FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

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三島由紀夫『豊饒の海』 ~ 最近の脳科学と唯識思想

2014-09-28 23:51:18 | 文学・絵画・芸術

 三島由紀夫の代表作は、今でも『仮面の告白』と『金閣寺』(三島由紀夫と金閣寺~永遠なる「美の鳥」鳳凰)だと思っている。それに加えて『春の海』(『豊饒の海』4部作の第1部)。 

 『豊饒の海』第4部『天人五衰』における最終場面で、僕はこれまで大きな勘違いをしてきたのではないかと思うようになった。あのような終わり方で、それまでの現実(虚構内での事実)を簡単にすべてを否定してしまったことについて、三島由紀夫への落胆というか、なかば怒りのようなものを感じたことがある。 

 それは1回目に読んだ時も、2回目に読んだ時も変わらなかった。本多繁邦は、最後の最後で青年時代に夭逝した親友、松枝清顕の恋人であった綾倉聡子(今は寺の門跡)に会いに行く。そして、かつての恋人、松枝清顕を知っているかと問う。門跡となっている聡子は、松枝という人は知らないと答える。事実からすれば、それはありえない。なぜなら、清顕と聡子は、大恋愛をしたのち、その恋愛が破れて令嬢聡子は若くして仏門に入ったのだから。 

 事実としては、確かに2人の関係はあったのだ。そこから輪廻転生の長い物語が始まっていくのだから。しかし、最終に来て、読者の期待は裏切られる。聡子の口からは、いや記憶からは、そのような事実がないということになる。これは仏教でいう「空」(唯識)の思想を思わせる。「色即是空」「空即是色」。この世の現実界はすべて実体がなく、実体がないことがこの世の現実である。門跡はその思想を現すため、あえて過去の事実を否定したのか、あるいは本当に実体のない出来事だったのか、それを作者、三島由紀夫が書きたかったのか。 

 いずれにしても、ここまで長い小説を読んできて、「それはない」と思ったものである。いくら虚構とはいえ、虚構内での事実を積み上げてきたことが最後になって「これまでのことはなしよ」と言われても、なかなか納得がいくものではない。これは小説作法にも反する。どうも割り切れなさを感じたものである。 

 ところが、それもありうると思った。人間の意識というものは記憶自体を自己に都合よく、あたかも事実としてあったように、あるいは事実をなかったように作り変えてしまうという脳の働きがわかってきた。それを考えると、聡子が何十年も門跡として生きていくうちに、自分が生きる道にふさわしくない事実に関する記憶は常に作り変えられて来たということである。

 人間には「記憶違い」ということがよくある。誤った事実を正しい事実として記憶してしまう。最近の脳科学の面からすれば、「空」の思想を持ち出すまでもなく、存在していた事実は存在していなかった事実として記憶されることがある。もちろん、三島が書きたかったのは、そんな脳科学の話なんかではなく、この世の「空」と美意識を書きたかったのだ。 

 いま在る事象は、時間とともに転変変異し、実体を失くし過去への忘却として消滅していく。この世に実体はない。無いということが実体なのである。そのあるかないかの実体の中に美が存在する。・・・・と、書くと、何のことかさっぱりわからなくなるが、ストーリー自体は、さすが三島由紀夫の筆になると、1つの傑作として面白く読める。しかし、輪廻転生物語を現代に持ってきたところで、どうも、作品全体が軽くなってしまったような気がしてならない。もっとも、輪廻思想が作品全体の原動力だから、致し方ない。 

 本当は、三島由紀夫はもっともっと、深い芸術性と思想をこの作品にこめたかったのだと思う。しかし、死が、間近に迫った死の決行が、やはりそれを許さなかった。死を前にして書き急いだ感がぬぐえない。それが残念でならない。脱稿した原稿を編集者に渡した直後、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺した。この最後の作品と同様、三島自身もあるかなきかの美意識としてその存在を完結しようとしたのだ。

 

 



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