叔父か亡くなる一年前ぐらいでしょうか、その叔父が私に、こんなことを言ってきました。
「俺はなんでこんな病気になったのかね?
もう、よっぱら(充分)生きたよ。こんなになって、生きるのは大変なんだ。」
叔父は、早くに母親をなくし、人知れず苦労しました。
ですから、健康には人一倍気にかけ、歳をとってからの健康維持におこたりはありませんでした。
民生委員もつとめ、社会奉仕に身を惜しむようなかたでもありません。
ただ、80歳を越えたあたりから、心臓の調子がわるくなり、そのことで少しづつ、叔父は体調を崩していきました。
そのときはもう、歩くのもやっとの状態でした。
歳をとって、衰えていくことは重々承知しているはずなのですが、自分の歩んできた道に、なんのやましさも覚えていない叔父にとって、晩年の衰え、自分でもどうすることのできない衰えは、予想外だったのかもしれません。
「人がこの世を生きるということは、多かれ少なかれ、なんらかの汚れを身に受けて、暮らしていくということだと思います。
(自分がなんのやましさもなく生きたとしても、どんな聖人だったとしても)長い人生のなかで、汚れを(身に)受けてしまうものです…
天はそれをあわれんで、その人の人生の最後にあたって、その汚れを洗ってくださるのだと思います。
(その人にとって、つらいことであっても、)病気で病(や)むことによって、(たましいの)汚れがきれいに洗われます。
病気は(罰だとか業ではなく)天の慈悲だと僕は思いますよ。」
そんなことを話しました。
叔父はそれらのことを、ただ、だまって聞いていました。
(ちょっと納得のいかない顔はしていましたが…)
後日、叔父から
「〇〇君(私)にこんなこと言われたなぁ」と、苦笑いをしながらその話をしてくださったのは、嫌々(いやいや)でも心に残ったからなのでしょうか…
今となっては、そのとき、どのような気持ちだったのか、聞くことはもうできなくなってしまいました。