赤ちゃんに興味も持ったこともなく
実際 赤ちゃんを抱いたこともなく
我母にも 「落としそうな格好で抱いている」と言われた私でした。
3才まではとても厳しく「善悪&危ないこと」を身をもって躾けました。
高校を卒業した時 家から出て行き生きていくことを私の親の卒業と決めました。
それまで 何も考えて生きてこなかった私が
親として考えた初めです。
子どもが私を親として後ろ姿を見ているであろうことを想定し
いけないと云う事をしない親に変身しました。(不完全ですが)
「いけない」と言っていたことを成長に従い一つづつ「自分で判断して自分で決めなさい」」と
私の手から離していきました。
全ての事を離してしまうのが高校卒業でした。
さて 「親」ですが
親は木の上に立って見る
その位の距離感をもっているということです。
私のような凡人には
もし 子どもに素晴らしい才能があっても見る目はないです。きっぱり
そこで考えたのは 見えないけれど「あるかもしれない才能はつぶさない」
子どもが考え決定した事には反対しない
だって そこに勝機があるかもしれない。
反対していいことは何一つない。
ただ 敗れて帰って来る場所としていよう。
なぜこんなことを今更考えたかというと
私が自分で若干自信を持っていたもので
わたしが口を出していたことがあります。
楽しい共通の趣味の範囲ですが
でも 本人は自信があったのだと思う
あとで考えると (ひそかに)頑として自信があったのだと思う
後日の作品を選ぶ会で
その作品が選ばれたそうです。
あっ 危ない 知らない間に口を出し過ぎて
芽を潰しそうだった!
でも 本人が(もう40才になろうとする大人だもの)
確固たる見る目を持っていてよかった。
木の上に立って見ているつもりが
木から下りて「それそれ」と口出していたようだ。
私はいまや若い人の「応援団」だ。
応援だって 難しいんですよ~
ちゃんと見ていて ジャストタイミングに
ツボをきちんと褒めないと いけない!!む~~む