飛騨国の林業地域は、高山の南部にある宮峠を分水嶺にして、飛騨川・木曽川水系を利用して尾張国白鳥湊へ運材する「南方」と、高原川など神通川水系を利用して太平洋側へ越中国東岩瀬湊へとはこぶ「北方」、さらには庄川を利用して越中国伏木湊へと運材する「北方白川郷」とに分けられるが、元禄年間より宝永〜正徳期(一七〇四〜一六)にかけてのこれらの地域では、南方で白子屋・奈良屋・冬木屋・妻木屋、北方で大岡屋。北方白川郷で久須美屋・三木屋というように、江戸商人たちの請負伐り出しが独占する勢いとなっていった。地元の村々による用材生産も、当初は榑木(くれき)六〇万挺程度の伐り出しを認められていたが、幕府は元禄一四年になってこの停止を申し渡してきた。これには村々が地元の死活問題であるとして強硬に反対し、幕府へ訴願運動を展開した結果、四年後の宝永二年には撤回されて、榑木の伐り出しが再開されている。江戸商人による請負生産では、先に見た紀文の場合と同様、他所の杣を多数引き連れて入山し、御用材はおろか、請負内容にはない売木の伐り出しまでも行い、さらには地元の反対に遭った腹いせに「目立ち候雑木は申すに及ばず、小木・苗木まで悉く伐り捨て申し候」というように、山内の木々をすべて伐り去ってしまうという傍若無人さであったという(田上一生「岐阜県林業史 上巻(飛騨国編)」)。「口山は勿論、山奥迄悉く伐り尽くす」(「御材木一件」)と表現されるほど熾烈な御用商人の出材により、飛騨国内では請負終了後の山々を留山にせざるを得ないほど、森林資源が大きな打撃を受けたのである。
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