例えば、
親が子にあたえる警鐘(けいしょう)のようなものなら、
予言は当たらないほうがよいとういうことになります。
当然そこは矛盾します。
予言が的中(てきちゅう)すれば、
人々はその予言を信じ、熱中さえするかもしれません。
でも、
的中するということは、
警鐘の役目をはたしてないわけですから、
予言をおこなった目的からすると、失敗したということになります。
自分の予言どおりに、
身を持ち崩した子供の姿を見て、
予言があたったと喜ぶ親はいませんよね。
逆に、予言がはずれることを願うはずです。
そして、予言が逆に、警鐘という本来の役目をはたせば、
人々は予言が実現しなかったと、がっかりして、その予言のこともすぐに、忘れさられるかもしれません。
ただ、予言というよりは、
神が人間に言質(げんち)を与える、約束するということもあると思います。
予言とはちがいますが、
かならず実現するという意味では、予言のようなものではないでしょうか。
(言質を与える⋅⋅⋅約束の相手に、証拠となるような有利な言葉を残すこと)
「神との対話」(作者は二ール⋅ドナルド⋅ウォルシュ)では、
あの有名な十戒(じゅっかい⋅神がユダヤのモーゼに与えた10の戒律)は、
戒律(かいりつ)ではなく、
神が人間にあたえた言質(げんち)なのだといっています。
人間が神と出会い、
信仰にめざめたとき、
神と生きるという決心をしたとき、
神はその人が、人を殺さない、人のものを盗まないといったこと(戒律でいわれたこと)を、保証するのです。
例えば、人のものを盗むという行為は、
(その人の意思ですることなので、自己責任であると考える人が多いのは承知していますが、)
ほとんどの場合、
その境遇がさせるのであって、始めからしようと思ってする人はいません。
輪廻転生するなかで、
盗みをはたらかなかった人間は(この地球上で)一人もいない、
と聞いたことがあります。
もちろん、それは、
家族を守るため、子供を飢えさせないためのやむにやまれない行為です。
そんな境遇にいる人間からすれば、
人生のおけるさまざまな危機
(人を殺したいと思うほど、
憎んだり、人のものを盗まなければならないほど、追い詰められたりといったこと)を、
紙一重(かみひとえ)であっても、
守ってもらうこと。
つまり、
人を殺したいと、もし思ってしまったとき、
運命のように出会わないこと。
人のものを盗みたいと思うほど追い詰められたとき、
誰かが、「どうしたのですか。」と声をかけてくれるというようなこと。
それは、偶然などではなく、天の采配でしょう。
神が保証するというのは、そんなことだと思います。