読売新聞の「地球を読む」欄の<time datetime="2020-04-20T05:00">2020/04/20 の朝刊に</time>投稿があった。
高校生の孫達に読んで勉強して欲しい荷でここに転記し保管します。
私は、学生のころ、「科学的OOO」と言う言葉は多く目についた。その「科学的」と言う言葉を、調べ大いに役立った経験がある。
そこには「論理学」が大切であると言うことを学んだ。文章を5W1H書くことも大切であるが、その書く内容は正しくなければならない。
その正しい論文を書く場合、論理的、科学的でなければならないのです。
そこから、「論理国語」は、大切だと、孫に教えたかったのです。
さて、私は記事の内容を全然読んでいないのです。「論理国語」と言うタイトルで私が思い描いていた内容が書いてあるかが楽しみです。
私の主張は、論文は正しくなければならない。正しい論文を書くためにはどんな勉強をしなければならないのか・・・と言うことです。そうなっているかです。山崎先生は私より5歳年上ですすので86歳くらいと思いましが、お若い容姿・・・私も頑張らなくては・・・と思いました。
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「今日も雨だ、天気が悪い」という一文を読んで、これは論理的な文章であり、後段は同義語の反復だと解釈する人は、国語が分かっているとは言えない。
前段は確かに叙事的な表現だが、後段の真意は「だから鬱陶しい」「気が滅入る」という叙情的な感想だと読むのが、常識だろう。
文部科学省は、生徒の論理的な国語力の向上を目指す傍ら、主体的な表現能力の育成を図るとして、2022年度から高校国語の新しい学習指導要領を実施する。その目玉が選択科目「論理国語」の新設で、従来の名文読解の指導、教師が読み方を教え込む教育から、生徒に考えさせる教育への転換だと言われる。(筆者コメント「今日も雨だ、天気が悪い」は論理的には正しくないのです。干ばつが続いていた時、雨が降ったら天気は良いとなります。)
これには文学関係者の危惧が強く、特に近代文学の名作の軽視につながるという批判が、文学を研究する16の学会から出された。
だが、冷静に考えると、新政策の真の問題点は、その結果、夏目漱石や森鴎外が忘れられるということにあるのではない。文豪は知らなくても、正確に企業の報告書が書け、新聞記事が読める人材が増えれば、公教育の最低基準は満たされたと言えるからである。むしろ大問題は、文科省そのものが言葉の本質を正確に捉え、現場の教員に迷いない言語観と教育法を伝えているかどうかにある。(筆者コメント 山崎先生の言う通りです。)
危うさは、すでに「論理国語」という用語法自体に表れている。百歩譲ってそれを叙事的な言葉と理解しても、それと反対語の叙情的な言葉との関係は、冒頭に述べたように複雑微妙である。一方、大衆的な流行語は「カワイイ」とか「ヤバイ」とか、情緒的な述懐の氾濫を見せている折から、「論理国語」がその撲滅を意図しているなら理解できるが、そういう気配も感じられない。
何よりも文科省の言語観の浅薄が感じられるのは、生徒の表現能力を過信し、自由な発表活動を教育の中心に据えようとしていることである。人間は自由に感じたり、考えたりしたことを話すのではなく、まず言葉を与えられ、それによって物事を感じ、考える存在であることが、ここではまったく忘れられている。さらには、表現という営みが極度に安易に捉えられ、言葉を知らない乳幼児でもできる、むずかりや甘えと同程度にしか理解されていないと言うべきだろう。
乳幼児のむずかりや甘えは1対1の相手に向かい、肉体能力の届く範囲において直接的に発せられる。その際、コミュニケーションの責任はもっぱら相手にあって、乳幼児が誤解の責任を取ることはない。実は言語活動はあらゆる点でこれと正反対の構造を持ち、人に正反対の努力を求めるものなのである。
読解力向上 教育の責務
言葉は、本質的に1対1の伝達ではなく、当の相手のほかに第三の傍聴者を予定している。直接に声の届く範囲を超えて、誰が立ち聴いても分かることを理念的な目標としている。かねて私はこれを「対話」に対する「鼎話」活動と呼んできたが、言いかえれば言葉はただの発信ではなく、話者と複数の相手との共同体を作る営みなのである。
だからこそ、世間では相手の見えない書き言葉が重視され、書き言葉は無限定な相手に向けて、あたかも独り言のように書かれる。もし誤解が生じれば責任の大半は発信者が取ることになる。また、共同体の維持を目的とすればこそ、全体に通じる「正しい言葉」を使うという観念も生まれ、各個人もその言葉に従って、感じたり考えたりし始めるのである。
これだけの原則を前提とした上で、しかも文部科学省の真意も忖度しながら、今、どのような国語教育改革が提案できるだろうか。近来の動向から察するところ、文科省の本意は、実社会の役に立つ国語教育を目指す、という点にあるとみられる。文豪の高尚な叙情や哲学ではなく、簡明で実用的な文章を教えたいということではないだろうか。それなりに肯けない話でもないので、だとすれば私も言葉を業とする身の責任感から、ここで二つの実現可能な方策を提案してみようと考えた。
第一は、昔、福沢諭吉が慶応義塾の生徒に教えたこと、文章でものごとを描写させる訓練である。福沢はどこにでもある人力車を取り上げ、それを見たことのない人に分かるように文章で描けと命じた。そこには情緒も哲学も入る余地はなく、ひたすら即物的で、しかし多様な語彙の柔軟な駆使が求められる。
私はこれを現代の高校に導入するのは効果的であって、極めて容易であると考える。たとえば教室を二つに分けて、一方に風景や事物を言葉で描かせ、他方にそれを読ませて絵に再現させる。その上で両者に結果を比べさせて、異同を討論させるのである。
教師の仕事は、語彙不足の生徒に助言をすることと、最後の討論の司会をすることのほかに多くはない。一方の生徒の言葉が他方にどれだけ通じたかを計るとともに、作文力と読解力を同じ場所で同時に比較することによって、成績判定もこれまで以上に客観性を帯びるだろう。
もう一つ勧めたいのは、長い文章を要約する練習である。対象の描写が言葉による観察の力を高めるとすれば、長文要約は人の考える力が言葉を通じてどのように働くかを教える。ただの思いつきを言い捨てるのとは違って、共同体の共感と同意を得るために、人はどんな順序で考えを進めなければならないかについて教える。結論の出し方によって逆に導入部の入り方が決まり、中間部の山の高さは全文の終わり方によって変わる、といった文章の妙味を、生徒はこの勉強から学ぶだろう。
この場合も教室で必要なのは、課題文に対する性急な批判や評価ではなく、もっぱら正確な読解と要約だけである。もちろん教材は慎重に選ばねばならないが、目標はあくまでも国語力の向上にあって、生徒の自己顕示欲の刺激にはないことを忘れてはならない。その上で、ここでも生徒同士の相互比較、要約の示し合いと討論を奨励すれば、教師の負担増なしに教育効果は上がるだろう。
二つの教授方法を提案したが、どちらにとっても不可欠なのは本を読むことである。国語は「読む、書く、話す」の3要素から成ると言われるが、最も重要なのは比較の余地なく読むことである。理由は、乳児のむずかりから最も遠いのが読むことだからと言っておこう。発信は言葉がなくてもかろうじて可能だが、読み解いて理解することは言葉の独擅場である。
国民の読書量が激減していると言われる現代、せめて高校生には教科書以外の本を年に30冊、3年間で100冊を読むことを奨励することが、公教育の責務ではなかろうか。
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