逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ

2007年04月26日 | news
逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ
2007年04月26日08時01分
 晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。

 日記で詳細をきわめるのが、昭和天皇の闘病から逝去までの記述だ。
 天皇が強い意欲を示していた戦後初の沖縄訪問は、体調の悪化で中止に追い込まれる。
 87(昭和62)年9月14日、「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」。
 腸のバイパス手術を受けた天皇は国事行為や公務への復帰に執念を燃やす。しかし、ブレーキをかける卜部侍従に「突然摂政にした方がよいのではと仰せ」(88年2月9日)。そんなことなら、天皇が重篤な場合などに立てられる摂政を決めたらどうか、といらだちをぶつけている。
 88年9月の吐血以降の容体、肉親の悲しみも痛々しい。見舞った皇族から「助けてとかどうにかならないかの頻発でお気の毒の由 点滴の針も難しくなる」(11月3日)。天皇の意識が遠のいていく中、意識をはっきり保たせるために侍医団は血中アンモニアを減少させる薬剤を使用していた。「今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由 とにかく摂政の話を消すためにも意識混濁の表現は禁句と」(同29日)。肉親への反応も徐々に鈍っていく。「常陸宮同妃御参 殿下おもうさま(お父さま)と呼びかけ わずかに眼お開きか」(12月17日)
 翌89年1月7日、卜部侍従は、息を引き取った天皇の髪を整えひげをそる。「たんかにて御尊骸(そんがい)を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く」
 靖国神社参拝取りやめの理由についても記述されている。
 最後となった天皇の記者会見から数日後の88年4月28日。「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」。「靖国」以降の文章には赤線が引かれている。
 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を吐露したとみられる富田朝彦宮内庁長官(当時)のメモも同じ日付。天皇は富田長官と前後して卜部侍従にも戦犯合祀問題を語っていたことになる。そして、卜部侍従は亡くなる直前、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(01年7月31日)と記している。
 日記の随所にみられるのが、終戦記念日や原爆の日に律義に慎む天皇の姿だ。2・26事件の日もその一つだった。
 事件から41年たった77(昭和52)年2月26日。天皇は意外な言葉を口にする。「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」。天皇のトラウマの深さがうかがえる。
 忍び寄る老いとの闘いも記録されている。75年2月17日、73歳の天皇は祈年祭の最中、賢所(かしこどころ)の中で2度倒れていた。その後の新嘗祭(にいなめさい)でも卜部侍従が天皇の体を支えており、高齢の天皇に祭祀がいかに過酷になったかがわかる。
 このほか、77年7月、皇后が那須で腰椎(ようつい)骨折した際の御用邸内の様子、皇后が次第に心身の不調に陥るプロセスや天皇の心配ぶり、また石油危機では御料車の使用をためらい、行革が叫ばれた時には歴代最長寿の祝賀をやめさせるなど国民感情に気配りする天皇の姿も記録されている。
 日記は「昭和天皇最後の側近・卜部亮吾侍従日記」全5巻として、5月以降朝日新聞社から順次刊行される。

http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY200704250363.html



A級戦犯合祀が御意に召さず、侍従日記に昭和天皇の不快感

 昭和天皇に仕えた故・卜部(うらべ)亮吾元侍従の日記に、昭和天皇が靖国神社への参拝を取りやめた理由について「直接的にはA級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記されていることがわかった。

 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことは富田朝彦・元宮内庁長官の日記で明らかになったが、その事実が改めて確認された形だ。
 卜部日記は、1969年に侍従となってから32年間に及び、横書きの日記帳33冊に記されていた。日記は卜部元侍従の生前に朝日新聞社に託され、出版を予定している同社が26日に一部を公開した。
 靖国神社に関する記述は、88年4月28日の「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と、2001年7月31日の「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」の2か所。4月28日の「靖国」以降の記述には赤い下線が引かれていた。
 富田日記にあるA級戦犯合祀についての不快感と、卜部日記の戦犯合祀についての記述の日付は、ともに88年4月28日。昭和天皇は富田長官に続いて、卜部元侍従にも合祀について考えを語っていたことがわかる。
 昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後。昭和天皇がその理由を明らかにしたことはなく、A級戦犯の合祀と、三木首相の参拝を契機に政治問題化したためという二つの見方があった。
 卜部元侍従は、京大卒業後に人事院入りし、69年に侍従となり、昭和天皇崩御後も皇太后宮職御用掛として香淳皇后に仕えた。2002年3月に78歳で亡くなった。卜部元侍従の日記は既に存在が知られており、内容の一部は読売新聞でも96年2月4日付朝刊で報じている。

(2007年4月26日14時28分??読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070426i107.htm?from=main1




昭和天皇、晩年の思い克明・卜部侍従の日記明らかに

 昭和天皇の晩年の約20年間侍従を務めた故卜部亮吾氏の日記の一部が26日、朝日新聞の報道で明らかになった。日記は天皇が靖国神社に参拝しない理由について「A級戦犯合祀が御意に召さず」と記している。
 卜部氏は2001年7月31日付で「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯、直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記しているほか、「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」(同年8月15日)と書いている。
 闘病から逝去に至る記述も詳細。昭和天皇が体調不良を訴えた後の1987年9月14日には「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」と、天皇の悲願だった沖縄訪問が中止になった経緯をつづっている。(12:00)
NIKKEI NET:社会 ニュース
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070426AT1G2600E26042007.html




A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認・富田メモ委検証報告

 故富田朝彦・元宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
 同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。(07:00)

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070501ATYH3000130042007.html





都知事が自衛隊出動要請の遅れに再度言及

 東京都の石原慎太郎知事は27日の定例記者会見で、阪神大震災発生時の兵庫県知事の対応について「自衛隊の出動がもう少し早ければ、いろんな形での(被災者の)救済はできたと思う。内閣官房にも責任はあるが、知事の(出動)要請は遅れました」と述べた。

 石原知事は当選後の今月8日の会見で「首長の判断が遅かったから2000人余計な人が死んだ」と発言したが、この部分は「ちょっと数字が違うかもしれない」と釈明。知事選で選対本部長となった「佐々淳行さん(元内閣安全保障室長)の受け売り。詳しくは佐々さんに聞いてください」と述べた。

 その上で「崩れた現場で結局火が迫ってきて、それを持ち上げる重機がないまま人がむざむざ死んだ。だから法改正で自衛隊の判断で出動できるとなったのです」などと話した。

 8日の発言に対して、発生時の兵庫県知事だった貝原俊民氏は26日に「交信さえできなかった状況下で兵庫県に出動を少しでも早くするような力はなかった。判断の遅れではない」と反論する手記を公表している。

[2007年4月27日20時0分]
 http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070427-190632.html



石原東京都知事、東国原宮崎県知事の「東京のごう慢は復活した」に対し反論
2007/04/28 00:17
石原 慎太郎東京都知事が3選を決めた翌日の23日、宮崎県の東国原 英夫知事がウェブサイト上の日記に、「東京は創造(変化)を一旦(いったん)拒否した。東京の傲慢(ごうまん)は復活した。これで暫(しばら)く、東京は変わらない」と書いたことに対し、石原都知事は、定例の会見で反論した。石原都知事は「(東京のごう慢は復活した?)目の前に来て言えって。おれの前で言ってみろって。あまり田舎者が、東京のこと偉そうなことを言わない方がいい」と反論した。
FNN Headline
http://fnn.fujitv.co.jp/headlines/CONN00109651.html

 
新そのまんま日記!

電波知事の憂都 (04月09日 20時16分)
 一体、東京はどこに行くのだろう?行きたいのだろう?
 東京は、結局、マニフェスト不在選挙だった。「マニフェストの壊死」。東京のある種なその圧倒と後退、「実は保守の素顔」、その真実をあっさり露呈した。そんなことは百も承知だったが。改めて認識させられた。
 ドリームのある都市はいつでもどこでも保守的である。保守的であることが「夢」や可能性を際立たせる。
 それを彼は知っている。
 東京に「革命」「改革」の機運はまだまだ起こらない。起こるための決定的でかつ現実的なファクターが薄い。いや、多数の人々が薄いと感じている。いや、気付いてないのだ。もしかすると気付きたくないのかも知れない。気付きたくない人が都会に集中してくるのかも知れない。
 「革命」より「夢」や「可能性」が優先される。「夢」と「可能性」を信じるために保守であり続けなければならない街??東京。
 「改革」に気付きたくない都市、東京。
 保守であることによって理想と「夢」を、実際に「夢」が存在することを演出した街。ある意味、それが人々の理想であることが皮肉な現実である。
 選挙は、ときに、社会とその社会に暮らす人々とそれらの正体・実体を浮き彫りにする。逆に言えば、それらへの先見が選挙を制する企てと言えよう。
 東京は創造(変化)を一旦拒否した。東京の傲慢は復活した。これで暫く、東京は変わらない。日本も変わらない。それが是であるか非であるか?その検証も当面封印された。
http://www.zunou.jp/higashi/diary2.cgi

最新の画像もっと見る