野老の里

奥武蔵をメインに日帰りの山歩きを中心としたブログです

あの日

2012年03月11日 | tokoroの日常
あの日、僕は福島にいました。

祖父の葬儀も無事終わって年金や相続の手続きに取り掛かっている最中でした。
本当はあの日、祖父の戸籍を取りに富岡町まで行く予定でした。
でも祖母が病院に行く日だった。
だから祖母を病院に送っていくため、富岡町へ行くことはありませんでした。

もしあの日富岡町へ向かう常磐線に乗っていたら…?

タクシーに乗って病院へ向かうところで地震に遭いました。
小学生くらいの女の子たちがタクシーの横を歩いていて、突然悲鳴を上げたのを覚えています。
ゴーッという音とともにタクシーが遊園地のアトラクションのごとく上下に揺れて、
周囲のブロック塀が軒並み倒れてきました。
電信柱が見たことの無いくらいに激しく揺れていました。
僕は祖母の手を握って「大丈夫だから大丈夫だから」と繰り返し呟いていました。
大丈夫なんてことは言えるはずもなかったのだけれども、そう言うほかありませんでした。
祖母は八十云年生きてきてこんなに揺れたのは初めてだと驚いていました。

病院に着くと中でも大騒ぎで職員さんたちが後片付けをしているところでした。
祖母の診察を待つ間も断続的に続く余震。
そしてこのときは気付かなかったのだけれども、周囲一帯は停電となっていたのでした。
でも病院内は自家発電で電気は来ている。だからテレビで津波が押し寄せる様をただ呆然と見つめていました。

診察が終わり、薬局で薬を貰うといつもは電話でタクシーを呼ぶことにしていました。
しかし全く電話は通じません。もちろん僕の携帯も通じない。時間だけが過ぎていきます。
そこで思い切って歩いて帰ることにしました。
祖母の手を引いて停電で渋滞する道路を歩く。
そのとき雪が降ってきました。
僕らは知らなかったのです。原子力発電所で事故が起きていたことを。いや知っていても歩いたことでしょう。
とにかく放射能にさらされることなどお構いなしに歩き続けました。

家に着くと母と伯母は無事で、ただ家の中は生花が倒れてぐちゃぐちゃになっていました。
とりあえず片付けていると近所の人が駆けつけてくれました。
その人のアドバイスで風呂一杯に水を溜めておき、遅ればせながら電池や懐中電灯、携帯ラジオなどを集め始めました。
近づく夕暮れ。普段なら雨戸を閉めて寒さを防ぐところなのですが、余震で閉じ込められるのが怖いと雨戸は閉められません。
食事はとりあえず止まった冷蔵庫の中身を食べてしまおうと色々出してきました。
幸いにもガスはプロパンで普段どおりに使えば一ヶ月くらいはもつはず。
久しぶりにロウソクの炎の下で食事をしました。
食事が終わると各自の部屋から掛け布団と毛布をもってきます。
余震の怖さがあるので、1階の居間で皆で眠ることにしたのです。
布団にも入れず、狭いコタツに皆で潜り、ラジオが伝える被害や原発事故の状況を聞きながら一夜を過ごしたのでした。


でも本当に大変だったのは地震当日よりもそれ以降ライフラインが復旧し、
物資が行き渡るようになるまでの間だったように思います。
以降のことはいずれ何かの機会に語ることがあるかもしれません。

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