現実という巨大で複雑な物質世界のなかで、
宇宙という想像を絶する巨大な空間のなかで、
宇宙のかたすみの、
地球というゴマつぶのような天体のなかに住む、
ちょっとしたことですぐ、
壊れてしまう身体をもった一人の人間が、
その脳のはたらきから生まれた、かすかな心を司令塔にして、
どんなに長くても、1世紀を寿命(じゅみょう)として、生涯をすごし、その生涯をとじる。
こんなふうに書くのは、科学を少しバカにしてる、と言われるかもしれませんね。
ただ、私がいいたいのは、極端すぎるかもしれませんが、いまの合理的、科学的思考をそのまま鵜呑(うの)みにしてしまうと、人は物質に飲み込まれてしまう気がするからです。
現代、最低でもこの日本の社会においては、科学文明がとても力をもった社会であることに間違(まちが)いはないでしょう。
科学が力を持てば持つほど、心の価値というものが、力を失っていく、そんな気がします。
それと相反(あいはん)するのが、二千年以上の歴史をもつ、霊的伝統ということになるでしょうか。
もちろん私が勝手(かって)に、霊的伝統などという言葉で、いっしょくたんにできるものでもありませんが、細かな話しはやめます。
なぜ皆さんに、とくにこの日本において、霊的伝統がそれなりの敬意が払われながら、(私からすれば)理解されていないのでしょうか?
私たちが霊的なもの(たましい、神)にもっている不信感、疑問はそれが物質ではないということです。
だから、誰もが(たましいは)いったいどこにあるのかと、たえず聞きます。
それに対しての霊的伝統の答えは、次のようなものです。
たましい、神がどこにあるのかと、人間は聞いてくるけど、まずその前に、(あなたたちのなかで、絶対にあると信じている)物質というものは現実ではないのかもしれませんよ、(霊的伝統は)そんなふうにいっています。
私たちが、もし、晩年になって、自分の人生をふりかえったとすると、それが夢のように過ぎ去ったことに気づくでしょう。
「あっという間だぞ。」祖父はよく、そんな言葉を口にしていました。
でも、ほんとうに、夢をみていたんだということ、その夢をみていたというそのことこそが、実は現実だったんだとわかったとしても、人生の終盤においては、なんの問題もないかもしれませんね。