靖国参拝の考察

2006年05月28日 | 政治 経済
米ジョージタウン大    ケビン・ドーク教授 

毎月訪れて、敬虔さを示せ

私は日本の近代史、とくにナショナリズム、民主主義、文化などを専門に研究する米国人学者として、靖国神社を巡る論議には長年、真剣な関心を向けてきたが、自分の意見を対外的に表明することは控えてきた。靖国問題というのは日本国民にとって祖国への誇りや祖国を守るために戦没した先人への心情にかかわる微妙な課題であり、あくまで日本国民自身が決めるべき内面的な案件だと考えてきたからだ。 ところが最近、中国だけでなく米国の論者たちが外部から不適切な断定を下すようになった。だから私も日本の自主性への敬意を保ちつつ、遠慮しながらも意見を述べたいと考えるようになった。私の意見は日本の国民や指導者が自らの判断で決めたことであれば、靖国参拝をむしろ奨励したいという主旨である。 その理由を、これまでの論議でほとんど語られてない観点からの考察も含めて説明したい。 民主主義社会の基礎となる個人の権利や市民の自由は他者の尊厳への精神的な敬意が前提となる。とくに敬意を表明する相手の他者が死者となると、それを表明する側は目前の自分の生命や現世を超えた精神的、精霊的な意味合いをもこめることとなる。 死者に対しては謙虚に、その生前の行動への主観的な即断は控え目に、という事が米国でも日本でも良識とされてきた。死者を非難しても意味が無いとということだ。ましてその死者が祖国のための戦争で死んだ先人となると、弔意には死の苦痛を認知できる人間の心がさらに強い基盤となる。その心の入れ方には宗派にとらわれない信仰という要素も入ってくる。 以上が現在の米国でも日本でも戦没者を悼むという行為の実情だろう。小泉純一郎首相の靖国参拝もこの範疇だろう。首相自身、自分の心情を強調し、政治的、外交的な意味を否定しているからだ。それに対し外部から無理やりに政治や外交の意味を押し付け参拝の中止を要求することは人間の心を排除し、民主主義の基本を脅かす事になりかねない。個人の精神の持ち方や信仰のあり方が脅かされるからだ。

だから私は挑発的と思われるかも知れないが、小泉首相に年に一度よりも頻繁に、たとえば毎月でも靖国を参拝することをまじめに提案したい。そうすれば首相は反対者の多くが主張するように戦争や軍国主義を礼賛するために参拝するのではなく、生や死に対する精神、信仰の適切な応じ方を真に敬虔に模索するために参拝していることを明示できる。その明示の最善の方法は信仰にもっと積極的になることであり、そのために儀式上どのような祈念の形態をとるかは首相自身の権利として選べばよいのだ。 首相は戦没者の慰霊には千鳥ケ淵の無名戦士の墓のような所に参ればよいという意見もある。しかし普通生きている人間が死者に弔意を表することには現世を超越した祈りがこめられる。信仰とは全く無縁の世俗的な場での戦没者への追悼では遺族にとっても重要な要素が欠けてしまう。国家としての追悼として不十分となる。 米国でもアーリントン墓地での葬儀や追悼にはなんらかの信仰を表す要素がともなうことが多い。往々にしてキリスト教の牧師らが祈りの儀式を催す。葬儀が教会で行われるのも同様だ。日本でも葬儀が寺や神社で催されるのは、別に参加者が一定の宗派の信者でなくても、死者に対し精神あるいは心情からの何かを捧げるからだろう。靖国参拝も現世を超えるそうしたなにかをともなう慣行だといえる。靖国に参拝するためには神道の主義者でも信者でもある必要はないのだ。この事実は靖国神社参拝が特定の宗教への関与ではない事を裏付けている。宗派を超えた深遠な弔意表明とでもいえようか。


ローマ教皇庁も認めた慣行

小泉純一郎首相の靖国参拝はいまや現代の政治課題にされてしまったが、その靖国問題に少し距離を置き、歴史を遡ってみよう。一般に靖国をめぐる論議は戦後だけのことと思われているが、実際には戦前の1930年代にも似た現象があった。30年代の日本といえば、多くの歴史学者は個人の自由が抑制され、とくに宗教の自由は国家神道で阻害され、なかでも日本のキリスト教徒たちの自由や権利が、靖国神社により侵されていたとみなしがちな時代である。 だが、現実はそうではなかった。日本では明治憲法で保障された宗教の自由が第二次大戦中までも保たれた。戦時の日本の政界や学会では今中次磨、田中耕太郎両氏らキリスト教徒が活躍した。そんな時代の1932年5月、上智大学のカトリック信徒の学生達が軍事訓練中に靖国への参拝を命じられたのを拒み、その拒否を同大学のホフマン学長も支持するという出来事があった。参拝が宗教の押し付けになりかねないという懸念からだ。 だが、東京地区のシャンボン大司教が文部省や陸軍省に参拝が宗教的行事かどうかを正式に問うたところ、「参拝は教育上の理由で、愛国心と忠誠を表すだけで、宗教的な慣行ではない」との回答を得た。これを受け、ローマ教皇庁は36年5月に日本の信徒に向け、「靖国参拝は宗教的行動でないため日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい」という通達を出した。 その結果、日本カトリック教徒は自由に靖国を参拝するようになったが、ローマ教皇庁が事実上の独立国家として日本政府の「靖国参拝は宗教的慣行でない」という見解をを尊重したことの意味は大きい。日本国民の自国への独自の価値観や愛国心をそのまま認めたということだからだ。日本という主権国家の内部での慣行への尊重だといえる。さらに重要なのは教皇庁が戦後の1951年にも36年の靖国参拝に関する決定を再確認し、現在に至っているという事実である。 戦後も敬虔なキリスト教徒だとされる大平正芳氏や吉田茂氏などの首相が靖国に参拝している。参拝しても神道の宗教行事への参加ではないからだ。小泉首相の参拝も同様である。私人か公人かという区分も意味が無い。米国ではブッシュ大統領がキリスト教会を訪れても公私の別はだれも問わないし、それが宗教的礼拝であっても、米国内の仏教やユダヤ教、イスラム教などの信徒達は自分たちの権利が侵害されたとみなさない。

  小泉首相の靖国参拝はA級戦犯合祀のために戦争の正当化となるからよくないという主張がある。私は靖国が決してA級戦犯だけでなく、祖国の戦争のために亡くなったすべての人たちの霊を祀った神社であり、その先人たちの行動を絶対の正確さで善か悪かを判断する立場には現代の私たちはないし、戦犯とされる人の霊に弔意を表したから、その人の生前の行動すべてに賛意を表明するわけでもない、と反論したい。 生きる人間は生や死に対し謙虚でなければならないとも思う。国家の指導者に対しては、彼らのいまの政策にいくらでも反対し、非難も出来る。だが遠い過去に死んでしまった故人の行動を非難しても、もう故人は弁護できない。死者の行動の善悪をはっきり断定できるほど、私たちが完璧だとも思えない。戦没者への弔意表明に関する限り、過去の戦争の是非のような判断は未来の世代、次の世界、あるいは神にゆだねることが適切だと思う。 米国では南北戦争で敗れた南軍将兵の墓地が連邦政府の資金で保存され、政府高官を含めて多数の米国人が訪れる。国立アーリントン墓地にも一部の南軍将兵が埋葬されているにもかかわらず、歴代大統領が訪れ、弔意を表す。南軍はアメリカ合衆国に敵対し反乱し、しかも奴隷制を守るために戦った軍隊だった。 小泉首相の参拝反対への理屈をそのまま使えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは南軍将兵の霊を悼むことになり、奴隷制を正当化することともなってしまう。だが、米国大統領も国民の大多数もそうは考えず、戦没者のすべてが子孫からの敬意を受けるに値すると判断し、実際に弔意を表するのだ。日本側でそう考えたとしても、どんな支障があるのだろうか。


慰霊への干渉は不当  

中国政府が小泉純一郎首相の靖国神社参拝を軍国主義や戦争の美化に結びつけて非難することは余りにも皮肉な倒錯である。いま中国が異様なほど大規模な軍拡を進めていることは全世界が知っている。その軍国主義の中国が日本の首相の神社参拝をとらえて、軍国主義だと非難するのだ。 しかし他国に対する軍国主義志向や戦争美化という糾弾は、その相手側に現実の軍拡とか外国領土への侵犯、外国航空機への攻撃など実際の行動があって初めて出来るのが普通である。首相が神社に参拝するからその国が軍事的だという主張は悪い冗談のようであり、靖国をあくまで糾弾するならもっと真剣な理由を探してほしい。靖国参拝を軍国主義と結びつけるのは中国側の口実に過ぎないのだ。 中国が靖国を攻撃する背景には政治や外交の武器にするという目的以外に、信仰や宗教を脅威とみて、反発するという現実がある。中国政府は現にカトリック教徒を弾圧し、逮捕までして、バチカンを無視し、自分達に都合のよい人物達を勝手に司教に任命している。 中国政府は共産党員に主導され、共産主義者はみな公然たる反宗教の無心論者だ。共産主義の教理上、あらゆる宗教や信仰を本質としては認めないという立場であり、そもそも祈願とか参拝という概念を否定している。その非民主的な指針を民主主義の外国である日本へ押し付けようとしているのだ。その指針の適用の行き着く先は、市民の自由や人権の弾圧となる。中国政府は国の内外を問わず、信仰に関する事柄に干渉すべきではないのである。 中国は日本のA級戦犯を非難するが、東条英機氏らがたとえそんな悪事を働いたとしても、毛沢東氏が自国民2,000万以上を殺したとされることに比べれば軽いだろう。だが毛氏は死後に中国で最高の栄誉を与えられ、国民が弔意を表する。中国が日本に対して主張する理屈に従えば生前の「犯罪」のために弔意を表してはならないことになるのだろうが、私は中国人が毛氏の霊に弔意を表する権利を認めたい。外部の政府や人間の感知することではないのだ。

同様に米国民は南軍将兵の霊に、日本国民は東条氏らをも含む戦争のために死んだ人たちの霊に、それぞれ弔意を表する権利がある、ということである。だがその哀悼は毛氏や東条氏、さらに米国の場合、南軍司令官だったリー将軍が生前に全て正しい行動をとったとみなすこととは異なるのだ。米国の場合、政府も大多数の国民も、南軍将兵が不名誉な目的のための戦いで死んだとみなしながらも、彼等の霊は追悼に値すると考えるわけだ。日本の政府や国民が不名誉なことをしたかもしれない人々を含めて戦争犠牲者の先人に弔意を表すことも自然であろう。 A級戦犯とされた人たちへの追悼が侵略戦争の美化だと断ずる事は過酷に過ぎる。戦争犯罪というのはベトナム戦争などの例をみても、一方にとって犯罪が他方にとっての英雄行為になりうる。東条氏らも当時、国家の責任ある立場にあって戦争が必要だと判断を下し、自分たちが正しいとみなしたことを目指して失敗した、ということだろう。その戦争での一方が悪で他方が善という断定をいまになってまた下すことには意味がないし、誰にその資格があるのだろうか。 それよりも戦後の法的処理がすみ、講和がなされた以上、故人たちを指さし、誰が誰より悪かったのかと追求するこでなく、双方の側の戦没者に弔意を表することが最も適切だろう。私たちはみな深い罪を犯しうる不完全な人間であり、死者に対するときは崇敬と謙虚の念を抱くべきである。 米国の一部には、米国政府が靖国問題に介入し、小泉首相に参拝を止めるよう圧力をかけるべきだという意見があるそうだ。しかし日本人が自国の戦没者をどう慰霊するかに他国が介入すべきでない。自由で民主的、平和的な国の、民主主義的手続きで選ばれた政治指導者が年に一度、慰霊の場で戦没者に対し静かに頭を下げるという行為になぜ外国政府が介入すべきなのか。


ケビン・ドーク教授
1982年米国クインシー大学卒業、シカゴ大学で日本研究により修士号、博士号を取得、ウェークフォレスト大学、イリノイ大学の各助教授を経て、2002年ジョージタウン大学に移り、同大学東アジア言語文化学部の教授、学部長となる。日本での留学や研究も高校時代を含め4回にわたり、京大、東大、立教、甲南大などで学ぶ。日本の近代史を基礎に日本の民主主義、ナショナリズム、市民社会、知的文化などを専門とする。著書は「日本ロマン派と近代性の危機」(日本語版題「日本浪漫派とナショナリズム」)など産経新聞平成18年5月25~27日 総合面

ぼやきくっくり | 靖国参拝はローマ教皇庁も認めた慣行
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【靖国参拝の考察】マイケル・グリーン氏 中止要求「悪い間違い」 (産経 06/6/8)

 【ワシントン=古森義久】ブッシュ米政権の国家安全保障会議の前アジア上級部長、マイケル・グリーン氏はこのほど産経新聞との会見で、日中関係と米国の立場などについて語り、中国が日本の首相に対し靖国神社参拝の中止を要求していることを「悪い間違い」と批判し、関係改善にはまず中国側の譲歩が必要だと述べた。同氏はブッシュ政権が靖国問題に関与する意図はなく、日中間の紛争では基本的に日本を民主主義の同盟国として支持する姿勢であることをも明らかにした。

 グリーン氏は、中国政府が小泉純一郎首相の靖国参拝に反対し、日本側が参拝を中止しない限り、次期首相も含めて首脳会談を拒むとの姿勢を示していることに対し「参拝中止を日本の現在と将来の首相へのリトマス試験として突きつけており、この高圧的な要求は悪い間違い(バッド・ミステーク)だ」と述べるとともに、日中関係の改善のためには「まず中国側がただ一つの争点で関係全体を悪化させるという靖国問題への強硬アプローチを軟化させ、対日リトマス試験をやめねばならない」との見解を表明した。

 同氏はその論拠について「中国は従来の軍拡に加え、日本に対し歴史認識の押し付け、国連安保理常任理事国入りへの反対、尖閣諸島付近など東シナ海での一方的活動、潜水艦での日本領海侵入など脅威的、挑発的な行動を続けて、険悪な雰囲気をつくった上で、さらに次期首相にまで靖国に参拝するなと求めており、日本側がその要求に応じないだけでなく中国への反感を増すのは自然だ」と解説した。

 グリーン氏は中国側が首相の靖国参拝を攻撃する理由に関しては「参拝は中国側一般の神経にさわる側面も確かにあるが、中国政府は過去には首相の参拝を無視した場合も多く、日本側で防衛を強化しようとする中曽根氏や小泉氏が首相の時に激しく問題にしてくるパターンがあり、屈折した政治利用だといえる」と述べた。

 米国の対応についてグリーン氏は、ホワイトハウスをはじめとするブッシュ政権の主体が、日中関係は安定が好ましいとしながらも、日中間の靖国問題などには関与しない方針だが、対立や紛争が激しくなった場合には「日本は民主主義の価値観を共有する同盟国であり、米国は日中間で中立の立場はとらない」としてブッシュ政権の日本支持の基本路線を明確に語った。

 同氏は「米国内でもニューヨーク・タイムズの社説に象徴される左派の間には、日本が軍国主義の過去を克服しておらず、首相の靖国参拝にも反対を伝えるべきだという意見があるが、私は絶対にそれに反対だ」として、米側でのそんな動きは「中国の間違ったリトマス試験を承認するという、さらに大きな間違いであり、米国は日本よりも中国の味方をするという不適切な印象を与える」と述べた。

 グリーン氏はブッシュ大統領が「日本の首相の靖国参拝が日中関係を悪化させた」という見解を排して「日中関係は単なる神社参拝よりもずっと複雑だ」と、昨年11月に言明したことに触れて「この言明がいまもブッシュ政権の政策だ」として、靖国問題も「日本の民主主義国としての国際貢献、国内での宗教や政治など、多数の次元から多角的に判断されねばならない」と述べた。

 同氏は「日本が靖国問題のためにアジアで孤立しているという見解には同意しない」としてインドやベトナムの親日姿勢をあげ、麻生太郎氏や安倍晋三氏が民主主義を前面に出しての新たなアジア政策を語り出したことは対中関係にも有意義だと述べた。

                  ◇

【プロフィル】マイケル・グリーン

 1983年に米国ケニヨン大学卒業、94年、ジョンズホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)で博士号取得後、助教授に。その間、日本に留学、研修など。97年から外交評議会上級研究員、2001年に第1次ブッシュ政権の国家安全保障会議(NSC)アジア部長、04年1月から第2次同政権の05年12月まで大統領特別補佐官兼NSCアジア上級部長。現在は戦略国際問題研究所(CSIS)日本部長、ジョージタウン大学教授。


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