなったと言えば、誰もがお悔やみを言ってくれ、香典まで包んで葬儀にも出てくれます。急ぎの仕事も代わってくれるでしょう。しかし、「うちのウサギが死んだから、葬儀をやるのでしばらく会社を休ませてください」と言ったら、頭がおかしくなったかと思われるのが現状です。私はそこまで重症ではなかったのですが、やはり、昨日までそこにいた存在が「そこに、もういない」ということを、なかなか受け入れられませんでした。
ペットというのは、家族として受け入れるものです。それは死ぬまで看取るということです。多くのペットの主にとっては、それが当たり前でしょう。動物がいる生活もライフプランと考えるべきです。それはかかる費用も含めて、それ以上にライフスタイルの重要な要素なのだと思います。
動物管理センターは、本来何らかの事情で飼い主から離れてしまい、病気やけがをした動物を引き取る所です。今は、飼い主自らがペットを捨てたり、処分してくれとそこに持ち込んできたりする。ここで処分を待つペットは、飼い主から見捨てられたとたんに名前の消えたただの動物、そして処分される死体は、焼却するためのただの「物」になってしまうのです。

都心から、ちょっと離れた郊外の小さめの美術館にひょっこり入ると、思わぬうれしい出会いがあったりします。
御岳渓谷には、川口玉堂という日本画大家の美術館があるし、その対岸には少し小さめの御岳美術館があります。御岳美術館には棟方志功の「波乗菩薩の柵」や山下清の「長岡の花火」、高村光太郎の「手」の彫刻などがあり、人気(ひとけ)も少なく目の前でゆっくり、じっくり見ることができます(展示品は時期により変わります)。
紅葉の自然の中で、散策の途中にこうした小さな美術館に入れるのは、これはまた上野の大きな美術館と違った味わいがあって、楽しいものです。
たった一枚でも、間近で棟方志功や山下清の実物の絵を見ると、思わず足が止まってしまいます。絵にしろ、彫刻にしろ、機会があればできるだけ本物を見るように心がけています。出版された絵画集や写真で見るのもいいですが、やはり絵の具の刷け具合や、彫刻なら彫る刀の刃の入れ具合、貼り絵なら紙のちぎりや貼り具合など、画家が生の手で触った感覚がないと、息遣いが伝わってこないのです。さあっと、ひと刷けされた跡を見ると、画家がまさにそのように、今しがた筆を刷いた感覚が伝わってきます。
山下清は、生の目で見た景色がそのまま「写真」となっていつまでも脳に貼り付いていて、放浪から帰ってから、それを「見ながら」絵を貼っていったというのは有名です。画家などには、このように一度見た映像が写真となってそのまま脳裏にずっと残っている(貼り付いている)特異の才能を持つ人が多いようです。専門的な用語ではなんと言うか分かりませんが、音楽家の「絶対音感」に近い「絶対画感」とでも言うのでしょうか。山下清の絵を見ていると、そういう特質が異常に発達していたのが分かります。彼の絵が現世を超えた写真のように見えてきます。
小説家にもこれに近い「絶対文感」というべきものがあるように思います(これも専門用語があるかもしれません)。どういうものかというと、潜在脳の中にしまわれていた光景が、ペンを進めていくうちに写真や絵画、時には曲となって現前し、作家はそれを見ながら、あるいは聴きながら文章で再現していくのです(こういう経験は私にもあります)。ですから、芸術家というものは、あとで「復元」できるようにできるだけ感動できるものを潜在意識に記憶させておく(貼り付けておく)ことがよいのでしょう。
先日、場所はこの美術館から少し離れた渓谷の休憩所のギャラリーでしたが、ある女性の画家に出会いました。向原常美(むこうはら つねみ)さんという墨彩画家です。日本神話や縄文の文様、富士など自然を墨彩中心に描いています。神話や自然など、現実界を超えた世界を柔らかく暖かみのある抱擁の線で表現しています。この渓谷の近くにある酒造場のただずまいを描いた風景ですら、暖かで繊細な抱擁感を感じてしまうのです。
この女性画家のことを、私はぜんぜん知りませんでした。大きな屏風絵の『富士シンフォニー』は神話時代に存在した富士を想像させます。「神話時代の富士」というのがどういうものかと問われると、答えようがありませんが、この画家がいくつか描いている日本神話の背景に描かれるべき富士山と答えておきたいと思います。

この「富士シンフォニー」は、私はどこかで見た記憶があります。すぐにピンと来ました。久保田一竹(辻が花染めの芸術家)が織物に描いた富士山に似ています。この二人の芸術家の富士を捉える鷹揚な感覚がどこか共通しているのでしょうか。それは神話につながる潜在意識に、ずっと張り付いているものなのでしょうか。
(※久保田一竹は、世界の中で日本が誇れる芸術家で、私はその作品に非常に大きな衝撃を受けました。いつかまた詳細に書いてみたいと思います。)