昨日朝方、森繁久弥先生が亡くなられました。
享年96歳・・・・ まさに大往生で天寿を真っ当されたのだと思います・・・・・
ここでまた一つ、私の過去のカミングアウトになりますが・・・・・
実は私、昔は舞台中心での役者というかダンサーというか・・・ そんな事を大学卒業後10年間、東京でやっていたのです・・・・・
(ほぼ舞台専門で、ましてや結局は全く売れずで “無名” のまま、アメリカ・ニューヨークで言う “バックダンサー” レベルで終わったのですが・・・)
過去ログで映画、音楽、TVドラマなどの話に触れた時には、文面から何となくそんな感じを受けられていた方もいらっしゃるかもしれませんが・・・・・
元々は学生時代 (中・高生のころから) から音楽が好きで、映画や芝居も大好きで・・・・
で、本気で職業にしたいと思って決心を決めたのは大学生活も残り一年となった春。
もちろん両親は大反対でしたが、しかし私の決意も変わることは無く・・・・・
進みたい世界も “ミュージカル” と決めた私は、大学最後の一年はとにかくひたすら劇場と映画館通い。
特に舞台での生のミュージカルはまだ一度も見たことが無かった私が、当時の梅田コマ劇場で初めて見たのが森繁先生の 『屋根の上のバイオリン弾き』 でした・・・・・
それ以来、東宝や劇団四季を始めとしてその他でも、『ピーターパン』、『ラ・マンチャの男』、『コーラスライン』、『エビータ』、『アプローズ』、『ファンタスティックス』、『アップルツリー』、etc、etc・・・・・・・・
とにかく手当たり次第に見まくる毎日。
で、最後には四季か東宝の養成所を受験することにしたのですが・・・・・
ところが劇団四季の養成所は受験日程が大学の卒業試験と重なり受けられず、東宝だけを受けたところたまたま “合格”。
今から思えば、それ以来この世界を引退するまでの10年間は何かと東宝との “縁” が続きました・・・・・
で、東宝現代劇での養成所生活が始まると、当時、稽古場は帝国劇場の地下稽古場を使用。
毎日、帝劇へと通うようになったのですが、当然、楽屋通路などではイロイロな方をお見かけするようになり、森繁先生も何度もお見かけする事があって、スレ違い様のご挨拶 (『おはようございます』、『おつかれさまでした』の一言と “礼” 程度のご挨拶しか出来ませんでしたが・・・) 程度は何度もさせて頂きました。
でも、私達が頭を下げるその前をゆっくりと通り過ぎて行かれる・・・・・ ただそれだけなのですが、森繁先生からは物凄く大きいオーラを感じていたものです。
養成所2年目からは、先輩方とともに大部屋で帝劇や日生、東京宝塚での芝居に出させていただけるようになるのですが、残念ながら私は、森繁先生が舞台芝居から引退される最後までご一緒させていただける機会は有りませんでした。
でも、運良く森繁先生の座組みに呼ばれた者たちからは、森繁先生の末端の者達にまで向けてくださる気配りの素晴らしいエピソードを、何度も何度も、いくつもいくつも、数多く聞いて感動したものでした・・・・・
本当に今は只々、大きな喪失感を感じつつご冥福をお祈りするばかりです・・・ 合掌・・・
享年96歳・・・・ まさに大往生で天寿を真っ当されたのだと思います・・・・・
ここでまた一つ、私の過去のカミングアウトになりますが・・・・・
実は私、昔は舞台中心での役者というかダンサーというか・・・ そんな事を大学卒業後10年間、東京でやっていたのです・・・・・
(ほぼ舞台専門で、ましてや結局は全く売れずで “無名” のまま、アメリカ・ニューヨークで言う “バックダンサー” レベルで終わったのですが・・・)
過去ログで映画、音楽、TVドラマなどの話に触れた時には、文面から何となくそんな感じを受けられていた方もいらっしゃるかもしれませんが・・・・・
元々は学生時代 (中・高生のころから) から音楽が好きで、映画や芝居も大好きで・・・・
で、本気で職業にしたいと思って決心を決めたのは大学生活も残り一年となった春。
もちろん両親は大反対でしたが、しかし私の決意も変わることは無く・・・・・
進みたい世界も “ミュージカル” と決めた私は、大学最後の一年はとにかくひたすら劇場と映画館通い。
特に舞台での生のミュージカルはまだ一度も見たことが無かった私が、当時の梅田コマ劇場で初めて見たのが森繁先生の 『屋根の上のバイオリン弾き』 でした・・・・・
それ以来、東宝や劇団四季を始めとしてその他でも、『ピーターパン』、『ラ・マンチャの男』、『コーラスライン』、『エビータ』、『アプローズ』、『ファンタスティックス』、『アップルツリー』、etc、etc・・・・・・・・
とにかく手当たり次第に見まくる毎日。
で、最後には四季か東宝の養成所を受験することにしたのですが・・・・・
ところが劇団四季の養成所は受験日程が大学の卒業試験と重なり受けられず、東宝だけを受けたところたまたま “合格”。
今から思えば、それ以来この世界を引退するまでの10年間は何かと東宝との “縁” が続きました・・・・・
で、東宝現代劇での養成所生活が始まると、当時、稽古場は帝国劇場の地下稽古場を使用。
毎日、帝劇へと通うようになったのですが、当然、楽屋通路などではイロイロな方をお見かけするようになり、森繁先生も何度もお見かけする事があって、スレ違い様のご挨拶 (『おはようございます』、『おつかれさまでした』の一言と “礼” 程度のご挨拶しか出来ませんでしたが・・・) 程度は何度もさせて頂きました。
でも、私達が頭を下げるその前をゆっくりと通り過ぎて行かれる・・・・・ ただそれだけなのですが、森繁先生からは物凄く大きいオーラを感じていたものです。
養成所2年目からは、先輩方とともに大部屋で帝劇や日生、東京宝塚での芝居に出させていただけるようになるのですが、残念ながら私は、森繁先生が舞台芝居から引退される最後までご一緒させていただける機会は有りませんでした。
でも、運良く森繁先生の座組みに呼ばれた者たちからは、森繁先生の末端の者達にまで向けてくださる気配りの素晴らしいエピソードを、何度も何度も、いくつもいくつも、数多く聞いて感動したものでした・・・・・
本当に今は只々、大きな喪失感を感じつつご冥福をお祈りするばかりです・・・ 合掌・・・